縄文時代 (Jomon Period)

縄文時代(じょうもんじだい)は、年代でいうと今から約16,500年から約3,000年前(紀元前10世紀)、地質時代では更新世末期から完新世にかけて日本列島で発展した時代であり、世界史では中石器時代ないし新石器時代に相当する時代である。
旧石器時代と縄文時代の違いは、土器の出現や竪穴住居の普及、貝塚の形式などがあげられる。

縄文時代の終りについては、地域差が大きいものの、定型的な水田耕作を特徴とする弥生文化の登場を契機とするが、その年代については紀元前数世紀から紀元前10世紀頃までで、多くの議論がある。

なお、沖縄県では沖縄県の歴史沖縄貝塚文化に区分される。
次の時代は、貝塚時代後期、東北北部から北海道では続縄文時代と呼ばれる。

概要

縄文時代は、縄文土器が使用された時代を示す呼称であったが、次第に生活内容を加えた特徴の説明が為されるようになり、磨製石器を造る技術、土器の使用、狩猟採集経済、定住化した社会ととらえられるようになった。

名称

「縄文」という名称は、エドワード・S・モース(Edward S.Morse 1838-1925)が1877年(明治10)大森貝塚から発掘した土器を Cord Marked Pottery と報告したことに由来する。
この用語は谷田部良吉により「索紋土器」(さくもんどき)と訳されたが、後に白井光太郎が「縄紋土器」と改めた。
そして、「縄文土器」へと続いてきた。
「縄文時代」に落ち着くのは戦後のことである。

時期区分

縄文土器の多様性は、時代差や地域差を識別する基準として有効である。
土器型式上の区分から、縄文時代は、草創期・早期・前期・中期・後期・晩期の6期に分けられる。
研究当初は、前・中・後の三期区分だったが、資料の増加や研究の進展によって早期、晩期が加わり、最後に草創期が加えられた。
そうした土器研究上の経緯を反映した時期区分であるため、中期が縄文時代の中頃というわけでもない。
生業や文化内容から見た時代区分としても再考の余地があるものの、慣用化した時期区分として定着している。

この時期区分を、炭素14年代測定法AMS法で測定して炭素14年代測定法年代較正で示すと、草創期(約15,000~12,000年前)、早期(約12,000~7,000年前)、前期(約7,000~5,500年前)、中期(約5,500~4,500年前)、後期(約4,500~3,300年前)、晩期(約3,300~2,800)となる。

また先に示した土器編年による区分の他、縄文時代を文化形式の側面から見て幾つかの時期に分類する方法も存在している。
縄文時代の文化史的区分については研究者によって幾つかの方法があり、現在のところ学界に定説が確立されているわけではない。

岡村道雄の区分

考古学者の岡村は、定住化の程度で時期区分すると草創期から早期半ば頃までは住居とゴミ捨て場が設置されるが、住居をもたなかったり、季節によって移動生活を送るなどの半定住段階であると想定している。
この段階は縄文時代の約半分の時間に相当する。
次いで早期末から 前期初頭には、定住が確立し集落の周りに貝塚が形成され、大規模な捨て場が形成される。
中期後半には、東日本では地域色が顕著になるとともに、大規模な集落が出現して遺跡数もピークに達する。
一方西日本では遺跡数が少なく定住生活が前期には已に交替している可能性すらある。
後期になると東北から中央高地の遺跡は、少数で小規模になり分散する。
関東は大規模貝塚を営み、西日本も徐々に定住生活が復活する。
後期後半 には近畿から九州まで定住集落が散見されるようになる。
この傾向は晩期前半まで続き、後半はさらに定住化が進み、瀬戸内から九州北部は 稲作を導入し、弥生時代早期へと移ってゆく。

佐々木高明による区分

文化人類学者の佐々木は縄文土器編年区分のうち草創期を旧石器時代から新石器時代への移行期として縄文Ⅰ期、土器編年の縄文早期を縄文文化が完成に向かう時期として縄文Ⅱ期、土器編年の縄文前期から晩期までを完成した縄文文化が保持された時期として縄文Ⅲ期に分類した。

