鎖国 (National Isolation)

鎖国(さこく)は、江戸幕府が日本人の海外交通を禁止し、外交・貿易を制限した政策のこと。
また、そこから生まれた外交関係における孤立状態を指す。
しかし、実際には孤立しているわけではなかった。
つまり外交だけでなく貿易の権限を幕府が制限・管理した体制である。

「鎖国」は日本だけにみられた政策ではなく、同時代の東アジア諸国においても「海禁」が採られた。
現代 (時代区分)の歴史学においては、「鎖国」ではなく、東アジア史を視野に入れてこの「海禁政策」という用語を使う傾向がみられる。

語源

鎖国という言葉は江戸時代の蘭学者である志筑忠雄が享和元年(1801年)の『鎖国論』においてはじめて使用した。

エンゲルベルト・ケンペルという人物が、江戸参府旅行を経て帰国後書いた著書『日本誌』(1712年刊)がある。
この中の、巻末の一章に「日本国において自国人の出国、外国人の入国を禁じ、又此国の世界諸国との交通を禁止するにきわめて当然なる理」という題名がある。
これを、志筑が「鎖国論」と変更した。
この「鎖国」という言葉は、その際の新造語であり、実際に鎖国という言葉が普及するのは明治以降である。
それ以後は以前の政策も鎖国の名で呼ばれることになった。
そのため、近年では「鎖国」ではなく、他の東アジア諸国でも見られた「海禁」にあらためようとする動きがある。
なお、当然ケンペルはいわゆる鎖国体制を肯定する立場である。

要約すると、「日本のように他国よりも資源に富み、勤勉な国民により産業が発達している国、つまり自給自足で豊かな国が、何も求めるものの無い外国人からの奸悪・貪婪・詐欺・戦争などから守るために、門戸を閉ざすのは適切で、そうするべきである」というものであった。
志筑の造語(鎖国)もこの立場からの言葉であった。

経過

鎖国体制は徳川秀忠の時代に始まり家光の時代、寛永年間に完成した。

元和 (日本)2年(1616年)(明)以外の船の入港を長崎市・平戸市に限定する。

元和9年(1623年)イギリス、平戸商館を閉鎖。

寛永元年(1624年)(スペイン)との国交を断絶、来航を禁止。

寛永8年(1631年)奉書船制度の開始。
朱印船に朱印状以外に老中の老中奉書が必要となった。

寛永10年(1633年)第1次鎖国令。
奉書船以外の渡航を禁じる。
また、海外に5年以上居留する日本人の帰国を禁じた。

寛永11年(1634年)第2次鎖国令。
第1次鎖国令の再通達。

寛永12年(1635年)第3次鎖国令。
中国・オランダなど外国船の入港を長崎のみに限定。
日本人の渡航と帰国を禁じた。

寛永13年(1636年)第4次鎖国令。
貿易に関係のないポルトガル人とその妻子(日本人との混血児含む)287人をマカオへ追放した。
残りのポルトガル人を長崎出島に移す。

寛永14年~15年(1637年~1638年)島原の乱。

寛永16年(1639年)第5次鎖国令。
ポルトガル船の入港を禁止。

寛永17年(1640年)マカオより通商再開依頼のためポルトガル船来航。
幕府、使者61名を処刑。

寛永18年(1641年)鎖国体制の完成。
オランダ商館を出島に移す。

正保4年(1647年)ポルトガル船2隻、国交回復依頼に来航。
幕府は再びこれを拒否。
以後、ポルトガル船の来航が絶える。

嘉永6年(1853年)マシュー・ペリー率いるアメリカ艦隊が来航。
開国を要求し、帰国する。

安政元年(1854年)ペリーが再来航し、日米和親条約を締結。
下田と箱館を開港する。

安政5年(1858年)タウンゼント・ハリスと日米修好通商条約を締結し、鎖国が終わる。

内容

鎖国体制下では民間貿易は厳禁され、管理貿易が以下の四ヶ所でおこなわれた。

オランダ・中国は長崎会所で、

朝鮮は対馬藩経由で、

琉球は薩摩藩経由で、

アイヌは松前藩経由で、
このうち貿易額は対中貿易が最も多く、対オランダ貿易はさほどでもなかった。
なお中国は朝貢以外の貿易を認めていなかったため、対中貿易を担っていたのは民間の中国商人だった。

