金閣寺放火事件 (Arson Case of Kinkaku-ji Temple)

金閣寺放火事件(きんかくじほうかじけん)とは、1950年7月2日未明に、京都市上京区(現・北区 (京都市))金閣寺町にある鹿苑寺(通称・金閣寺)において発生した放火事件である。
幸い人的被害はなかったが、国宝の舎利殿(金閣)が全焼し、創建者である室町幕府3代将軍、足利義満の木像(当時国宝)、観音菩薩像、阿弥陀如来像、仏教経巻などの文化財6点も灰燼に帰した。

事件の概要

1950年7月2日の未明、鹿苑寺から出火の第一報。
消防隊が駆けつけた時には、既に舎利殿から猛列な炎が噴出して手のつけようがなく、46坪の建築物が全焼した。

鎮火後現場検証したところ、普段火の気がない事、そして寝具が何故か付近に置かれている事から、不審火の疑いがあるとして同寺の関係者を取り調べたところ、同寺子弟の見習い僧侶であり大学生の林承賢(京都府舞鶴市出身・当時21歳)がいない事が判明し行方を捜索した。
夕方になり金閣寺の裏にある左大文字山の山中で薬物のカルモチンを飲み切腹してうずくまっていた林を発見し放火の容疑で逮捕した。

動機

その後、林は救命処置で助かった。
逮捕当初動機として「世間を騒がせたかった」や「社会への復讐のため」などと供述した。
しかし実際には自身が病弱である事、重度の吃音である事、実家の母から過大な期待を寄せられている事、同寺が観光客の参観料で運営されており、僧侶よりも事務職の方が幅を利かせるなどの現実から、厭世感情からくる複雑な感情が入り乱れていた。

そのためこの複雑な感情を解き明かそうとして後述のような文学作品が創作された。
これらの中で三島由紀夫は「自分の吃音や不幸な生い立ちに対して金閣における美の憧れと反感を抱いて放火した」と分析し、水上勉は「寺のあり方、仏教のあり方に対する矛盾により美の象徴である金閣を放火した」と分析したが、実際のところ真相は解き明かされる事はなかった。

その後の経過

事件後、彼の母親は京都府警の事情聴取のため京都に呼び出されたが、捜査官から事件の顛末を聞かされて衝撃を受け、不穏なものを感じた係官は実弟を呼び寄せて付き添わせた。
だが母親は実家がある大江(現京都府与謝野町)への帰途、山陰本線の列車から亀岡市馬堀付近の保津峡に飛び込んで自殺した。
1950年12月28日京都地裁は林に対し懲役7年を言い渡した。
林の精神鑑定を行ったのは後に国立京都病院に精神科を設立、医長となる加藤清である。

しかし服役中に結核と重度の精神障害が進行し、加古川刑務所から京都府立洛南病院に身柄を移され入院したが1956年3月7日に病死した。
親子の墓は親戚のいた舞鶴市安岡にあるが、墓はいまも清掃され花が手向けられている。

再建

現在の金閣は国や京都府の支援、地元経済界などからの浄財により、事件の5年後の1955年に再建されたものである。
金閣は明治時代に大修理が施されており、その際に詳細な図面が作成されていたことからきわめて忠実な再現が可能となった。
ただ当時の関係者によると、焼失直前の旧金閣はほとんど金箔の剥げ落ちた簡素な風情で、現在のように金色に光る豪華なものではなかったという。

この事件をテーマにした作品

後にこの事件を題材に三島由紀夫の小説『金閣寺 (小説)』や、水上勉の小説『五番町夕霧楼』、『金閣炎上』などの文学作品が作られた。

水上勉は舞鶴市で教員をしていた頃、犯人と実際に会っているという。
水上はこの事件を題材に各方面に取材を重ね、ノンフィクション「金閣炎上」を書き、若狭の寒村・成生の禅寺の子として生まれた犯人の生い立ちから事件の経緯、犯人の死まで事件の全貌を詳細に描き出している。

[English Translation]