田堵 (Tato)

田堵(たと)は、日本の平安時代に荘園・国衙領の田地経営をおこなった有力百姓層である。
田刀、田頭とも。
貞観_(日本)元年(895年)12月付の元興寺領近江国愛智荘(えちのしょう)の検田帳に「田刀」とあるのが初見である。
田堵の堵は、垣を意味する。

概要

9世紀~10世紀ごろに律令制の解体が進展していくと、百姓の中に他から田地を借りて耕作し、富を蓄積する富豪層が出現した。
これが田堵である。
田堵には、古来の郡司一族に出自する在地豪族や、土着国司などの退官した律令官人を出自とする者が多かった。
彼らは、蓄積した富をもって、墾田開発・田地経営などの営田活動を進めたり、他の百姓への出挙を行ったりして、より一層、富を集積し、一般の零細な百姓層を隷属化して成長していった。

そして、まず国衙領において、公田から名田への再編成が行われると、田堵が名田経営を請け負う主体に位置づけられるようになる。
さらに、荘園にも名田化が波及すると、荘園内の名田経営も田堵が請け負うようになった。
こうして田堵は、荘園・公領経営に深く携わるようになっていき、荘官や名主の地位を得るのである。
田堵は、荘園公領制の成立に非常に大きな役割を果たしたといえる。

田堵は、その経営規模によって、大名田堵(だいみょうたと)や小名田堵(しょうみょうたと)などと呼ばれた。
11世紀に成立した『新猿楽記』という世相を映し出した書物には、以下の内容の記載があり、田堵の実情をよく知ることができる。
「出羽権介の田中豊益は、農業経営を専門とし、数町の田地を経営する大名田堵である。」
「ひでりに備えて、農具や用水の整備にいそしんで農民の育成にあたり、種播期には農民の作業をうまく指揮する。」

[English Translation]