遠国奉行 (Ongoku Bugyo)

遠国奉行(おんごくぶぎょう)は、江戸以外の幕府直轄領(天領)内の重要な場所に置かれ、その土地の政務をとりあつかった奉行、役方に分類される。
大坂・京都・駿府の町奉行のほか、長崎奉行などが置かれ、その職には主に幕府旗本が任ぜられた。
老中の支配下で伺候席律令制役で、足高制は1000石から2000石と任地により異なり役料が支給されることもあった。

管轄地を奉行知行所と呼び、1868年江戸幕府が倒れると、明治政府によって江戸を含む主な9つの場所には明治初期の府の設置と変遷。
このうち江戸府は後東京府に名前を変えた。
1871年の廃藩置県までの間に、東京府・大阪府・京都府をのぞく箱館府・神奈川府・越後府・新潟府・甲斐府・度会府・奈良府・長崎府の各府は明治初期の府の設置と変遷。

京都町奉行

詳細は京都町奉行参照

老中支配であるが、任地の関係で京都所司代の指揮下で職務を行った。
京都町政の他畿内天領および寺社領の支配も行うため、寺社奉行勘定奉行町奉行の三奉行を兼ねたような職務であった。
定員は2名で、東西2つの奉行所が設置されていた。
役高は1500石で、役料として現米600石が支給された。
配下には与力20騎と同心50人が付いた。

伏見奉行

伏見城廃城後に城代に代わって置かれた。
定員は1名。
京都への入口である伏見宿及び淀川河岸を監督(大名が参勤交代の途中で勝手に入京して朝廷と接触しないように)するため、遠国奉行の中では唯一大名が就任することがあった役職である。
そのため足高制の対象になっていないが、役料として3000俵が支給された。
配下は与力10騎同心50人。
また、京都所司代や京都町奉行とのつながりが強く、京都での大事の際には支援に駆けつける事もあった。
また、寛文年間には京都町奉行が形式上伏見奉行の員外で扱われていたり、逆に元禄・文化 (日本)年間には伏見奉行が京都町奉行に統合されることがあった。
なお、小堀政方が伏見奉行の時に伏見騒動と呼ばれる事件が発生し、政方の近江小室藩が改易される事態となっている。

大坂町奉行

詳細は大坂町奉行参照

定員2名で東西2つの奉行所が設置された。
役高は1500石で、役料として現米600石が支給された。
配下は与力30騎同心50人。

駿府町奉行

駿府城下の町政の他、東海道の江尻・丸子両宿および清水港を管轄した。
定員1名。
役高は1000石で、役料として500俵が支給された。
配下は与力8騎同心60人。

長崎奉行

詳細は長崎奉行参照
長崎町政の他、オランダとの貿易も担当した。
定員は変動が多く、最初1名で、寛永10年(1633年)より2名、貞享3年(1686年)より3名、元禄13年(1700年)より4名と増員されたが、宝永以降は2名で固定された。
役高は1000石で、役料として440俵が支給された。
配下は与力10騎同心15人。

下田奉行・浦賀奉行

江戸湾に入る船舶の監視を担当した。
当初元和 (日本)2年(1616年)に伊豆国下田市に置かれていたが、享保5年(1720年)には江戸湾内の経済活動の活発化に伴って相模国浦賀に移転した。
定員1名。
役高は1000石で、役料500俵を支給された。
配下は与力10騎同心50人。
幕末期には外国との交渉の窓口となったため、増員が行われ、また天保13年(1842年)-天保15年(1844年)及び嘉永7年(1854年)-万延元年(1860年)にかけては外国船の来航に備えて下田奉行も再置され、この期間には浦賀・下田の両奉行所が並存していた。
主として会津藩士が赴任した。

