豊臣政権 (Toyotomi Government)

豊臣政権(とよとみせいけん)は、天正18年(1590年)、(ただし、実質的には天正13年(1585年))から、慶長8年(1603年)まで成立していた豊臣氏による日本国の政権。
豊臣氏政権(とよとみしせいけん)とも言われる。

政権確立

天正10年(1582年)6月2日 (旧暦)、織田信長が明智光秀によって討たれた(本能寺の変)。
このとき、中国方面総司令官として備中にあった信長の家臣豊臣秀吉は、直ちに毛利輝元と講和して軍を東に返して、明智光秀を討った(山崎の戦い)。
光秀を討った功績により、秀吉の発言力は他の織田家臣を圧倒した。
清洲会議において柴田勝家が推薦する織田信孝(信長の三男)を抑えて、信長の嫡孫である織田秀信(織田信忠の嫡男)を信長の後継者として擁立した。

翌年には、反秀吉の急先鋒であった柴田勝家と織田信孝を賤ヶ岳の戦いにおいて滅ぼし、滝川一益を降した。
そして前田利家や金森長近ら旧織田家臣を自分の配下として組み込んだ秀吉は、信長の事実上の後継者としての地位を確立するに至った。

これに不満を持った織田信雄(信長の次男)が、天正12年(1584年)に信長の盟友であった徳川家康と結んで、反秀吉の兵を挙げる。
兵力的には秀吉軍が圧倒的に優勢であったが、家康の巧みな戦術の前に秀吉軍は小牧・長久手の戦いで局地的に敗れた。
しかしその後、織田信雄は秀吉の強大な兵力に圧迫され、家康に相談なく秀吉と単独講和する。
信雄と秀吉の講和により、家康も秀吉と戦うための大義名分を失いひとまず和議に応じた。

天正13年(1585年)、秀吉は前年・前々年の戦いで常に自らの背後を脅かした紀伊国の諸勢力(紀州攻め)、四国の長宗我部元親(四国平定)を相次いで攻略した。
またこの年7月、関白相論を経て正親町天皇より関白に任じられ、翌年には豊臣姓も下賜された。
これは、秀吉が朝廷から天下の実力者として認められ、朝廷から政治を委任されたことを意味している。
つまりこの時点で、事実上の豊臣政権が誕生した。

全国統一

天正14年(1586年)、秀吉は生母の大政所を人質として家康のもとへ送った。
こうして遂に家康も秀吉に臣従せざるを得なくなった。
なお、この頃には越後国の上杉景勝、安芸国の毛利輝元らも、秀吉に臣従することを誓っていた。
そして天正15年(1587年)には九州を席捲しつつあった薩摩国の島津義久を惣無事令に違反したとして討ち秀吉の前に遂に屈服させ(九州平定)、西国は完全に豊臣氏の支配下に入った。

惣無事令に違反した北条氏政・北条氏直親子を、天正18年(1590年)、23万人の大兵力を動員して攻略(小田原攻め)、さらに東北の伊達政宗や最上義光らも秀吉に臣従することを誓い(奥州仕置)、ここに豊臣政権のもとに天下統一は成された。
この時点で、豊臣政権は日本全国に威令が及ぶ日本の統一政権として成立したのである。

天下統一が如実に表れているのが、天正19年(1591年)に起こった九戸政実の乱であろう。
南部氏は自力での討伐をできず、秀吉は蒲生氏郷・石田三成らを大将に6万人の軍勢を奥州の僻地に派遣している。
室町幕府第8代将軍・足利義政以来の室町幕府にはできなかったことであり、ここに豊臣秀吉の天下一統が成ったと見てよい。

文禄の役

全国統一を達成した秀吉は、文禄元年(1592年)、明の征服を目指して、全国諸大名に李氏朝鮮への出兵を命じた(文禄の役)。
倭寇や女真族との紛争以外本格的な戦争経験がない朝鮮正規軍を、戦国時代 (日本)を経て大量の鉄砲を装備した日本軍が圧倒し連戦連勝を重ねた。
また朝鮮民衆の協力もあり、王都ソウル特別市や平壌を次々と占領するなど朝鮮領土の大部分を占領した。

これに対し、李氏朝鮮の特権階級であった両班は各地で民衆を組織化し義兵軍を編成して反抗を開始。
海上では李舜臣率いる朝鮮水軍に敗北した。
このため戦線を縮小し防御体制を取って翌年に備えることとなった。

