江戸 (Edo)

江戸(えど,日本語以外ではEdo、Yedo、Yeddo、Yendo、Jedoなど諸表記あり)は、東京の旧称である。
特に、江戸城を中心とする現在で言う東京特別区中心部(東京都千代田区・中央区 (東京都)周辺)を指す。

概要

江戸は明治維新により東京とされるまで皇居を置かなかったため都ではなかったが、江戸時代には江戸幕府が置かれた事実上の日本の首都(行政首都)であり、日本の政治経済の中心地として発展した。
また、江戸城は徳川氏の征夷大将軍の居城であり、江戸は幕府の政庁が置かれる行政府の所在地であると同時に、自身も天領を支配する領主である徳川氏(徳川将軍家)の城下町でもあった。
幕末になると政治的中心が再び京都に移り、15代将軍徳川慶喜は将軍としては江戸に一度も居住しなかった。

1868年(明治元年)に発せられた江戸ヲ称シテ東京ト為スノ詔書により江戸は東京と改称され、続く天皇の東京行幸により江戸城が東京の皇居とされた。
翌年には明治新政府も京都から東京に移され、日本の事実上の首都となる。
また、東京への改称とともに町奉行支配地内を管轄する東京府庁が開庁された(1871年、廃藩置県に伴い新・東京府に更置)。

1889年に、市制施行で東京市となった。
1943年の戦時体制下で、東京府と東京市は廃止されて、東京都が設置された。

江戸の町は、大きく分けて見ると江戸城の西に広がる山の手の武家屋敷と、東の隅田川をはじめとする数々の河川・堀に面した庶民の町(下町)に大別される。
川・堀の水路網と蔵は江戸を象徴する町並の特徴であり、蔵造りの町並が残された川越市、栃木市、佐原市などの関東地方の河港都市は、江戸に似た構造という点や江戸と交流が深かったという点から「小江戸」と呼ばれている。

徳川氏以前の江戸

「江戸」という地名は、鎌倉幕府の歴史書『吾妻鏡』が史料上の初見で、おおよそ平安時代後半に発生した地名であると考えられている。

地名の語源は諸説あるが、江は川あるいは入江とすると、戸は入口を意味するから「江の入り口」に由来したと考える説が有力である。
当時の江戸は、武蔵国と下総国の国境である隅田川の河口の西に位置し、日比谷入江と呼ばれる入江が、後の江戸城の間近に入り込んでいた。

江戸の開発は、平安時代後期に武蔵国の秩父地方から出て川越市から入間川 (埼玉県)(現荒川 (関東))沿いに平野部へと進出してきた桓武平氏を称する秩父党の一族によって始められた。
11世紀に秩父氏から出た江戸重継は、江戸の桜田(のちの江戸城)の高台に居館を構え、江戸の地名をとって江戸太郎を称し、江戸氏を興す。
重継の子である江戸重長は1180年に源頼朝が挙兵した時には、当初は伊勢平氏方として頼朝方の三浦氏と戦ったが、後に和解して鎌倉幕府の御家人となった。
弘長元年10月3日 (旧暦)(1261年)、江戸氏の一族の一人であった地頭江戸長重が正嘉の飢饉による荒廃で経営ができなくなった江戸郷前島村(現在の東京駅周辺)を北条氏得宗家に寄進した。
長重はその被官となり、1315年までに得宗家から円覚寺に再寄進されていることが記録として残されている。

鎌倉幕府が滅びると、江戸氏は南北朝時代 (日本)の騒乱において初め新田義貞に従って南朝 (日本)方につき、後に北朝 (日本)に帰順して鎌倉公方に仕えた。
しかし、室町時代に次第に衰え、本拠地を多摩郡喜多見(現在の東京都世田谷区喜多見)に移した。

代わって江戸の地には、関東管領上杉氏の一族扇谷上杉家の有力な武将であり家老であった太田資長(のちの太田道灌)が入り、江戸氏の居館跡に江戸城を築く。
江戸城は、一説には長禄2年(1456年)に建設を始め、翌年完成したという。
太田資長は文明 (日本)10年(1478年)に剃髪し道灌と号し、文明18年(1486年)に謀殺されるまで江戸城を中心に南関東一円で活躍した。
道灌の時代、現在の神田川 (東京都)並びに日本橋川の前身である平川(平河)は日比谷入江に流れ込んでおり、西に日比谷入江、東に江戸湊(但し『東京市史稿』は日比谷入江を江戸湊としている)がある江戸前島周辺は中世には、浅草や品川湊と並ぶ、武蔵国の代表的な湊であった。
江戸や品川は利根川(現在の古利根川・中川)や荒川 (関東)などの河口に近く、北関東の内陸部から水運を用いて鎌倉・小田原城・西国方面に出る際の中継地点となった。