当初は日本側の大幅な輸入超過であり金銀が大量に海外に流出した。
このため正徳 (日本)5年(1715年)に海舶互市新例(正徳長崎新令)を定めて貿易量を制限した。

以降長崎貿易はあまり振るわなくなった。

ちなみにこれにより年間の貿易船数も制限された。
貿易量を少しでも増やすべくオランダ船のトン数は徐々に増えていったという。

幕府は自由な民間貿易を厳重に取り締まっていたものの、実際には来航した外国船と日本商人との間に密貿易がおこなわれていたという。

朝鮮通信使 - 琉球使節 - オランダ風説書・唐風説書 - 漂流民の取り調べ

鎖国の背景

フランシスコ・ザビエルの日本来航以来、スペインやポルトガルの宣教師の熱心な布教によって、また戦国大名や江戸時代の藩主にもキリスト教を信奉する者が現れたため、キリスト教徒いわゆる切支丹の数は九州を中心に広く拡大した。

江戸幕府はスペイン・ポルトガル勢力をアジアから追放しようとするイギリスとオランダの商人によってこの情報を得て、家康の積極外交から鎖国に方針転換したと考えられている(家光が単に外国嫌いであったという説もある)。
また、国内のキリスト教徒の増加と団結は幕府にとっても脅威となり締め付けを図ることとなったと考えるのも一般的である。

幕府が鎖国に踏み切った決定的な事件は寛永14年(1637年)に起こった島原の乱である。
この乱によりキリスト教は幕藩体制を揺るがす元凶と考えた。
新たな布教活動が今後一切おこなわれることのないようスペイン・ポルトガル勢力を排除した。
なお、オランダ東インド会社は出島使用料年額銀55貫に応じ唯一交易を許された。
幕府に対して布教を一切しないことを約束したためとも言われている。

当時海外布教を積極的におこなっていたのはキリスト教のなかでもカトリック教会であり、プロテスタント国であったオランダにはその必要がなかったという側面もあった。
漂着同然で各地に入港する外国船からの伝染病の脅威は幕府施薬院の成立と共に検疫強化に踏み切ったという見方もある。

なお医療宣教師が阿片を使用したことも喫緊の課題として幕府を動かした。
ただし、当時のヨーロッパでは医療目的以外の阿片使用も違法ではない。

別説

日本は当時、国内各地で大量に金銀(特に銀)を産出する国であったため、交易においてもその潤沢な金銀を用いた。
しかし、対中国貿易において圧倒的に輸入超過であり、徐々に金銀が流出していった。
また新大陸発見で世界的なインフレーション(価格革命)が発生した。

そのため、金銀の保有高が急激に減少し、それを止めるために鎖国をしなければならなくなったという説もある。
しかしこのような国際的背景を幕府が知りえたか定かではない。
しかし鎖国中の幕府が、北東アジア・ロシア・東南アジア等などの情報を多くもち分析していたことが各史料から垣間見える。
現在のわれわれが感じるイメージよりもはるかに広範な政治・情勢的知識を幕府が持ちえてきたことが垣間見える。
少なくともロシアの南下政策は既知であり、幕府はこれを懸念していた。

また現代的視点では長崎の出島・堺を始めとした有力港湾を幕府直轄若しくは親藩・譜代大名領に組み入れることにより、幕府による管理貿易を行い収益を独占したという研究がある。

鎖国の評価

「鎖国」に対する評価はおおよそ二つに分かれる。
一つは、ごく限られた場面以外に外国との交流を断ったことで、日本独自の文化を形成できたとする肯定的なもの。
もう一つは、交流を禁止してしまったことで、ヨーロッパ(後にアメリカ合衆国も)で発達した産業革命による技術や文化を積極的に受け入れられなくなり、世界の潮流からとりのこされて科学文化が浸透せず(理系軽視)、ひいては太平洋戦争の敗戦の遠因ともなってしまった、とする和辻哲郎にみられるように否定的なものである。

しかし、大航海時代を経て強力な海洋技術を身につけた西欧諸国に対して対等に渡り合える力は当時のアジアにはなかった。
鎖国をして海外勢力を排除する努力をしなかった場合、東南アジア同様に西欧の植民地となった可能性もある。

最近の研究で清(明)は海洋技術が高かったことが示唆されている。
しかし西欧と対等に渡り合えたかは不明である。
その後に半植民地化されたことを考えれば鎖国は必要だったという意見もある。
故に後進地域ができる精一杯の抵抗ではなかったかと言う同情的な意見もある。
しかし鎖国を西欧の植民地とならなかった要因とするには根拠が脆弱と言わざるを得なくなる。