文禄2年(1593年)になると、朝鮮に明軍が本格的に来援し攻勢に出る。
明・朝鮮軍は平壌を抜き漢城に迫ったが、日本軍は碧蹄館の戦いでこれを撃破する。
以後戦線は膠着し、日本軍は兵糧不足に陥り、明軍は数万匹の馬が餓死するなど、双方が兵站に苦しむこととなると、講和交渉が開始され休戦に入った。

秀次事件

文禄2年(1593年)に、秀吉に実子の豊臣秀頼が生まれた。
秀吉はすでに実子の誕生をあきらめて、養子の豊臣秀次(秀吉の甥)を後継者に指名していたが、文禄4年(1595年)に謀反の容疑で秀次およびその一族を全て処刑した。
これは秀吉が秀頼を後継者にするためだったともいわれる。

慶長の役と秀吉の死

石田三成、小西行長らによって進められていた明との講和は決裂し、慶長2年(1597年)には再び、朝鮮出兵が行なわれた(文禄・慶長の役慶長の役)。
『浅野家文書』によると、この再出兵の目的は赤国(全羅道)を残らず成敗し、余力をもって青国(忠清道)その他を討つこととされている。
日本軍は、漆川梁海戦で朝鮮水軍を壊滅させると進撃を開始し、たちまち全羅道の道都全州を占領、忠清道の稷山で明軍と交戦(稷山の戦い:双方とも自軍の勝利と記録)した後、京畿道 (朝鮮八道)の安城市・竹山まで進撃した。
日本軍は約2ヶ月で全羅道、忠清道を席巻し、京畿道への進出を果たすと、冬を前に朝鮮半島南岸に撤収し、各地に新たな城(倭城)の築城を開始する。
その中で最も東端に位置する蔚山城が未完成のまま、年末から翌慶長3年(1598年)初めにかけて明・朝鮮軍の攻撃を受けるが撃退に成功する(第一次蔚山城の戦い)。

9月末から10月初めにかけて明・朝鮮軍は総力を挙げた攻勢をかけ、日本軍の順天城、泗川城、蔚山城を攻撃したがすべて撃退した。
特に泗川城では島津義弘が明・朝鮮軍を大破した(泗川の戦い)。

明・朝鮮軍の総力を挙げた攻勢を撃退した日本軍であったが、既に8月18日に秀吉は死去していた(享年62)。
このため10月になって朝鮮からの帰国命令が発せられた。
帰国段階で明・朝鮮水軍の妨害を受け、露梁海戦を戦うことになるが、11月末までに全軍帰国を果たした。

政権崩壊

秀吉の死後、豊臣氏は秀吉の嫡男である秀頼が継いだ。
しかし、秀頼はわずか6歳の幼主であったため、豊臣氏内部で秀吉の晩年からすでに発芽していた加藤清正、福島正則ら武断派と石田三成、小西行長らによる文治派の対立が表面化し、豊臣家臣団は分裂する。
さらに徳川家康も天下人を目指して、伊達政宗らと無断婚姻を行なうなど、豊臣政権は次第に衰退の兆しを見せてゆく。

慶長4年(1599年)には、秀頼の後見人として豊臣政権を何とか支えていた前田利家が死去する。
このため、家康の勢力が諸大名の中でも特に抜きん出ることとなり、家康は次第に天下の権を掌握するようになる。
一方、豊臣政権擁護の立場から、石田三成は上杉景勝や毛利輝元、宇喜多秀家らと共に家康との対立を試みる。
が、慶長5年(1600年)9月の関ヶ原の戦いにおいて、三成ら豊臣方(西軍)は敗れ、三成ら主だった者はことごとく処刑、改易された。

そして関ヶ原の戦後処理により、豊臣氏は摂津国・河内国・和泉国の3カ国、65万石を支配する一大名へと転落した。
(これは秀吉による全国各地に豊臣家の蔵入地を設定した政策が、裏目に出たのである。)
関ヶ原の戦後処理で諸大名の領地替えを行った際に、自動的にこれら蔵入地が消滅してしまったのである)。
そして慶長8年(1603年)に徳川家康が征夷大将軍として江戸幕府を開いたことにより、豊臣政権は終焉したのである。