道灌の死後、扇谷上杉氏の衰亡と共に、江戸城は後北条氏の支城となった。
後北条氏末期には北条氏政が直接支配して太田氏や千葉氏を統率していた。

徳川時代の江戸

一介の地方の城下町から巨大都市への大改造を実現した人物は、徳川家康であった。

1590年、後北条氏が小田原の役で豊臣秀吉に滅ぼされると、後北条氏の旧領に封ぜられ、開拓の命を受けた徳川家康は、関東地方の中心となるべき居城を江戸に定めた。
同年の旧暦8月1日 (旧暦)(八朔)、家康は駿府から居を移すが、当時の江戸城は老朽化した粗末な城であったという。
家康は江戸城本城の拡張は一定程度に留める代わりに城下町の建設を進め、神田山を削り、日比谷入江を盛んに埋め立てて町を広げ、家臣と町民の家屋敷を配置した。
突貫工事であったために、埋め立て当初は地面が固まっておらず、乾燥して風が吹くと、もの凄い埃が舞い上がるという有様だったと言われる。
この時期の江戸城はこれまでの本丸・二ノ丸に、西丸・三ノ丸・吹上・北ノ丸があった。
また道三掘や平川の江戸前島中央部への移設、それに伴う埋め立てにより、現在の西丸下の半分以上が埋め立られている(この時期の本城といえるのはこの内、本丸・二ノ丸と家康の隠居所として造られた西丸である)。

家康が1600年の関ヶ原の戦いに勝利して天下人となり、1603年に征夷大将軍に任ぜられると、幕府の所在地として江戸の政治的重要性は一気に高まった。
また、徳川家に服する諸大名の屋敷が設けられ、江戸に居住する大名の家臣・家族や、徳川氏の旗本・御家人近世の御家人などの武士が数多く居住するようになるとともに、彼らの生活を支える商人・職人が流入し、町が急速に拡大した。

一方、江戸城とその堀が幕府から大名に課せられた普請によって整備され、江戸城は巨大な堅城に生まれ変わり、城と武家屋敷を取り巻く広大な惣構が構築された。
都市開発の歴史については後の都市の章で述べる。

1657年の明暦の大火の後、再建事業によって市域は隅田川を超え、東へと拡大した。
その人口は絶えず拡大を続け、18世紀初頭には人口が百万人を超え、八百八町といわれる世界有数(一説によると当時世界一)の大都市へと発展を遂げた。
人口の増大は、江戸を東日本における大消費地とし、東日本各地の農村と結ばれた大市場、経済的先進地方である上方(近畿地方)と関東地方を結ぶ中継市場として、経済的な重要性も増した。
当時の江戸は、『東都歳時記』、『富嶽三十六景』の「東本願寺 (東京都台東区)」など、漢風に「東都」とも呼ばれる大都市となっていた。
18世紀末から19世紀初めには、上方にかわる文化的な中心地ともなり、経済活動や参勤交代を通じた江戸を中心とする人の往来は江戸から地方へ、地方から江戸へ盛んな文化の伝播をもたらした。
一方で、膨大な人口が農村から江戸に流入して、様々な都市問題を引き起こすことにもなった。

江戸の人口と識字率

ロドリゴ・デ・ビベロによって1609年ごろに15万人と伝えられた江戸の人口は、18世紀初頭には100万人を超え、世界一ないしはそれに匹敵する規模であったと推定されている。
成人男性の識字率も幕末には70%を超え、同時期のロンドン(20%)、パリ(10%未満)を遥かに凌ぎ、ロシア人革命家メーチニコフや、トロイア遺跡を発見したドイツ人のハインリッヒ・シュリーマンらが、驚きを以って書いている。
また、武家だけではなく農民も和歌を嗜んだと言われており、その背景には寺子屋の普及があったと考えられている。
その様に世界的に見れば極めて高い水準であると言うことができる。

