船岡山合戦 (Funaokayama-gassen)

船岡山合戦(ふなおかやまがっせん)とは、永正8年(1511年)8月23日、将軍足利義稙を擁立する細川高国・大内義興と前将軍足利義澄を擁立する細川澄元との間でおきた。
室町幕府の政権をめぐる戦いのこと。
応仁の乱の際に船岡山をめぐりおこった戦いと区別するため「永正の船岡山の戦い」ともいう。

開戦までの経緯

明応2年(1493年)の明応の政変により征夷大将軍足利義材を追放し、自身が擁立した足利義澄(義高)のもとで絶大な権力を誇った管領細川政元。
しかし、実子がいなかったため、三人の養子を迎えたものの、その後、継を巡り細川政元の養子同士(細川澄之、細川澄元、細川高国)3派での権力争いが発生した。

永正4年(1507年)6月23日に細川澄之派の重臣香西元長や薬師寺長忠らによって細川政元が暗殺される(永正の錯乱)。
細川澄元も屋敷を襲われ、一旦近江甲賀郡に逃走するが国人の力を借りて勢力を盛り返す。
同年8月1日には京都に侵攻して細川澄之とその支持者を討ち取る。
同年8月2日には第11代将軍・足利義澄に対して細川氏の家督継承を承認させたのである。

が、その混乱に乗じ、京への復帰をもくろんだ前将軍足利義尹(義材)。
彼は周防国の戦国大名大内義興を伴い上洛を開始する。
これに細川高国が呼応する。
将軍足利義澄は近江国の岡山城 (近江国)に、それを担ぐ細川澄元は近江から最終的には阿波国へそれぞれに逃亡した。
戦いに勝利した足利義尹が義稙と改名して将軍に復職し、細川高国・大内義興の連合政権が成立した。

再起を図っていた足利義澄・細川澄元は永正6年(1509年)に復権を図ったものの敗れている如意ケ嶽の戦い。
その後力を蓄え、永正8年(1511年)畿内の諸勢力を糾合し反撃し京を奪還した。
彼らは足利義稙達を一旦は丹波国に逃亡させた。
しかし、義稙達は次第に勢力を盛り返し、京に再度迫りつつあった。

戦いの状況

開戦の直前、足利義澄の擁護者であった近江六角氏において内紛が勃発した。
その結果、当主である六角高頼が義澄方への与力をあくまで主張する守護代の伊庭氏を抑えて足利義稙方に寝返った。
それを知った盟主である足利義澄が失意のうちに病死する。
という大事件が起きた。
しかし細川澄元達の戦意はなおも衰えず、細川澄元方の細川政賢を主将として丹波と山城国との要衝である船岡山に陣取り防戦を試みた。

しかし、西国の国人領主の大半を動員した大内軍は強大であった。
その大内軍を含んだ高国方が夜襲をしかけると、細川政賢は戦死するなど細川澄元方は総崩れとなった。
京都は再び足利義稙の手に帰した。

戦後の影響

戦いに敗れた細川澄元は実家の阿波に逃亡し再起を図り、三好之長に擁立され抵抗を続けた。
一時京の回復に成功したものの結局没落していった。
義澄の遺児は播磨の赤松義村と阿波の細川之持に託される。
後の足利義晴と足利義維(平島公方)となる。

一方で、勝者である大内義興も長期間在京する間に出雲国の尼子氏や武田氏などが不穏な動きを見せはじめる。
さらに旗下の国人達の離反が続出したので、1518年、周防に帰国した。
以後勢力の回復に忙殺され再び上洛することなく1529年に病没した。

残された細川高国はやがて将軍足利義稙と対立し、1521年足利義稙を追放し足利義澄の子の足利義晴を将軍として擁立する。
今度は細川澄元の子細川晴元と対立し、1531年、天王寺の戦い(大物崩れ)で敗れる。
自身が没落することになる。

義稙方の将

義稙方の将としては、主将である細川高国と大内義興の他、能登畠山氏の畠山義元が中核であった。
明応の政変以来の義稙の支持者である河内畠山氏(尾州家)の畠山尚順も当然義稙方であったと思われるが不明。
大内義興の軍には、直臣である問田弘胤や陶興房の他、後に中国地方で敵味方に分かれ抗争する国人領主である尼子経久、吉川国経、毛利興元(毛利元就の兄)、吉見頼興などが参加していた。

義澄方の将

義澄方の将としては、主将である細川澄元の他、細川政賢、松田頼亮など、幕府の直臣といえる人物が多い。
大名としては河内で尚順と対立する河内畠山氏(総州家)の畠山義英や播磨の赤松義村がいる。

澄元の実家である阿波細川家と、その有力被官である三好之長も当然義澄方であったと思われる。
が、この合戦の直後に澄元の祖父で後見役であった細川成之が病没しており、之長も動きが取れなかった。
そのためか、この合戦における動静は不明である。
また、義澄方に参戦し自刃した「遊佐河内守」なる人物がいたことが分っている。
この人物が畠山尾州家の家臣である遊佐順盛に比定されることが多い。
しかし総州家支持の国人にも遊佐氏の一派が存在したことが判明していることと、この合戦の後、尚順が義英に対し政治的に優勢に立ち、義英は没落に追い込まれていることから、遊佐河内守は順盛とは別人であると考えられている。

[English Translation]