松永久秀 (MATSUNAGA Hisahide)

松永 久秀(まつなが ひさひで)は、戦国時代 (日本)の武将。
大和国の戦国大名。

略歴

父は不明。
嫡男に松永久通、養子に松永永種、また弟に松永長頼がいる。

はじめ三好長慶に仕えた。
やがて三好家家中で実力をつけた。
長慶の死後は三好三人衆と共に第13代将軍・足利義輝を殺害し、畿内を支配した。
しかし織田信長が義輝の弟・足利義昭を奉じて上洛してきた。
信長に降伏して家臣となる。
その後、信長に反逆して敗れた。
文献上では日本初となる爆死という方法で自害した。

下克上を体現した典型的な戦国武将。
第13代将軍・足利義輝暗殺や東大寺大仏殿焼失の首謀者と伝えられる。
陣中にあっては女色にふけるなどした。
狡猾で傲慢不遜の「乱世の梟雄」であった。
北条早雲・斎藤道三と並んで日本三大梟雄とされる。
その一方、立ち振る舞いが優雅で容姿優れていた。
連歌や茶道に長けた教養人であったといわれる。
領国に善政を敷いた名君としても知られている。
信貴山城近郊の人々に現在でも慕われている。
またその生き様から現在にも一部に熱狂的なファンがいることで知られる。

出自

永正7年(1510年)に生まれとされるが、久秀の前半生には不明な点が多く確証はないとされている。
出身については、阿波国・山城国西岡・摂津国五百住の土豪出身など諸説がある。
商人出身という説もある。
この商人であったという説は、久秀と同世代の斎藤道三も久秀と同じような人生を歩んでいることから可能性があるとして出てきている説でもある。
俗説では久秀と道三は旧知の仲だったともいわれる。

三好長慶時代

天文9年(1540年)から細川氏の被官・三好長慶の右筆として仕える。

天文18年(1549年)、長慶が細川晴元、足利義輝らを追放して京都を支配した。
長慶に従って上洛した。
三好家の家宰となった。
弾正忠に任官され、弾正忠の唐名である「霜台」を称する。
長慶は久秀の才能を早くから見抜いていたようで、のちには自分の娘を久秀に嫁がせている。

その後は長慶に従って幕政に関与するようになった。
長慶が畿内を平定した天文22年(1553年)に摂津滝山城 (摂津国)主に任ぜられる。
永禄2年(1559年)、大和国信貴山城に移って居城とする。
永禄3年(1560年)には興福寺を破って大和一国を統一する。
その一方で、長慶の嫡男・三好義興と共に第13代将軍・足利義輝から相伴衆に任じられる。
従四位下、弾正少弼に叙位・任官する。
永禄4年(1561年)にそれまで称していた藤原氏から源氏を称するようになった。
永禄5年(1562年)、多聞山城を築城し、移り住んだ。

このように久秀は長慶の信頼を得て勢力を増加させていく。
主君・長慶は弟の十河一存や三好義賢の相次ぐ不慮の死、さらに嫡男・三好義興の死去などの不幸が重なって、年々、気力を失くしていった。
十河一存や三好義興については久秀による暗殺とも伝えられているが、これらは推測の域を出ない。
(通説によれば、一存の死因は落馬による負傷、義興が病死とされている)。

このように長慶の統率力の低下は久秀の勢力拡大をさらに助長した。
久秀は主家の実権をめぐって対立する安宅冬康(長慶の弟)を長慶に讒言した。
謀殺させた。
冬康の死去により三好家では久秀に並ぶ実力者はいなくなった。
久秀は主家を凌駕する実力を持つに至った。
永禄7年(1564年)に長慶が没すると、久秀は長慶の養子・三好義継を傀儡として三好三人衆と共に三好家を専断するようになった。

畿内の覇権をめざして

長慶の死後、三好三人衆とともに長慶の後嗣・三好義継の後見人となった。
永禄8年(1565年)には幕政を牛耳るために将軍・足利義輝を攻め殺した(永禄の変)。
さらに義輝の死後、キリシタン宣教師を追放した。

こうして畿内に君臨するようになった。
同年に弟・松永長頼が丹波国で敗死している。
さらに永禄9年(1566年)に入ると、畿内の主導権をめぐって三好三人衆と対立するようになる。
この三人衆との戦いにおいては、久秀は劣勢に立たされていた。
永禄10年(1567年)には三好三人衆とその同盟者の筒井城主・筒井順慶と上芝で戦う。
両者の挟撃を受けて敗退した(上芝の合戦)。

10月10日、三好三人衆が立てこもった東大寺を攻撃して大仏殿を焼き払った(東大寺大仏殿の戦い)。
ただし、フロイスの「フロイス日本史」には三好方のキリシタンが放火したと記述されている。
(一説には、久秀軍の将兵が三人衆の軍勢と戦っているとき、勝利の勢いのあまりに焼き払ったともいわれる)。

