鳥羽・伏見の戦い (Battle of Toba-Fushimi)

鳥羽・伏見の戦い(とば・ふしみのたたかい, 慶応4年1月3日 (旧暦)-1月6日 (旧暦)(1868年1月27日-1月30日))は、戊辰戦争の緒戦にあたり、京都南郊の上鳥羽(京都市南区 (京都市))、下鳥羽、竹田、伏見(京都市伏見区)で行われた戦いである。

概要

慶応3年末、薩摩藩の大久保利通や公家の岩倉具視らの働きで発せられた王政復古 (日本)により、大阪に退いていた前徳川将軍家・徳川慶喜に対し辞官納地が命ぜられた。
さらに薩摩藩が江戸市街で挑発的な破壊工作を行う(庄内藩の江戸薩摩藩邸焼き討ち事件)と、慶喜の周囲では「討薩」を望む声が高まり、慶喜は軍事的な京の封鎖を試みた。
旧幕府軍主力の幕府歩兵隊は鳥羽街道を進み、会津藩、桑名藩の藩兵、新選組などは伏見市街へ進んだ。

慶応4年正月3日(1868年1月27日)の夕方に、下鳥羽付近で街道を封鎖する薩摩藩兵と大目付の滝川具挙の問答から軍事的衝突が起こり、鳥羽での銃声が聞こえると伏見でも衝突、戦端が開かれた。
鳥羽_(洛外)では総指揮官の竹中重固の不在や滝川具挙の逃亡などで混乱し、伏見では奉行所付近で佐久間信久や窪田鎮章ら幕将の率いる幕府歩兵隊、会津藩兵、土方歳三率いる新選組の兵が新政府軍の小銃火力に敗れた。

5日、淀藩への入城を拒絶された(下記参照)幕府軍は淀千両松に布陣するも惨敗。
なお、この戦闘の最中、新選組結成時からの主要幹部隊士の一人であった井上源三郎が戦死する。

幕府軍は敗走に次ぐ敗走の末、石清水八幡宮の鎮座する男山の東西に分かれて最後の決戦に挑む。
西側の橋本は遊郭のある宿場で、そこには土方歳三率いる新撰組の主力などを擁する幕府軍の本隊が陣を張った。
東に男山、西に淀川を控えた橋本では、地の利は迎え撃つ幕府軍にあった。
しかし、対岸の大山崎を守護する津藩の裏切り(下記参照)に遭い、思いもかけない西側からの集中砲火を喰らった幕府軍は総崩れとなり、淀川を下って大坂へと逃れた。
この戦いで、京都見廻組の長であった佐々木只三郎が重傷(のち死亡)、新撰組諸士調役兼監察山崎烝が重傷(後紀州湾沖にて死亡)、同吉村貫一郎が行方不明(後に大坂の南部藩藩邸で自害)となった。
両軍の損害は不明とされている。

旧幕府軍は淀藩主(京都市伏見区)稲葉正邦(慶喜の側近の一人で現職の老中)を頼って、淀城に入り建て直しをはかろうとした。
しかし淀藩は新政府と戦う意思がなく、城門を固く閉じ旧幕府軍の入城を拒んだ。
このため旧幕府方は15,000人の兵力を擁しながら緒戦にして5,000人の新政府軍に敗れた。
翌4日も戦闘が続き、5日になると明治天皇が小松宮彰仁親王に錦の御旗を与え(岩倉具視が偽造したという説もある)、新政府軍が官軍となる。
これにより日和見を決めていた鳥取藩、山崎にいた津藩兵(旧幕府軍先鋒)などの諸藩が新政府軍に付いた。
このため、旧幕府軍の劣勢は決定的になった。

8日、開戦に積極的で無かったとされる慶喜は大坂城におり、旧幕府軍の敗戦が決定的となり、7日には慶喜に対して追討令が出た報を聞くと、その夜僅かな側近及び老中・板倉勝静、同・酒井忠惇、会津藩主・松平容保・桑名藩主・松平定敬と共に密かに城を脱し、大阪湾に停泊中の幕府軍艦・開陽丸で江戸に退却した。
旧幕府軍の総大将の徳川慶喜の撤退と、新政府軍の砲兵力、新政府軍の優勢により多くの藩が旧幕府軍を見限ったことで、旧幕府軍の全面敗北となった。
以後、戊辰戦争の舞台は江戸市街での上野戦争や、北陸地方、東北地方での北越戦争、会津戦争、箱館戦争として続く。

史跡

伏見奉行所跡
京都市伏見区。
新撰組をはじめとする幕府軍が駐屯した。
近鉄京都線桃山御陵前駅より徒歩七分。
京阪本線伏見桃山駅より徒歩十分。
現存は石碑のみ。

御香宮神社
京都市伏見区。
新政府軍が陣所とし、眼下の伏見奉行を攻撃した。
近鉄京都線桃山御陵前駅より徒歩四分。
京阪本線伏見桃山駅より徒歩七分。
現存。

東本願寺伏見別院
京都市伏見区。
会津藩の陣所。
京阪本線伏見桃山駅より徒歩十分。
近鉄京都線桃山御陵前駅より徒歩十三分。
現存は石碑のみ。

寺田屋(※鳥羽・伏見の戦いとは直接は無関係)
京都市伏見区。
寺田屋事件の舞台。
坂本龍馬が間一髪難を逃れた宿。
京阪本線伏見桃山駅より徒歩十分。
近鉄京都線桃山御陵前駅より徒歩十三分。
現存する建物自体は江戸時代のものではない(寺田屋事件の項目を参照)。
見学可能。

文相寺
京都市伏見区。
「戊辰役東軍戦死者埋骨地」の碑を残す。
京阪本線淀駅より徒歩十五分。
現存。
見学可能。

長円寺
京都市伏見区。
正門前に「戊辰役東軍戦死者之碑」、敷地内に「戊辰役東軍戦死者埋骨地」を残す。
京阪本線淀駅より徒歩十五分。
現存。
見学可能。

淀城
京都市伏見区。
譜代大名稲葉氏の居城。
桂川 (淀川水系)・淀川・木津川 (京都府)の三川が合流する水路の要所として、徳川の信任厚い稲葉家が陣取った。
鳥羽・伏見の戦いに際しては、城主稲葉正邦らが新政府に対する恭順を決め込んだため、幕府軍の入城要請を拒絶した。
京阪本線淀駅より徒歩一分。
現存は城壁、「淀城址」の碑、「田辺治之助君記念碑」のみ。
敷地内は公園になっている。
見学可能。

妙教寺
京都市伏見区。
元淀城本丸があった場所。
境内に「史跡淀古城戊辰役砲弾貫通跡」の碑と「戊辰役東軍戦死者之碑」、本堂に「東軍戦死者の位牌」を残す。
砲弾が貫通した壁も現存。
京阪本線淀駅より徒歩二十分。
現存は左記のもの。
見学可能。

戊辰役東軍西軍激戦之地碑
京都競馬場の駐車場脇。
埋骨の碑と有志による慰霊碑があり、碑面には以下の文面が記されている。
幕末の戦闘ほど世に悲しい出来事はない
それが日本人同族の争いでもある
幕軍・官軍のいずれもが正しいと信じたるままそれぞれの道へと己等の誠を尽した
然るに流れ行く一瞬の時差により或るは官軍となり又或るは幕軍となって士道に殉じたので有ります
ここに百年の歳月を閉じた
其の縁り有る此の地に不幸賊名に斃れたる誇り有る人々に対し今慰霊碑の建つるを見る
在天の魂依って瞑すべし
昭和四十四年 中村勝五郎識す

[English Translation]