そもそも欧州諸国に植民地化する気があったのならば「鎖国」していようが大した意味はなく武力衝突となったはずである。

他にも度を過ぎて交流を絶ったために外交手段が分からず、黒船来航の際に対応を誤り、不平等条約を結ばされたとする批判的な意見もある。

その反面、18世紀以降の蘭学流行に見られるように、植民地にならなかったアジア諸国でこれだけヨーロッパの学問が広まった国はない。
中国では北京にキリスト教宣教師団が滞在していた。
中国人の華夷思想からか専ら宣教師が中国語を習得し中国人がヨーロッパの言語を学習することは少なかった。
朝鮮では中国から間接的に西洋の技術を採用しただけである。

この点、日本は鎖国とはいえ完全に国を閉ざしたわけではなく、キリスト教以外はオランダ語を通じて自由に諸外国の情勢や最新の学問を研究できた。
これが幕末の開国以後日本が急速に自主的な近代化を達成しえた基盤のひとつになったといえる。

また平和が長く続いたことで国内が一体化すると共に産業や金融も発達し、これも近代化の基盤となった。
更に今日、世界的にもてはやされる日本文化のかなり多くの部分 (俳句、園芸、近世邦楽、文楽、歌舞伎、浮世絵、根付、日本料理、和菓子、陶磁器、漆芸、服飾など)がこの時期に生まれ、あるいは発展、確立したものである。

その一方で長期に渡る鎖国の反動からか文化・風土面においても世界的に類を見ない規模の欧化政策(脱亜入欧)を行い、現代に至るまでの日本人における白人コンプレックスの礎となったと考える者もいる。

欧米文化を至上とした欧化政策が進められために、「白人の価値観で見て汚らしい」とされたものは時代遅れとして捨てられることがあった。
性文化を始め日本の土着文化を自ら潰し、失われてしまったものが少なくない(例えば今日、茶道を嗜む者はいるが、日常的にちょんまげをしている者はいない)。

なお幕末においては、たとえば横井小楠の発言にみられるように、外に対する「鎖国」だけではなく、日本国内においても藩と藩とのあいだも「鎖国」状態であるとの批判をおこなう論者もみられた。

四口

鎖国は貿易の権限を幕府が制限・管理した政策である。
鎖国の下、外国に向けてあけられた4つの窓口を四口などと呼んだ。

長崎口

長崎は幕府の天領として幕府の直接管理で貿易がおこなわれた。

対馬口

対馬藩の宗氏は中世から対朝鮮の外交、貿易の中継ぎをになってきた。
江戸時代に入っても、対馬藩にはその権限が引き続き認められ、幕府の対朝鮮外交を中継ぎする役割を担った。

薩摩口(琉球口)

薩摩藩が琉球王朝を攻略、支配したことで、琉球を通じての貿易が認められた。

蝦夷口

松前藩の松前氏は蝦夷地で北方貿易をおこなってきた。
その権限は江戸時代に入っても引き続き認められた。
松前藩の収入のほとんどは北方貿易によって支えられている。

鎖国の終焉

鎖国政策は、江戸幕府の法令のなかでは徹底された部類ではあったが、特例として認められていた松前藩、対馬藩や薩摩藩では、幕府の許容以上の額を一種の密貿易(抜荷)としておこなった。
それ以外にも領内を大洋に接する諸藩でも密貿易を度々おこなっていた。
これに対して、新井白石や徳川吉宗ら歴代の幕府首脳はこうした動きにたびたび禁令を発して取締りを強めてきた。
しかし財政難に悩む諸藩による密貿易は続けられていた。
なかには石見国浜田藩のように、藩ぐるみで密貿易に関った。
さらに自藩の船団を仕立てて東南アジアにまで派遣していた例もあった(「竹島事件」)。
また、万治年間に密航し、5年間オランダで医学を学んだ鳩野宗巴のような人物もいた。

だが、1792年のロシアのアダム・ラクスマンの来航以来、諸外国の船がたびたび来航して日本への開国要求を強めた。
1853年、浦賀にアメリカ合衆国のマシュー・ペリー率いる黒船来航、翌年には日米和親条約が締結された。
その後、1858年の日米修好通商条約の締結によって鎖国は完全に幕を閉じたのである。

開国から9年後、徳川慶喜による大政奉還によって幕藩体制は完全に崩壊し、日本は近代国家への道を歩む。
鎖国政策は江戸幕府にとってまさに生命線そのものだったのである。
一般市民の渡航が認めらるようになるのは明治時代からのことである。

[English Translation]