立花ぎん千代 (TACHIBANA Ginchiyo)

立花 誾千代(たちばな ぎんちよ、永禄12年8月13日 (旧暦)(1569年9月23日) - 慶長7年10月17日 (旧暦)(1602年11月30日))は、戦国時代 (日本)の女性。

略伝

大友氏の有力家臣であった立花道雪の一人娘として誕生。
名前に含まれる『誾』の字は“慎み人の話を聞く”という意味合いを含めて父・立花道雪が名付けた。

天正3年(1575年)に家督を譲られた。
道雪の願いにより異例の女性当主となったもので、戦国時代 (日本)でもまれな例と言われる。
天正9年(1581年)、高橋紹運の長男立花宗茂を婿にしたが、関ヶ原の戦いの後、宗茂が改易されると肥後国玉名郡腹赤村(現熊本県玉名郡長洲町)に隠居し、わずか2年後にこの世を去った。
享年34。
柳川城(現福岡県柳川市)移転後に宗茂と別居(事実上の離婚)するなど、夫とは不仲であったと言われ、夫婦の間に子供はいなかった。

誾千代の菩提寺は、良清寺で、立花宗茂が、瀬高(現福岡県みやま市)上荘の来迎寺の僧で、蒲池鑑盛の孫になる応誉を招いて開かせた。
また熊本県玉名郡長洲町に彼女の物と言われる墓があり、形状から「ぼた餅様」と呼ばれている。

文政3年(1820年)には誾千代に瑞玉霊神、夫宗茂に松陰霊神の神号が贈神された。

逸話

父譲りの武勇に長けた姫という話が多く伝わっている。

宗茂が文禄・慶長の役で不在の間、豊臣秀吉は誾千代を言葉巧みに名護屋城に呼び寄せ手込めにしようとしたが、それを察知した誾千代はお付きの女中に鉄砲を構えさせて護衛させ、また自らも武装をして乗り込んだ為、それに恐れをなした秀吉は手も足も出なかったとされる。

宗茂が不在の間、城の守りは妻である誾千代が任せられていた。
そのため侍女たちとともに武装し、敵からの攻撃に備えていた。

関ヶ原の戦いで敗北した際には、居館から甲冑を着て出撃、攻め寄せる東軍を威嚇したとされている。

但し名護屋城の話など確実な史料では裏付けがとれないものも多い。

[English Translation]