平賀義信 (HIRAGA Yoshinobu)

平賀 義信(ひらが よしのぶ/源 義信 みなもと の よしのぶ)は、平安時代末期の河内源氏の武将。
父は源義光の四男・平賀盛義。
諱は義宣とも。

平治の乱

信濃国佐久郡平賀郷(現在の長野県佐久市)を本拠として、平治元年(1159年)の平治の乱に、17歳の若さで源義朝に従って出陣する。
『平治物語』には平賀四郎義宣と記され、三条河原での戦いで奮戦する義宣(義信)を見た義朝が、「あぱれ、源氏は鞭さしまでも、をろかなる者はなき物かな。あたら兵、平賀うたすな。」と郎党達に救うように命じている様が記載されている。
義朝敗戦の後、その東国への逃避行に付き随った七人の一人となる。
その後は義朝と別れ地理的に本拠地のある信濃へ向かったと考えられるが、以後二十年余に渡って記録からは姿を消す。

なお『平治物語』には、佐渡式部大輔重成(源重成)と共に「従子」と記されている。
この従子は現代語訳では従兄弟と訳されることもあるが、この場合は血縁上の従兄弟ではなく「一門ではないが、近い源氏」という意味である。
また文脈から「一族同様に信頼した若武者」と解釈する向きもある。

治承・寿永の乱

治承4年(1180年)源頼朝が挙兵、更に少し遅れて源義仲が信濃で挙兵する。
この時の義信の動向は不明であるが、平家の全盛期は本拠地である信濃の佐久郡近辺に逼塞していたと考えられている。
義仲は木曾から上州に移動した後に、佐久郡丸子町依田を拠点として養和元年(1181年)6月に横田河原の戦いに臨んでいる。
この戦いで木曾衆と並んで佐久衆と甲斐衆(これは上州衆の誤記と思われる)が軍の中核となっていたことが記録に残されている。
もし佐久近辺に居たとすると平賀氏が無関係だったとは考え難い。

ただ、一時的に義仲に従ったとしてもこの戦いだけと思われ、最終的には義朝の遺児で前述の逃避行を共にした頼朝の麾下に参じる。
寿永2年(1183年)に頼朝が義仲を討つために軍を信濃に派遣し、結果的に義仲の長男源義高 (清水冠者)と頼朝の長女大姫 (源頼朝の娘)の縁組として和解している。
が、この時の頼朝軍は碓氷峠を越えて佐久郡に入り、依田城を落して善光寺平で義仲軍と対峙している。
この頼朝が義仲に対する優位性を確立した重要な争いにおいて、義仲が挙兵した場所であり、信濃における重要拠点といっていい佐久地方がほとんど無抵抗で制圧されていることから、佐久を本願地とする平賀氏の活躍があったのではと推測する向きもある。

元暦元年(1184年)3月には子惟義が伊賀国の守護に任じられ、義信自身も同年6月に頼朝の推挙により武蔵国守に任官し守護も兼ねた。
以後長きに渡って善政を敷いて国司の模範と言われた。
また文治元年(1185年)8月には惟義が相模国守となり、鎌倉に近い有力国の国司を父子で務めることになる。

また文治元年(1185年)9月の勝長寿院での義朝の遺骨埋葬の際には、義信と惟義の2人が源義隆の子源頼隆と共に遺骨に近侍することを許されるなど、義信への頼朝の信頼は最後まで変わらず、この時期の席次において源氏門葉として御家人筆頭ともいえる座を占めている。
また頼朝の乳母の比企尼の三女を妻とし、二代将軍源頼家の乳人となる。
頼朝死後も源氏一門の重鎮として、三代将軍源実朝の元服の際には加冠役(烏帽子親)を勤めている。

没年ははっきりしていないが、『吾妻鏡』の承元元年(1207年)2月20日に「故武蔵守義信入道」とあるので、それ以前であることは確実である。

源義宗猶子説

義信は初め父の従兄弟に当たる源義宗(八幡太郎義家の長男)の猶子となったと言われている。
しかし、義宗は嘉承元年(1106年)頃までには死去したと考えられるため、その37年後に生まれた義信がその猶子なったとは理論上は考えられない。
また、義宗の猶子となった義信は、この義信ではなく、義宗の弟源義親の長男の源義信であるとする説もあり、年齢的にはこちらのほうが辻褄が合う。
このため、対馬太郎義信が義宗の猶子であったという伝承が、平賀四郎義信の伝承として誤って伝わった可能性も指摘されている。

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