泉拓良による区分
泉も佐々木による区分に近く、縄文草創期を「模索期」、縄文早期を「実験期」、縄文前期から晩期までを「安定期」としている。

旧石器から縄文へ

最終氷期の約2万年前の最盛期が過ぎると地球規模で温暖化に向かった。
しかし、最後の氷期である晩氷期と呼ばれる約1万3000から1万年前の気候は、数百年で寒冷期と温暖期が入れ替わるほどで、急激な厳しい環境変化が短期間のうちに起こった。

それまでは、針葉樹林が列島を覆っていたが、西南日本から太平洋沿岸伝いに落葉広葉樹林が増加し拡がっていき、北海道をのぞいて列島の多くが落葉広葉樹林と照葉樹林で覆われた。
コナラ亜属やブナ属、クリ属など堅果類が繁茂するようになった。

また、温暖化による植生の変化は、マンモスやトナカイ、あるいはナウマンゾウやオオツノジカなどの大型哺乳動物の生息環境を悪化させ、約1万年前までには、日本列島から、これらの大型哺乳動物がほぼ絶滅してしまうことになる。

この草創期の特徴は以下のように指摘されている。

新しい道具が短期間に数多く出現した
例えば、石器群では、大型の磨製石斧、石槍、植刃、断面が三角形の錐、半月系の石器、有形尖頭器、矢柄研磨器、石鏃などが、この期に出現する。

使われなくなっていく石器群、新しく出現する石器群がめまぐるしく入れ替わった
草創期前半の時期は、遺跡によって石器群の組み合わせが違う
急激な気候の変化による植生や動物相、海岸線の移動などの環境の変化に対応した道具が次々に考案されていった
狩猟・植物採取・漁労の三つの新たな生業体系をもとに生産力を飛躍的に発展させた

縄文時代早期

日本列島の旧石器時代の人々は、大型哺乳動物や中・小型哺乳動物を狩猟対象としていた。
大型の哺乳動物は季節によって広範囲に移動を繰り返すので、それを追って旧石器時代人もキャンプ生活を営みながら、頻繁に移動を繰り返していた。
キル・サイトやブロック、礫群、炭の粒の集中するところなどは日本列島内で数千カ所も発見されているが、竪穴住居などの施設をともなう遺跡は、ほとんど発見されていない。

旧石器時代の人々は、更新世の末まで、キャンプ生活・遊動生活を営みながら頻繁に移動生活を繰り返してきた。
そして、旧石器時代から縄文時代への移行期である草創期には一時的に特定の場所で生活する半定住生活を送るようになってた。
縄文早期になると定住生活が出現する。
鹿児島市にある加栗山遺跡(縄文時代早期初頭)では、16棟の竪穴住居跡、33基の煙道つき炉穴、17基の集石などが検出されている。
この遺跡は草創期の掃除山遺跡や前田遺跡の場合と違って、竪穴住居跡の数の大幅な増加、住居の拡張、重複した住居跡、これらの住居跡やそのほかの遺構が中央広場を囲むように配置されている。

加栗山遺跡とほぼ同時期の鹿児島県霧島市にある上野原遺跡では46棟の竪穴住居をはじめ多数の遺構が検出されている。
このうち13棟は、桜島起源の火山灰桜島桜島の地層に覆われていることから、同じ時に存在したものと推定できる。
そして、この13棟は半環状に配置されていることから、早期初頭には、既に相当な規模の定住集落を形成していたと推定される。

縄文早期前半には、関東地方に竪穴住居がもっとも顕著に普及する。
現在まで、竪穴住居が検出された遺跡は65カ所、その数は300棟を超えている。
そのうちで最も規模の大きな東京都府中市武蔵台遺跡では24棟の竪穴住居と多数の土坑が半環状に配置されて検出されている。