その後、豊臣氏はあくまで徳川氏に従わず、独立を維持しようとしたため、慶長19年(1614年)からの大坂の陣において、家康により滅ぼされたのである。

豊臣政権の性格

豊臣政権は、前政権の織田政権と同じく、君主である秀吉に権力が集中する形態を取っている。
秀吉の治世としては太閤検地や刀狩令など日本全国の土地や民衆のすべてを管理する中央集権となっている。
毛利氏、島津氏、伊達氏、徳川氏、上杉氏ら100万石にならんとする大大名がいるが、秀吉生存中は彼らに執政権を与えず、石田氏や大谷氏ら自身の子飼い大名に近畿周辺の小禄に封じて政治をさせている。
また各地に蔵入地(政府直轄地)を設定して遠隔支配するような仕組みを整えている。
バテレン追放令をだすなどキリスト教を禁ずる一方でヨーロッパとの交易は盛んに推進した。

また、秀吉は当初は征夷大将軍への就任に意欲を示したとも言われているが実現せず、代わって偶発的事情から得た関白の地位を武家である豊臣氏による世襲制度(公家である藤原氏の五摂家を排除)に変更して、幕府制度に代わる武家関白制(ぶけかんぱくせい)とも言うべき体制を導入しようとしたと考えられている。
豊臣秀次への関白位譲渡も引退を目的としたものではなく、関白位の豊臣氏世襲を宣言するものであり実権は依然として秀吉が保持した。
(皮肉にも徳川家康も征夷大将軍位の徳川氏世襲と秀吉の遺児・秀頼への政権返上の意思が無い事を示すために息子徳川秀忠に将軍を継がせて自らは大御所として政権を運営している。)

対外政策としては明に替わり日本がその中心になる華夷思想を打ち出し、ルソン・琉球国・高山国(当時、台湾に存在すると考えられていた国)・李氏朝鮮などに服属と朝貢を求める武威を背景にした強硬政策を推進している。
特に朝鮮に対しては「服属」を強く求めると共に「征明の先導」(征明嚮導)を求めた。
しかし朝鮮の立場は建国以来、明の属国であり、その外交方針をここで変える意思はなかった。
交渉に当たった対馬の宗氏は、これを何とか穏便に済まそうとして、秀吉が求める「朝貢使」の派遣を秀吉の全国統一の「祝賀使」の派遣に置き換えて要請した。
すると、朝鮮としても日本側の状況を探りたい事情もあり使者を派遣した(賊探使)。
もっとも朝鮮側にしてみれば使者は表向きが「祝賀使」であり実態は「賊探使」に過ぎず、秀吉に対して「朝貢」したつもりも「服属」したつもりも無かった訳であった。
が、この朝鮮使を宗氏は「朝貢使」と称して秀吉に謁見させると、秀吉からしてみると、要求に応じ「朝貢使」を派遣し「服属」してきた朝鮮に、以前からの要求通り征明の先導(征明嚮導)を命じた。
しかし、明に服属する朝鮮に要求に応じる気配はなかった。
これは秀吉にしてみれば朝鮮が「服属」の誓約違反を犯したことになる。
このためまず朝鮮を攻めることになった。
この大陸侵攻・朝鮮出兵は戦争途中で秀吉の死によって終結する。

ただでさえ少なかった秀吉の縁者である豊臣秀長・豊臣鶴松・大政所・朝日姫らが、天正末期に次々と死去したことは、豊臣政権に大打撃を与えた。
にも関わらず、文禄年間に秀吉が行なった豊臣秀次とその一族に対する粛清は、豊臣一族の衰退を決定的なものとしたのである。

また、秀吉は子飼いの家臣団を、武断派と文治派で分離してそれぞれ登用した。
人材を効率よく使おうという秀吉らしいやり方と言えるのだが、それは秀吉没後に加藤清正ら武断派と、石田三成ら文治派の抗争へと発展した。

さらに秀吉は晩年、後継者の秀頼における豊臣政権を磐石なものとするために、諸大名に無断で婚姻を結ぶことを禁止している。
さらに徳川家康・前田利家・毛利輝元・宇喜多秀家・小早川隆景(慶長2年の隆景没後は、上杉景勝)ら、有力大名を五大老に任じて豊臣政権の最高機関とした。
これはいわゆる内閣制度であり、この五大老の合議によって天下の諸事が決定されるというものであった。
また、検地などの事務的な処理に関しては、秀吉子飼いの家臣である石田三成・浅野長政・前田玄以・増田長盛・長束正家らいわゆる五奉行によって執行された。
そして、この五大老と五奉行の調整・監視役として堀尾吉晴・中村一氏・生駒親正らが三中老を務めた。