山田奉行

伊勢奉行とも呼ばれた。
当初、奉行所は伊勢国山田(現在の三重県伊勢市)に置かれ、のち伊勢国度会郡小林(現・伊勢市御薗村小林)に移転。
伊勢神宮の守護と門前町の支配、伊勢、志摩における訴訟、鳥羽港の警備などを担当した。
定員は1名、元禄9年(1696年)には2名となり、江戸と現地で交代勤務となる。
役高は1000石で、役料1500俵を支給された。
配下は与力6騎同心70人水主40人。
御三家のひとつ紀州徳川家領と接していることからしばしば係争が発生し、将軍吉宗時代に江戸町奉行として活躍する大岡忠相が務めたこともあり、奉行時代の忠相の働きに感心した紀州藩主時代の徳川吉宗が、のちに抜擢したという伝説があることでも知られる。

慶長八年江戸幕府は伊勢大神宮神領地に「山田奉行所」を置いた。
外宮・内宮両大神宮の警固は勿論の事、伊勢湾・南海での異国不審船の取締りや伊勢志摩神領以外も支配したが、「日光御奉行」と同等同格の「山田御奉行」の最重要任務は「二十一年目御遷宮奉行」を取り仕切る任務であった。
そもそも「御遷宮奉行」は伊勢大神宮の祭主が兼任して居ったが、「影流始祖愛洲久忠」の父であろう「愛洲伊予守忠行」が武家として初めて大神宮神領奉行職に文明年間任じられた。
[神領奉行所は岩出祭主館跡と思われる]
江戸幕府は「愛洲伊予守忠行」の先蹤を引継ぎ、以来明治御維新迄只の一度も途切れず、源頼朝以上の「敬神敬祖」の範を示し御遷宮を行ってきた。
御遷宮に掛かる費用は平成十五年第六十一回式年遷宮で約三百二七億円と云われており、如何に歴代山田奉行が伊勢大神宮に御奉仕したかが解る。

「寛永十八年御奉行小林村に御居住したまへる以前より、孔雀丸・虎丸と謂う御船あり、享保十三年戊申五月はじめ御奉行保科淡路君如何なる故にや、虎丸の御船を大湊の沖に泛かしめ給ふ。尤も近来稀なることなり。孔雀丸は汚損せしと云へり、今御船の御公用なければ其の水主同心七十五人は常に御役所付の諸役を勤む。」と御普請役御組頭橋本市郎左衛門重永の[享保庚戌備忘録]に記されている。
(御普請役御組頭子孫 橋本石洲著 『伊勢山田奉行沿革史』に依る)

日光奉行

日光東照宮守護を担当した。
定員2名で、内1名は江戸詰となる。
役高は2000石で、役料500俵を支給された。
配下は同心36人。

奈良奉行

興福寺・東大寺など奈良の大寺院の監視とその門前町(ならまち・奈良きたまち)の支配のため設置。
定員1名。
役高1000石で、役料700俵を支給された。
配下は与力7騎同心30人。
奉行所は現・奈良女子大学の敷地内に置かれていた。

堺奉行

詳細は堺奉行参照
定員1名。
役高1000石で、役料現米600石を支給された。
配下は与力10騎同心50人。

箱館奉行(松前奉行)

北辺警護のため松前藩の領地であった蝦夷地を上知した享和2年(1802年)に設置された。
幕末には開港地箱館における外国人の応対も担当した。
定員は2名で、内1名は江戸詰となる。
役高は2000石で、役料1500俵が支給された。
奉行所は、最初は現在の元町公園(函館市元町)に置かれたが、五稜郭築城後にそちらへ移転した。

新潟奉行

天保14年に天領となった新潟市周辺の地域を支配するため新設。
設置の理由は日本海交通の要衝である新潟港の管理であった。
その後、開国に当たり新潟が開港地となったため、その重要性が増した。

羽田奉行

天保13年(1842年)に、外国船の来航に備え江戸湾の防御を固めるための政策の一環として羽田 (大田区)に新設されたが、2年後に廃止。

羽田奉行就任者

田中勝行 天保13年(1842)12月24日-天保15年(1844)5月24日

明治初期の府の設置と変遷

日付は旧暦

[English Translation]