大内輝弘 (OUCHI Teruhiro)

大内 輝弘(おおうち てるひろ、永正17年(1520年)? - 永禄12年11月25日 (旧暦)(1569年1月1日))は、戦国時代 (日本)の武将。
第14代当主・大内政弘の次男・大内高弘の子。
子に大内武弘。
太郎左衛門。

生涯

大内氏の一族であるが、大内義隆と対立していたため、早くから大内氏と敵対関係でもあり血縁関係でもあった大友氏を頼り、その客将となっている。
大内氏の第18代の当主とされるが、実権は既に無く、大内義長の死によって大内氏は断絶したと見るのが正しいと思われる。

永禄11年(1568年)、大友義鎮が毛利元就と豊前地域の覇権を巡って争った際、大友軍は毛利軍の攻勢の前に、一時は壊滅の危機に立たされていた。
宗麟の参謀である吉岡長増の進言により、宗麟は寄食していた輝弘に兵を与え、同年8月から9月にかけて、若林鎮興らの大友水軍を付けて、密かに海上から周防国に上陸させた。
輝弘の率いる兵力は少なかったが、水上戦では市川経好を撃破した。

大内氏の一族であったが故に周防に侵入すると、大内氏の遺臣の多くがこれに呼応した。
このため、周防国の毛利軍はその大半を北九州の戦線に投入していたため、苦戦を強いられた。
しかし高嶺城を守る市川経好夫人が、少ない城兵を指揮し、徹底して抗戦したため、輝弘は山口の大内氏別邸築山屋形に入るに止まり、山口を完全に占領することができなかった。

輝弘の攻撃を知った元就は北九州攻略を諦め、即座に軍を返して、吉川元春、小早川隆景率いる精鋭を周防に向かわせた。
輝弘はその報を受けると山口での抵抗を諦め、海路での脱出経路を探るべく海沿いへ脱出した。
しかしながら、追撃厳しく富海(とのみ:現在の防府市)の茶臼山にて自害して果てた。

輝弘の山口乱入によって、毛利軍は本州に撤退せざるを得なくなり、大友氏は筑前国など北九州の毛利方の諸城の奪回に成功した。
大内輝弘は大友宗麟の捨て駒として利用されたともいえる。

[English Translation]