南関東や南九州の早期前半の遺跡では、植物質食料調理器具である石皿、磨石、敲石、加熱処理具の土器も大型化し、出土個体数も増加する。
定住生活には、植物質食料、特に堅果類が食料の中心になっていたと想像されている。
そして、南関東の定住集落の形成には、植物採集活動だけでなく、漁労活動も重要な役割を果たしていたと考えられている。

一方、北に目を転じれば、北海道函館市中野B遺跡からは縄文早期中頃の500棟以上の竪穴住居跡、多数の竪穴住居跡、土壙墓、陥し穴、多数の土器、石皿、磨石、敲石、石錘などが出土し、その数は40万点にも上っている。
津軽海峡に面した台地上に立地するこの遺跡では、漁労活動が盛んに行われ、長期にわたる定住生活を営むことが出来たと考えられる。

また、東海地方の早期の定住集落、静岡県富士宮市若宮遺跡は28棟の竪穴住居をはじめとする多数の遺構群とともに、土器と石器が18,000点ほど出土している。
この遺跡が他の早期の遺跡と大いに違い点は、狩猟で使用する石鏃2168点も出土したことである。
富士山麓にあるこの遺跡では、小谷が多く形成され、舌状台地が連続する地形こそ、哺乳動物の生息に適した場であった。
つまり、若宮遺跡では、環境に恵まれ、獲物にも恵まれて定住生活を営む上での条件がそろっていたと推定される。

移動生活から定住的な生活への変化は、もう一つの大きな変化をもたらした。
その変化はプラント・オパール分析の結果から判明した。
一時的に居住する半定住的な生活の仕方では、周辺地域の開拓までに至らなかったが、定住的な生活をするようになった縄文時代人は居住する周辺の照葉樹林や落葉樹林を切り開いたことにより、そこにクリやクルミなどの二次林(二次植生)の環境を提供することとなった。
定住化によって、縄文人は、集落の周辺に林床植物と呼ばれる、いわゆる下草にも影響を与えた。
ワラビ、ゼンマイ、フキ、クズ、ヤマイモ、ノビルなどの縄文人の主要で、安定した食料資源となった有用植物が繁茂しやすい二次林的な環境、つまり雑木林という新しい環境を創造したことになる。
縄文時代の建築材や燃料材はクリが大半であることは遺跡出土の遺物から分かり、縄文時代の集落の周辺にクリ林が広がっていたことも確かである。

縄文文化の分布範囲

縄文文化の定義は一様ではない為、縄文文化が地理的にどのような範囲に分布していたかを一義に決定することは出来ない。
縄文土器の分布を目安とした場合、北は宗谷岬と千島列島、南は沖縄島を限界とし、宮古島や八重山諸島には分布しない(宮古島や八重山諸島は台湾島の土器と同系統のもの)。
すなわち、現在の日本国の国境線とは微妙にズレた範囲が縄文土器の分布域である。

気候の変化と縄文文化の発展

縄文時代は1万年という長い期間に渡った為、大規模な気候変動も経験している。
また日本列島は南北に極めて長く、地形も変化に富んでいる為、現在と同じように縄文時代においても気候や植生の地域差は大きかった。
結果として、縄文時代の文化形式は歴史的にも地域的にも一様ではなく、多様な形式を持つものとなった。

最後の氷河期が終わってから紀元前4000年頃までは、地球の気温は徐々に温暖化していった時期である。
縄文土器編年区分においてはこれは縄文草創期から縄文前期に相当する。
この間に日本列島は100メートル以上もの海面上昇を経験しており、今日では縄文海進と呼ばれている。