しかし、これら五大老・三中老・五奉行の制度はいずれも、政治機構としては未熟だったと言われている。
事実、秀吉の没後に五大老の中でも特にその勢力が抜きん出ていた徳川家康は、豊臣氏に無断で諸大名と婚姻関係を結んでいる。
秀吉がこの政治機構を定めたのは、家康に対する牽制の意味もあったと言われているが、結果的にみてそれは失敗に終わったと言えるのである。
(ただし、家康と対抗可能な勢力を誇っていた前田利家が存命中は、徳川家が豊臣家を上回る権威を持つことは阻止できており、利家が秀吉の死から僅か8ヵ月後に病死しなければ家康の政権獲得は困難だったとも考えられる。)

豊臣氏の所領(蔵入地)も、全国合わせて222万石と、家康が関東で支配していた250万石に及ばない石高であった。
ただし、全国の主要金山・銀山を支配していたため、財政的には豊臣氏が徳川氏を圧倒していた。
また秀吉の222万石というのは多くの直臣に所領を分け与えた残りであり、一方の家康の250万石は直臣に分け与えた所領もあわせての数字であり、家康自身の蔵入地は約100万石であるので秀吉の方が大きい。
ただ、家康が豊臣政権下でかなりの勢力を持っていた事は事実である。
そして、家康には及ばずとも他にも大勢力を持つ大名は多数存在した。
このように、豊臣政権の政権基盤は秀吉という強大な一独裁者のもとで、大勢力を持つ諸大名の上に乗っかり、危ういバランスによって何とか機能していた一代政権に過ぎなかった。
このため、秀吉没後に豊臣政権の矛盾、及び弱体が表面化し、わずか数年の後に徳川氏によって取って代わられることとなったのである。

豊臣政権の組織

豊臣政権では、国政の執行官僚としての奉行は当初から存在していたが、体制を定めた体系的な法令は政権末期まで存在しなかった。
文禄4年(1595年)に豊臣秀吉は豊臣秀次を謀反を企てたとの理由で切腹させ秀次の部下も粛正した。
この権力の空白と幼君の豊臣秀頼補佐のために後の五大老の連署を受けて同年「御掟」五箇条と「御掟追加」九箇条を公布し政権機能を制定した。
五大老・三中老が置かれ、行政、司法、財政、土木、宗教の担当官として五奉行を設置、また訴訟の受理・聴取を担当する十人衆が設置された。
豊臣秀吉が慶長3年(1598年)に死去するとこれらの体制で政権を維持することとなったが、必ずしも法令が機能したとは言えない結果となった。
なお「御掟」「御掟追加」の条文は後に江戸幕府の「武家諸法度」に大幅に取り入れられている。

地方においては、朱印状を発行して大名の統治権を改めて認めるという大名知行制を敷いた。
室町時代の守護大名は国ごとあるいは郡ごとの一円支配だったのに対し、秀吉は太閤蔵入地を設定して大名の支配を郷村単位の支配としたことに意義がある。
各大名は近くにあった太閤蔵入地の米などの納入の義務があった。
また、中央政権は太閤蔵入地を通じてその地の財政・内政に関与することができるなど、豊臣政権は地方に発言力があった。
大名配置についても、大坂の周辺に譜代の大名を置き、徳川家康を関東に移すなど外様は辺境に置かれた。
そして石田三成など政務を執る奉行衆は20万石前後とし、外様には政権参与を原則的に許してないなど、政務者と軍事力の分離が図られた。

豊臣政権の財政基盤は、以下の三つである。
第一に、上記に掲げた太閤蔵入地約200万石、第二に、直轄領とした金山・銀山(佐渡国佐渡金山、石見国石見銀山、但馬国生野銀山)から上がる金銀の収益(金銀の収益を背景に、平安時代に発行された皇朝十二銭以来となる国内発行の貨幣(天正大判・天正通宝)を発行)、第三に、商業が発達した都市(大坂、堺、京都、伏見、長崎)を直轄地とすることから上がる収益であった。

[English Translation]