ただ、人口に関しては、記録に残っているのは幕末に60万人近くとなった町人人口のみである。
人口100万人とは、幕府による調査が行われていない武家や神官・僧侶などの寺社方、被差別階級などの統計で除外された人口を加えた推計値である。
武士の人口は、参勤交代に伴う地方からの単身赴任者など、流動的な部分が非常に多く、その推定は20万人程度から100万人程度までとかなりの幅があり、最盛期の江戸の総人口も68万人から150万人まで様々な推定値が出されている。
雑記等に記される同時代人の推定も50万人から200万人まで幅がある。

町奉行支配下の町方・寺社方町人人口

江戸の国勢調査の最古の記録は、『正宝事録』の註釈として記された元禄六年(1693年)六月十七日の35万3588人であり、徳川綱吉が浮説雑説を唱えた者を探すために行われたものである。
しかし、実際に人口調査の体裁が整えられてたのは、徳川吉宗によって子午改(6年毎)の全国人口調査が開始された享保六年(1721年)以降であり、大岡忠相から有馬氏倫へ提出した書類の形式で伝えられている。
徳川吉宗は享保八年(1723年)九月から享保九年(1724年)四月の間の9263人の急激な人口減少、享保十年(1725年)四月から六月の間の1万0394人の急激な人口増加に気付き、季節的な人口変動の理由を調べさせた結果、冬の火災の多さから特に子女は近隣実家等へ疎開する、春以降火災からの復興再建や土蔵の建築が増えて労働転入者も増える、などといった実態が判明している。

以下公文書の他、複数の史料に記録として残っている江戸府内の町人の人口を男女別構成とともにまとめる。
江戸の範囲は随時変わっており、寺社門前地が正式に御所内に組み込まれたのは1745年以降であり、朱引・墨引という呼称ができたのは1818年以降である。
また安政元年以降は新吉原・品川・三軒地糸割符猿屋町会所を含む。
明治二年(1869年)四月に施行された江戸市街調査によると江戸は町地269万6千坪(8.91 km2, 15.8%)、寺社地266万1千坪 (8.80 km2, 15.6%)、武家地1169万2千坪(38.65 km2, 68.6%)より構成されていたが、この内武家地の人口は江戸時代を通じて調査より除外された。
公文書の形式で残っているもの(重宝録、享保撰要類集、町奉行支配惣町人人数高之改、天保撰要類集、市中取締類集)以外は信頼度が低い。
出典のうち『江戸会雑誌』や勝海舟の『吹塵録』、『江戸旧事考』、『統計学雑誌』などは明治時代中ごろにまとめられた二次的史料であり、元となる江戸時代の史料が現在では不明となっている。
斜体で示した数字は (1) 他の年月に酷似した数字が登場しており、共に誤記が疑われるケース (2) 元の史料の人口に対して寺社方人口や新吉原などの計外人口を独自に加算したと推測されるケースのいずれかであり、信頼性が低い。

女2万9438人)を含む)

(大田南畝 「寛政十年戊午江戸人別」 『一話一言』 巻26 (1820年) 山下重民 「江戸市街統計一班」 『江戸会雑誌』 1冊(2号) pp. 18–26(1889年) 勝海舟 「江戸人口小記」「正徳ヨリ弘化迄江戸町数人口戸数」 『吹塵録』(1890年) 小宮山綏介 「府内の人口」 『江戸旧事考』 2巻 pp. 19–23(1891年) 『日本財政経済史料』 9巻 pp. 1210–1243(1922年) 柚木重三、堀江保蔵 「本邦人口表」 『経済史研究』 7号 pp. 188–210(1930年) 幸田成友 「江戸の町人の人口」 『社会経済学会誌』 8巻(1号) pp. 1–23(1938年) 鷹見安二郎 江戸の人口の研究」 『全国都市問題会議』 第7回1(本邦都市発達の動向と其の諸問題上) pp. 59–83(1940年) 高橋梵仙 『日本人口史之研究』 三友社(1941年) 関山直太郎 『近世日本の人口構造』 吉川弘文館(1958年) 南和男『幕末江戸社会の研究』 吉川弘文館(1978年)より作成。
史料によって若干異なる場合は一方のみを記した。
享保三年十二月、享保七年三月、享保八年五月、享保九年七月、享保十年九月、享保十六年四月、享保十七年十一月の数字を仮に町方並寺社門前の人口として扱ったが、公文書では少なくとも享保十年六月までは町方支配場の人口のみしか集計しておらず、そもそもこれらのほとんどにアナグラム的な数字の誤記が見受けられる。
また『吹塵録』の「江戸人口小記」は町方並寺社門前の人口として子午年改の人口をまとめているが、『重宝録』では享保六年十一月の人口を町奉行支配場のみの町人人口として記載している。
よって、享保十一年、元文三年、延享元年の数字も町奉行支配場町人人口として扱った。)