織田信長時代

永禄11年(1568年)9月、織田信長が上洛してくると、いちはやく降伏した。
名茶器といわれる「九十九髪茄子」を差し出して恭順の意を示した。
そのため、大和一国を安堵された。
同年12月24日には岐阜へ赴き不動国行の刀以下の諸名物を献上。
元亀元年(1570年)、信長の朝倉義景討伐に参加した。
近江国朽木谷の領主・朽木元綱を説得して味方にし、信長の窮地を救っている(金ヶ崎の戦い)。

その後も信長の家臣として石山本願寺攻めに参加するなどした。
だが次第に信長包囲網が結成されてゆくにつれて信長が不利になった。
第15代将軍・足利義昭の誘いに応じて信長を裏切った。
信長包囲網の一角に加わった。
元亀4年(1573年)3月には将軍・足利義昭と同盟して信長に背いた。
4月に信長最大の強敵・武田信玄が病死。
武田軍が甲斐に撤退。
織田軍の反攻が開始される。
7月には義昭が追放されて幕府が滅亡。
天正元年(1573年)11月には三好義継が河内国若江城で敗死する。
多聞山城を差し出すことで再び信長に降伏した。

最期

その後は信長に従って石山本願寺攻めに参加していた。
しかし、天正5年(1577年)に上杉謙信、毛利輝元、石山本願寺などの反信長勢力と呼応して信長の命令に背く。
本願寺攻めから勝手に離脱した。
大和信貴山城に立て籠もってそのまま反逆に及んだ。

信長は嫡男・織田信忠を総大将、筒井勢を主力とした大軍を送り込み、10月には信貴山城を包囲させた。
このとき所有していた名器・古天明平蜘蛛を差し出せば信長は助命すると述べたが、久秀は拒絶する。
このため、信長のもとに差し出していた2人の息子は、京都六条河原で処刑された。
そして織田軍の攻撃が始まると、平蜘蛛を天守閣で叩き割った。
(茶釜に爆薬を仕込んで自爆したとも言われている)。
10月10日 (旧暦)に爆死した。
享年68。

奇しくも、この日は10年前に東大寺大仏殿を焼き払った日と同日であった。

墓所

京都市下京区の妙恵会総墓地
奈良県北葛城郡王寺町本町の片岡山達磨寺 (北葛城郡王寺町)
奈良県生駒郡三郷町に供養塔

官歴

年月日不詳、従五位下に叙す。

永禄3年(1560年)2月4日、弾正少弼に転任。

永禄4年(1561年)2月4日、従四位下に昇叙。
弾正少弼如元。

永禄12年(1569年)

永禄12年(1569年)3月28日、『言継卿記』に山城守の記事あり。

4月3日、『多聞院日記』では、松少(松永弾正少弼の略)の記事あり。

8月20日、『多聞院日記』では、松城州(松永城州=松永山城守)の記事あり。

人物・逸話

久秀は「乱世の梟雄」として悪名を轟かせている。
将軍・足利義輝暗殺や、東大寺大仏殿の二度目の焼失の中心関与人物。
また、陣中にあっては女色にふけったともいう。
狡猾で意地汚いイメージが付き纏う。
信長は徳川家康に下記のように言って、久秀を紹介したと伝えられている。
「この老人は全く油断ができない。」
「彼の三悪事は天下に名を轟かせた。」
「一つ目は三好氏への暗殺と謀略。」
「二つ目は将軍暗殺。」
「三つ目は東大寺大仏の焼討である。」
「常人では一つとして成せないことを三つも成した男よ」。
侮辱による紹介とも、一定の評価をしていたともとれる。
実像と評価は様々であるが、久秀が戦国時代に生きた武将として下克上を体現したことに変わりはない。

信長に降伏し、その強大な軍事力を背景にして大和における国人衆を討伐するなど、政略にはかなり長けていた。

織田信長は、家臣に対して厳しい人物という評が通説となっているが、その中で久秀だけは例外的に許している。
また二度目の反逆でも平蜘蛛と引き換えに助命を考えていた節がある。
このことから、信長が一目置くほどの器量を持った武将であったとの見方もある。

城郭建築の第一人者であり、天守閣と多聞作りを創始した人物でもある。
現存する城郭建築を見ている現代の我々はさほど驚かないが、多聞櫓における城門と櫓を一体化させ防御力を飛躍的に向上させるという発想は、当時においてまさに革命的であった。
また、天守閣については嘗て多聞山城にて初めて出現したと言われていた。
だが、既に伊丹城に天守に相当する櫓が存在したことが近年判明している。
天守建築の嚆矢が久秀であったことは否定されている。
しかし、その思想を推し進め、外観上も威風堂々たる物に仕立てた為、久秀が天守建築の創始者と伝えられた可能性がある。
城郭建築遺構の更なる発掘調査や文献資料の研究が望まれる。