縄文草創期当時の日本列島の植生は冷涼で乾燥した草原が中心であったが、落葉樹の森林も一部で出現していた。
また地学的に見ても、北海道とサハリンは繋がっていたし、津軽海峡は冬には結氷して北海道と現在の本州が繋がっていた。
瀬戸内海はまだ存在しておらず、本州、四国、九州、種子島、屋久島、対馬列島は一つの大きな島となっていた。
この大きな島と朝鮮半島の間は幅15キロメートル程度の水路であった。
その後、温暖化により海面が上昇した結果、先に述べた対馬・朝鮮半島間の水路の幅が広がって朝鮮海峡となり、対馬暖流が日本海に流れ込むこととなった。
これにより日本列島の日本海側に豪雪地帯が出現し、その豊富な雪解け水によって日本海側にはブナなどの森林が形成されるようになった。

縄文早期には定住集落が登場した他、本格的な漁業の開始、関東における外洋航行の開始など新たな文化要素が付け加わった。
最も古い定住集落が発見されているのが九州南部で、およそ11000年前に季節的な定住が始まり、10000年ほど前に通年の定住も開始されたと推測されている。
定住が開始された理由としては、それまで縄文人集団が定住を避けていた理由、すなわち食料の確保や廃棄物問題、死生観上の要請などが定住によっても解決出来るようになったためではないかと見られる。
この時期の土器は北東アジア系、華北・華中系、華南系の3系統に分けられており、分布面から見ると北東アジア系は北海道から東日本に、華北・華中系は西日本、華南系は南日本から出土している。
植生面から見ると、縄文早期前半は照葉樹林帯は九州や四国の沿岸部および関東以西の太平洋沿岸部に限られており、それ以外の地域では落葉樹が優勢であった。

縄文前期から中期にかけては最も典型的な縄文文化が栄えた時期であり、現在は三内丸山遺跡と呼ばれる場所に起居した縄文人たちが保持していたのも、主にこの時期の文化形式である。
この時期には日本列島に大きく分けて九つの文化圏が成立していたと考えられている(後述)。
海水面は縄文前期の中頃には現在より3メートルほど高くなり、気候も現在よりなお温暖であった。
この時期のいわゆる縄文海進によって沿岸部には好漁場が増え、海産物の入手も容易になったと林謙作は指摘している。
植生面では関ヶ原より西は概ね照葉樹林帯となった。

縄文後期に入ると気温は再び寒冷化に向かい、食料生産も低下する。
その結果、縄文人の人口も停滞あるいは減少に転じる。
関東では貝類の好漁場であった干潟が一気に縮小し、貝塚も消えていくこととなった。
一方、西日本や東北では低湿地が増加した為、低湿地に適した文化形式が発達していった。
中部や関東では主に取れる堅果類がクリからトチノキに急激に変化した。
その他にも、青森県の亀ケ丘遺跡では花粉の分析により、トチノキからソバへと栽培の中心が変化したことが明らかになっている。

文化圏は九つから四つに集約される。
この四つの文化圏の枠組みは弥生時代にも引き継がれることとなる。

縄文文化の地域性

縄文文化は日本列島のどの地域でも同質のものだったのではなく、多様な地域性を備えた文化群であったことが指摘されている。

土偶の分布に見る地域性

縄文人が製作した土偶は、縄文時代の全期間を通して日本列島各地で満遍なく使われていたのではなく、時期と地域の両面で限定されたものであった。
すなわち、縄文早期の更に前半期に関東地方の東部で集中的に使用された後、縄文中期に土偶の使用は一旦消滅している。
その後、縄文後期の前半に東日本で再び土偶が使用されるようになる。
一方、それまで土偶の使用が見られなかった九州においては、縄文後期になって九州北部および中部で土偶が登場している。

こうした土偶の使用の地域性について藤尾は、ブナ、ナラ、クリ、トチノキなどの落葉性堅果類を主食とした地域(つまりこれら落葉樹林に覆われていた地域)と、西日本を中心とした照葉樹林帯との生業形態の差異と関連づけて説明している。
落葉性堅果類、いわゆるドングリや栗は秋の一時期に集中的に収穫される為、比較的大きな集落による労働集約的な作業が必要となる為、土偶を用いた祭祀を行うことで社会集団を統合していたのではないかという考え方である。