寛政十年五月(1798年)と天保十一年五月(1840年)に関しては三郡(豊島郡 (武蔵国)、荏原郡、葛飾郡)に占める江戸の人口が知られている。

江戸末期には出世地別の統計や地方に籍を置く出稼人の人口もまとめられている。

算総人口

公文書で出稼人を加えた町人人口が最大(58万7458人)となったのは天保十四年七月(1843年)であり、出稼人を除いた町人人口が最大(57万5901人)となったのは嘉永六年九月(1853年)のことである。
但し『江戸旧事考』は出稼人を加えた町人人口が最大となった天保十四年の人口を59万6448人とし(内訳等の数字は公文書の天保十四年七月のものと似ている)、出稼人を除いた町人人口が最大になった数字として100年前の寛保二年(1742年)の59万1809人を挙げている(『江戸旧事考』の数字は多くの場合計外人口を加算しているものと思われる)。
また『江戸会雑誌』は享和三年正月(1803年)の数字として60万7100人を挙げている(但し男性の人口を誤って十万人多く記載していると思われる)。
江戸は地方からの上京者が多く、江戸時代中期には男性が女性の倍近くいたが、末期には男女差がかなり解消された。

このほか大田南畝の『半日閑話』、岩瀬京山の『蜘蛛の糸』、『乙巳雑記上』などは、天明六年十月廿八日(1786年)または天明七年五月廿五日以降(1787年)に江戸の町人の人口が100万人を超える128万5300人であったと伝えている。
また天保八年(1837年)の人口として128万4815人という数字も伝わっている。
共に災害の直後の非常時であったため、これらが武家人口を含めた真の江戸の人口であるとする解釈があるが、(1) 男女比が逆転している (2) 50年隔てた両年の人口や後述の計外人口の構成が酷似しているなど信頼性が低い。

新吉原、神官・僧侶の人口

吉原 (東京都)は1657年の明暦の大火の際に江戸郊外に作られた居住地区であったが、安政元年よりも前は町奉行の支配下に入っておらず、江戸御府内人口の統計から除外されてきた。
また神官・僧侶は特殊階級とみなされ、人口の統計から除外されている。
以下複数の雑記に記録されている計外人口を列挙する。
しかし、時代を超えて数字が酷似していることから、数点の元史料をもとに数字が伝えられ、誤記により変化した考えられる。

寺社方人口として一番控えめな数字を採用すると約4万人程度となる。
また新吉原の人口は約1万人程度である。

寺社門前町支配下の農民、町人の人口

御府内の範囲は時代によって異なり、特に寺社門前町の取り扱いについては幕府役人の間でも問い合わせがあった。
実際朱印内であってもかなりの農地が武家屋敷とともに存在した。
そのため町奉行支配下の町人人口として計上されている寺社門前地の人口には、農地に点在する農民、一部町人の人口が含まれていないとする解釈がある。
鷹見安二郎(1940年)によると住宅密集地区外に点在する民家は文政年間で約9500戸程度と見積もられ、約4万3500人程度である。

被差別階級の人口

以下『江戸会誌』2冊(10号)37頁による。

松右衛門手下

武士及び使用人の人口

武家屋敷に使用人として住む町人の人口は、幕府の管理下になかったため、江戸の人口統計から除外されている。
また軍事機密保持なども理由に、武士階級全体の人口がそもそも統計として残っていない。
いくつかの雑記は江戸在中の武士の人口として2億人を超える荒唐無稽な数値(享保十七年四月(1732年) 2億3698万7950人(『月堂見聞集』)、享保二十年(1735年):2億3608万5950人(『半日閑話』)、寛政三年(1743年)及び文化十二年(1815年):2億3658万0390人(『甲子夜話』))を記載しているが、唯一『土屋筆記』は御屋敷方の人口として70万0973人(年次不明)という比較的現実的な人口を伝えている。
また『柳烟雑記』は享保九年五月(1723年)の武家人口として、大名264人、旗本5205人、御目見以下1万7004人、与力・同心並びに六尺・下男3万0909人、その他487人と伝えている。

