大石鍬次郎 (OISHI Kuwajiro)

大石 鍬次郎(おおいし くわじろう、天保9年(1838年) - 明治3年10月10日 (旧暦)(1870年11月3日))は、新選組諸士調役兼監察。
名は守親。

大石は御三卿一橋家の近習番衆 大石捨次郎の長男として生まれた。
はじめは金之助と称していた。
新撰組入隊後、暗殺を主とした任務につくことで「人斬り鍬次郎」と恐れられた。
実際に多くの任務で、その剣を振るっていたらしい。
目付役の任にもついていた。

事情により生家を出奔した大石は、武州日野市日野宿の大工のもとに住み込みで働いていた。
この大工が、名主 佐藤彦五郎に出入りしていた事で、大石は彦五郎の道場に通うようになる。
剣術はここで上達したようだ。

元治元年(1864年)6月の池田屋事件後、近藤勇が九月から十月にかけて江戸に戻り隊士募集を行った。
大石はその時入隊した。

慶応3年(1867年)6月 新選組が幕臣に取り立てられると、大石は諸士調役兼監察に任命された。

慶応3年(1867年)11月の油小路事件では、大石が伊東甲子太郎を暗殺。

また12月の天満屋事件では乱闘の斬り合いの中、紀州藩士 三浦休太郎の護衛の任務を斎藤一らと共に果たしている。

慶応4年(1868年)1月 鳥羽伏見の戦いに敗れ、大石も新選組の同志と江戸に撤退する。

近藤が甲陽鎮撫隊を組織すると、先触れとなって甲斐国に出張した。

慶応4年(1868年)3月に甲陽鎮撫隊が敗走すると、大石の消息もわからなくなった。
その後、妻子らと江戸に潜伏していたが、12月頃、懇意だった元隊士・三井丑之助に騙され捕縛される。
一説には、大石は生きるに困り、油小路で自分が殺した伊東甲子太郎の一派であった加納鷲雄を訪ね、官軍になっていた加納に仕官を懇願したが容れられずに捕縛されたとも言われるが、そのような証言の記録は無い。
加納の同志である阿部十郎の証言とも矛盾する為、小説家・子母澤寛の創作である可能性が高い。

坂本龍馬暗殺の嫌疑をかけられた大石は、厳しい詮議に耐え切れずに一度は「自分がやった」と証言するが、後に前言を撤回し見廻組の仕業であるとしている。

明治3年(1870年)10月10日 斬首。
(罪名は伊東甲子太郎の殺害) 享年32。

大正年間に古老の話をまとめた『史談会速記録』における阿部十郎によれば、大石は沖田総司らと共に何度も言及されており、新選組の中でも筆頭の脅威たる剣客だったことがうかがえる。

嫡男の雷太郎は詮議を恐れて本間歌吉と改名し、下谷稲荷町に鼈甲職の店を構えたという。

[English Translation]