縄文時代の文化圏

前述のように、縄文前期には日本列島内に九つの文化圏が成立していたと考えられている。
すなわち、次の九つである。

「石狩低地以東の北海道/アイヌモシリ」
エゾマツやトドマツといった針葉樹が優勢な地域。
トチノキやクリが分布していない点も他地域との大きな違いである。
トド、アザラシ、オットセイという寒流系の海獣が豊富であり、それらを捕獲する為の回転式離頭銛が発達した。

「北海道/アイヌモシリ西南部および東北北部」
石狩低地以東と異なり、植生が落葉樹林帯である。
ミズナラ、コナラ、クルミ、クリ、トチノキといった堅果類の採集が盛んに行われた。
回転式離頭銛による海獣捕獲も行われたが、カモシカやイノシシなどの陸上のほ乳類の狩猟も行った点に、石狩以東との違いがある。

「東北南部」
動物性の食料としては陸上のシカ、イノシシ、海からはカツオ、マグロ、サメ、イルカを主に利用した。
前2者とは異なり、この文化圏の沖合は暖流が優越する為、寒流系の海獣狩猟は行われなかった。

「関東」
照葉樹林帯の植物性食料と内湾性の漁労がこの文化圏の特徴で、特に貝塚については日本列島全体の貝塚のうちおよそ6割がこの文化圏のものである。
陸上の動物性食料としてはシカとイノシシが中心。
海からはハマグリ、アサリを採取した他、スズキやクロダイも多く食した。
これらの海産物は内湾で捕獲されるものであり、土器を錘とした網による漁業を行っていた。

「北陸」
シカ、イノシシ、ツキノワグマが主な狩猟対象であった。
植生は落葉広葉樹(トチノキ、ナラ)で、豪雪地帯である為に家屋は大型化した。

「東海・甲信」
狩猟対象はシカとイノシシで、植生は落葉広葉樹であるが、ヤマノイモやユリネなども食用とした。
打製石斧の使用も特徴の一つである。

「加賀・能登・越前・伊勢湾沿岸・中国・四国・豊前・豊後」

狩猟対象はシカとイノシシで、植生は落葉広葉樹に照葉樹(シイ、カシ)も加わる。
漁業面では切目石錘(石を加工して作った網用の錘)の使用が特徴であるが、これは関東の土器片による錘の技術が伝播して出現したと考えられている。

「九州(豊前・豊後を除く)」

狩猟対象はシカとイノシシ。
植生は照葉樹林帯。
最大の特徴は九州島と韓半島の間に広がる多島海を舞台とした外洋性の漁労活動で、西北九州型結合釣り針や石鋸が特徴的な漁具である。
結合釣り針とは複数の部材を縛り合わせた大型の釣り針で、同じ発想のものは古代ポリネシアでも用いられていたが、この文化圏のそれは韓半島東岸のオサンリ型結合釣り針と一部分布域が重なっている。

九州南部は縄文早期末に喜界カルデラの大噴火があった為、ほぼ全滅と考えられる壊滅的な被害を受けた。

「トカラ列島以南」
植生は照葉樹林帯である。
動物性タンパク質としてはウミガメやジュゴンを食用とする。
珊瑚礁内での漁労も特徴であり、漁具としてはシャコ貝やタカラガイなどの貝殻を網漁の錘に用いた。
九州文化圏との交流もあった。

これら九つの文化圏の間の関係であるが、縄文文化という一つの文化圏内での差異というよりは、「発展の方向を同じくする別個の地域文化」と見るべきであるとの渡辺誠による指摘がある。
つまり、これら全ての文化圏のいずれもが共通の、しかし細部が若干異なる文化要素のセットを保持していたのではなく、それぞれの文化圏が地域ごとの環境条件に適合した幾つかの文化要素を選択保持していた。
そのため、ある文化圏には存在したが別の文化圏には存在しなかった文化要素も当然ながら見られるのである。