中風の予防のため、毎日時刻を決めて頭のてっぺんに灸をすえていた。
最期の時になって、灸の用意を命じた。
部下から「この期に及んで養生もないでしょう」と言われた。
だが、彼は言った、「いざ腹を切る時に、中風にかかったら、腹を切るに及んで臆したと思われる。
今までの武名が一時に廃れるではないか」。
灸を据えさせた後、腹を切ったという。

武将としての力量は当時高く評価された。
宿敵筒井氏の家老であった島清興が関ヶ原の戦いの際に、「今時の諸侯には明智光秀や松永久秀のような果断にかけている」とぼやいたといわれる。
このことから宿敵からも名将と一目置かれる存在であったことが伺える。
(ただ、松永氏旧臣に島氏が所属していたという説もある)。

三好一族の十河一存、三好義興、安宅冬康らが相次いで死去した理由は、久秀の暗殺と言われている。
このうち、一存と義興については病死説もあり、定かではない。
ただし冬康に関しては、久秀が長慶に讒言して殺させたという説が有力である。

義輝暗殺について首謀者ではなかったという説もある。
(ただし、嫡男の久通は義輝暗殺の実行犯である)。
大仏殿焼失についても失火説がある。
ただし、このような一連の暴虐ともいえる行為は、長慶没後の畿内では諸大名の分裂による勢力分散化が進んでいたため、久秀が畿内で覇権を握るためにはやむを得ない行為であったともされている。

領国では善政を敷いたとされる一方で、対照的な説もある。
久秀の政治は苛酷を極めた。
年貢未進などの百姓を処罰するにあたっては、蓑を着せ、火を放ち、もがき苦しんで死なせた。
この様を、「蓑虫踊り」と称して、楽しんで見物した。
そんな風であったので、彼が滅亡すると、領内の民の喜び様は一通りでなかった。
農具を売って酒にかえ、大いに祝ったとも伝えられている。

久秀は吝嗇(けち)な性質であったと、『足利季世記』にある。
「松永は分別才覚、人にすぐれる。
武勇は無双なり。
諸人これを用ゆるといへども、天性やぶさかに生れついて、大欲深し」。

日本で最初にクリスマスを理由に休戦を命じた(あるいは応じた)という珍しい記録も残っている。
それは永禄9年(1566年)のことであり、久秀が三好三人衆らと争っていた頃にあたる。

武勇知略で生きてきた久秀だが、一度だけ恐怖をあらわにしたという逸話も残る。
それは、多門城にいた頃の話である。
かつて三好長慶や織田信長などの歴代の権力者を幻術で手玉に取った仙人果心居士を招いた。
面会をした。
「自分は戦場でも一度も恐怖を味わった事がない。
そなたの術でわしを恐怖させてみよ」と豪語した。
果心居士はこれに応じた。
部屋の明かりを消し、人払いをさせた。
その後、自身の姿を一人の女人に姿を変えて久秀に近づいたという。
外ではにわかに稲妻が走り、雷雨が落ちた。
久秀の顔も蒼白した。
たまらず「分かった、もうやめよ」と声をあげた。
すると幽霊は忽然と消えたという。
実は、この女人の霊は既にこの世を去っていた妻であった。
久秀の体は小刻みに震え、止まらなかったという。

良くも悪くも個性的な彼は、映像作品においては出番は少ないものの、小説では割と取り上げられている人物である。

久秀は、医師の曲直瀬道三と親交が深かった。
現代においても参照するに足りる非常に実用的な内容を持った性技指南書を著している。
その閨房術の師が曲直瀬だったと言われている。

久秀は名器・平蜘蛛茶釜と共に爆死した。
だが、平蜘蛛茶釜と伝わる茶釜が存在する。
その由来によれば、平蜘蛛茶釜は戦乱後に城跡から出土して信長が手に入れたという。

コーエーの歴史シミュレーションゲーム『信長の野望シリーズ』シリーズでは、「義理(義理堅さ)」という引数が設定されて以来、常に松永久秀は最低値に設定されている。
また、作品によっては茶器を抱いて爆死する場面がイベントとして再現されている。
シリーズを通して謀略家、野心家として高く評価される。

その最期から2ch等で『ボンバーマン』とあだ名される事も少なくない

茶人としての松永久秀

武野紹鴎に師事しており、茶人としての交流は広い。

古天明平蜘蛛の所持者として有名。
他に九十九髪茄子(現在静嘉堂文庫所蔵)を一時所持していた。

その他にも名物を多数所持していた。
当時の茶人としての位置づけは高いものであった。

古くから三千家の祖である千少庵の父とする説がある。

子孫

俳人の松永貞徳は久秀の孫という。
儒学者の松永尺五は彼の曾孫に当たる。

実は信貴山で死なず逃げおおせ、古天明平蜘蛛を葛城山に隠し、自身は、秀吉の御伽衆になったという説もある。

[English Translation]