小宮山綏介(1891年)は、『柳烟雑記』の統計を元に諸藩の在府者と家族の人口を12万1100人、旗本御家人と家族の人口を8万3403人、その家来・従事者5万8936人、合計約26万人程度と推定している。
また天保十四年の調査に対しては、合計約30万人程度と推定している。
一方鷹見安二郎(1940年)は明治初年の華族・士族人口や石高の統計などをもとに、諸藩の在府者と家族の人口を約36万人、幕府配下の武家と家族の人口を約26万人、合計約62万人と推定している。
関山直太郎(1958年)は、旗本御家人と家族約11万5千人、その家来・従属者約10万人、諸藩の在府者と家族約18万人、幕府直属の足軽・奉公人等約10万人、合計約50万人と推定している。
過去の人口推定値として海外でしばしば引用されるTertius Chandler(1987年)は、町奉行支配下の町人人口の3/8程度を武士人口とし、18万8千人(1701年)から約21万5千人(1854年)と見積もっている。

江戸から東京へ

1868年に戊辰戦争が起こり、鳥羽・伏見の戦いで幕府軍が敗れると、薩摩藩長州藩軍の大軍が江戸に迫り、江戸は戦火に晒される危険に陥った。
幕臣勝海舟は早期停戦を唱えて薩長軍を率いる西郷隆盛と交渉、最後の将軍徳川慶喜は江戸城の無血開城し降伏、交戦派と官軍の間の上野戦争を例外として、江戸は戦火を免れた(江戸開城)。

同年、江戸は東京と改名され、翌1869年には東京城(江戸城)に東京行幸した明治天皇が入って「皇城」とされて、かつての将軍の居住する都市・江戸は、天皇の行在する都市・東京となった(東京奠都)。
東京の町並が東京市、東京都へと変遷しつつ拡大してゆく過程で、かつての江戸は都心となり、その中核としての役割を果たしている。

江戸の範囲

江戸の地名で呼ばれる地域は、元々は平安時代に存在した荏原郡桜田郷(江戸城の西南)の一部であったが、やがて豊島郡 (武蔵国)江戸郷と呼ばれるようになっていた。

江戸時代前期頃の江戸の範囲は、現在の東京都千代田区とその周辺のみであり、江戸城の外堀はこれを取り囲むよう建造された。
明暦の大火以後、その市街地は拡大。
通称「八百八町」と呼ばれるようになる。

江戸の市域は「御府内」と呼ばれ、正式な区域は1818年に地図上の朱引きで、さらに町奉行の管轄する区域は墨引きで示されるようになった。
朱引きは旧東京市の15区より若干広く、現在の豊島区、渋谷区、荒川区、北区 (東京都)、目黒区の一部、品川区の一部、板橋区の一部をも含む。
墨引きは旧東京市の15区とほぼ一致する。
朱引きは明治以降も存続し、数度の改正を経て、最終的には旧墨引に近い形となり郡区町村編制法施行時に旧東京15区となった。

江戸は、江戸後期に現在の、千代田区・中央区 (東京都)・港区 (東京都)・新宿区の東側(四谷付近まで)・文京区・台東区・墨田区・江東区の辺り、のちの東京市の内十五区部分ぐらいまで広がったといわれている。

以下に江戸に含まれる主な歴史的地名をあげる。

神田 (千代田区)

日本橋 (東京都中央区)

京橋 (東京都中央区)

本郷 (文京区)

下谷

上野 (台東区)

浅草

本所 (墨田区)

深川 (江東区)

両国 (墨田区)

向島 (墨田区)

元々、徳川家康自身が岡崎市出身の一大名であったように、岡崎を初めとする西三河系の地名が、江戸には多く移植されている(例:秋葉原 三河の隣国、遠江国の秋葉山本宮秋葉神社に由来)。

実際には、既に触れたように江戸の地は平安時代末期から関東南部の要衝であった。
確かに徳川氏の記録が伝えるように、後北条氏時代の江戸城は最重要な支城とまではみなされず城は15世紀の粗末なつくりのまま残されていたが、関八州の首府となりうる基礎はすでに存在していた。