縄文後期に入ると、これら九つの文化圏のうち「北海道/アイヌモシリ西南部および東北北部」「東北南部」「関東」「北陸」「東海・甲信」の五つがまとまって単一の文化圏(照葉樹林文化論における「ナラ林文化」)を構成するようになり、また「加賀・能登・越前・伊勢湾沿岸・中国・四国・豊前・豊後」「九州(豊前・豊後を除く)」がまとまって単一の文化圏(照葉樹林文化論における照葉樹林文化)を構成するようになる。
その結果、縄文後期・晩期には文化圏の数は四つに減少する。

勾玉からみる地域交流

遅くとも縄文中期(BC5,000年)頃にはヒスイ製勾玉がつくられていたことが判明しており、特に新潟県糸魚川の「長者ヶ原遺跡」からはヒスイ製勾玉とともにヒスイの工房が発見されている。
蛍光X線分析によると青森県の「三内丸山遺跡」や北海道南部で出土されるヒスイは糸魚川産であることがわかっており、このことから縄文人が広い範囲でお互いに交易をしていたと考えられている。
後年には日本製勾玉は朝鮮半島へも伝播している。

大陸との交流

九州島の文化圏は打製石鋸や結合型釣り針など、朝鮮半島や渤海湾沿岸の新石器文化との間に共通する要素を多く持っており、これらの地域との間で継続的に人や物の移動があったと推測されている。
縄文後期に出現する雑穀栽培の技術は大陸から導入されたとする説もある。

植物栽培

縄文農耕論は、明治時代以来の長い研究史があり、農耕存否の論争は現在も続いている。

縄文時代に植物栽培が行われていたことは確実であると考えられている。
福井県の鳥浜貝塚の前期の層から栽培植物が、早期の層からヒョウタンが検出されている。
一方、北部九州の後・晩期遺跡の遺物で焼畑農業が行われていた可能性が高いと考えられている。
熊本県下の遺跡の土壌と土器胎土のプラント・オパール分析、福岡県下の後・晩期遺跡の花粉分析、熊本市の遺跡でイネ、オオムギ、大分県遺跡でイネなどが検出されている。
東日本からも、同じく後・晩期の10個所を超える遺跡からソバの花粉が検出されている。
これらも焼畑農耕による栽培であると推定されている。

稲作のはじまり

現在ではプラント・オパールの研究により、縄文時代後期から晩期にかけては熱帯ジャポニカの焼畑稲作が行われていたことが判明している。

イネの品種には、ジャポニカ(日本型)・ジャバニカ(ジャワ型)とインディカ(インド型)があり、ジャポニカは更に、温帯ジャポニカと熱帯ジャポニカに分かれる。
温帯ジャポニカは、中国の長江北側から、日本列島というごく限られた地域に水稲農耕と密接に結びついて分布している。
弥生時代以降の水稲も温帯ジャポニカであるとされている。
熱帯ジャポニカは、インディカの分布と重なりながら、更に広い範囲に分布し、陸稲と密接に結びついているのが特徴であるとされる。

列島へは、まず熱帯ジャポニカが南西諸島を通って列島に伝播した。
温帯ジャポニカによる水稲農耕の始まりも近年の稲DNAに基づく研究では、DNAの多様性が朝鮮半島の方が少ないことから南方経由の可能性が高いとされている。
また朝鮮北部での水耕田跡が近代まで見つからないことや朝鮮半島での確認された炭化米が紀元前2000年が最古であり、日本列島のものを遡れないことなどから、稲作は日本列島から朝鮮半島へ伝播した説も出ている。

縄文時代のイネは、炭化米が後期後半の熊本県の上ノ原遺跡などから検出されており、籾跡土器の胎土から検出されたイネのプラント・オパールに至っては、後期後半の西日本各地の遺跡から発見されている。
このため、後期後半の日本列島でイネが栽培されていたことは間違いない。
ただ、イネが単独で栽培されていたわけでなく、オオムギ、ヒエ、キビ、アワ、ソバなどの雑穀類の栽培やアズキ、大豆なども混作されていた。

[English Translation]