中御門経任 (NAKAMIKADO Tsunetada)

中御門 経任(なかみかど つねただ、天福 (日本)元年(1233年) - 永仁5年1月19日 (旧暦)(1297年2月12日))は、鎌倉時代中期の公卿(従二位権大納言兼大宰権帥)。
初名は経嗣(宝治3年(1249年)、経任に改名)。
父は吉田為経、母は大宮院半物、子には中御門為方・中御門為俊がいる。
中御門家の祖。

後嵯峨天皇の有力な側近の一人であり、若くして院の伝奏を務めた。
30歳で衛門府次いで右少弁に転じる。
当時の慣例では蔵人出身者が弁官に転じる順序であった筈なのに、逆の経路(右少弁就任後に蔵人兼務)を辿ったために当時の朝廷では、上皇の側近偏重人事であるとして物議を醸した。

その後も実務官僚として後嵯峨・亀山天皇両院政で活躍し、文永6年(1269年)に参議に昇進すると、その年から権中納言、従二位大宰権帥兼務と毎年のように昇進を重ねた。
建治3年(1283年)には権大納言に昇進し、弘安6年(1283年)には息子・為俊を右少弁に推挙して辞任した。

彼が実務官僚としての才覚は抜群のものがあり、それは弘安4年(1281年)の弘安の役直前という国家存亡の機に際して「敵国降伏」を祈念する勅使として伊勢神宮に派遣されている事でも明らかである。

ところが、その昇進の背景には後嵯峨上皇の寵愛とその後継者である亀山天皇の信任があったことでも分かるように、とても強引なものであり世間に多くの騒動を伴った事は特筆すべき点である。
まず、左衛門権佐就任時には彼の異母兄吉田経藤が官職を抜かされた屈辱から出家し、従二位叙任の際にも縁戚に当たる姉小路忠方が出世争いに敗れた衝撃からこれも出家、更に権大納言就任時には四条隆顕(後深草院二条の叔父)を蹴落とす形で就任している。

更に弘安9年(1286年)には、恩人である後嵯峨法皇が崩御した時には同じく寵臣であった北畠師親(北畠親房の祖父)が出家したにも関わらず、彼はそのまま官職に留まり続けたため、異母弟の吉田経長(経藤の同母弟)から糾弾を受けている。
そしてその翌年に伏見天皇が即位して後深草上皇が院政を始めると、これまで亀山上皇側近として後深草上皇らと対立関係であったにも関わらず、上皇に召されて側近に納まったのである。

当時、後嵯峨法皇崩御、皇統の移動(大覚寺統から持明院統)という事態に対して、出家もせず相手側陣営に奔った公卿達は少なくない(むしろ大半がそうであった)。
だが、経任ほどの破格の寵愛を受けてきた人間までが平然とそうした振舞いに出た事(勿論、彼がそれだけ能力に長けていて、敵味方問わずに必要な人材であるという朝廷内の認識があったからであるが)に対する人々のやり切れない思いが経任への怒り・非難として向けられたのである。

こうした評判のためか、経任系の中御門家はわずか3代で没落し、代わって従兄弟の中御門経継系統の中御門家が主流となって明治維新まで続く事になる。

後深草院二条が著した『とはずがたり』では、経任に対しては誹謗中傷にも近い非難の言辞が書き連なられている。
また歴史物語である『増鏡』では、弘安4年の勅使の記事について、経任に随従した二条為氏が帰途の際に元王朝敗退の報を聞いて詠んだとされている「勅として祈るしるしの神風によせくる浪はかつくだけつつ」という和歌の記事しか記載されていないが、一説にはこの歌は経任が詠んだにも関わらず、忠義と愛国の情に満ちたこの歌を変節漢の経任が詠んだという事実そのものに不満を持つ『増鏡』著者の手によって著者を為氏にと書き改められたのではという説が唱えられている程である。

[English Translation]