しかし、江戸が都市として発展するためには、日比谷入江の東、隅田川河口の西にあたる江戸前島と呼ばれる砂州を除けば、城下町をつくるために十分な平地が存在しないことが大きな障害となる。
そこで徳川氏は、まず江戸城の大手門から隅田川まで道三堀を穿ち、そこから出た土で日比谷入江の埋め立てを開始した。
道三堀は墨田川河口から江戸城の傍まで、城の建造に必要な木材や石材を搬入するために活用され、道三堀の左右に舟町が形成された。
また、元からあった平地である今の常盤橋門外から日本橋の北に最初の町人地が設定された(この時と時期を同じくして平川の日比谷入江から江戸前島を貫通する流路変更が行われたと思われる)。
これが江戸本町、今の日本銀行本店や三越本店がある一帯である。
さらに元からあった周辺集落である南の芝 (東京都港区)、北の浅草や西の赤坂、牛込、麹町にも町屋が発展した。
この頃の江戸の姿を伝える地図としては『別本慶長江戸図』が知られている。

江戸は「の」の字形に設計されたことが一般の城下町と比べて特異であるといわれる。
つまり、江戸城の本城は大手門から和田倉門、馬場先門、桜田門の内側にある本丸、二の丸、西の丸などの内郭に将軍、次期将軍となる将軍の世子、先代の将軍である大御所が住む御殿が造られ、その西にあたる半蔵門内の吹上に将軍の親族である徳川御三家の屋敷が置かれた。
内城の堀の外は東の大手門下から和田倉門外に譜代大名の屋敷、南の桜田門の外に外様大名の屋敷と定められ、西の半蔵門外から一ツ橋門、神田橋門外に至る台地に旗本・御家人が住まわされ、さらに武家屋敷地や大名屋敷地の東、常盤橋・呉服橋・鍛冶橋・数寄屋橋から隅田川、江戸湾に至るまでの日比谷埋立地方面に町人地が広げられた。
これを地図で見るとちょうど大手門から数寄屋橋に至るまでの「の」の字の堀の内外に渦巻き上に将軍・親藩・譜代・外様大名・旗本御家人・町人が配置されている形になる。
巻き貝が殻を大きくするように、渦巻き型に柔軟に拡大できる構造を取ったことが、江戸の拡大を手助けした。

家康の死後、二代将軍徳川秀忠は、江戸の北東の守りを確保するため、小石川門の西から南に流れていた平川をまっすぐ東に通す改修を行った。
今の水道橋から万世橋(秋葉原)の間は本郷から駿河台まで伸びる神田台地があったためこれを掘り割って人口の谷を造って通し、そこから西は元から神田台地から隅田川に流れていた中川の流路を転用し、浅草橋を通って隅田川に流れるようにした。
これが江戸城の北の外堀である神田川 (東京都)である。
この工事によって平川下流であった一ツ橋、神田橋、日本橋を経て隅田川に至る川筋は神田川(平川)から切り離され、江戸城の堀となった。
この堀が再び神田川に接続され、神田川支流の日本橋川となるのは明治時代のことである。

更に3代将軍徳川家光はこれまで手薄で残されてきた城の西部外郭を固めることにし、溜池や神田川に注ぎ込む小川の谷筋を利用して溜池から赤坂、四ッ谷、市ヶ谷を経て牛込に至り、神田川に接する外堀を造らせた。
全国の外様大名を大動員して行われた外堀工事は1636年に竣工し、ここに御成門から浅草橋門に至る江戸城の「の」の字の外側の部分が完成した。

城下町において武家地、町人地とならぶ要素は寺社地であるが、江戸では寺社の配置に風水の思想が重視されたという。
そもそも江戸城が徳川氏の城に選ばれた理由の一因には、江戸の地が当初は北の玄武は麹町台地、東の青龍は神田川 (東京都)、南の朱雀は日比谷入江、西の白虎は東海道、江戸の拡大後は、玄武に本郷 (文京区)台地、青龍に大川(隅田川)、朱雀に江戸湾、白虎に甲州街道と四神相応に則っている点とされる。
関東の独立を掲げた武将で、代表的な怨霊でもある平将門を祭る神田明神は、大手門前(現在の首塚周辺)から、江戸城の鬼門にあたる駿河台へと移され、江戸惣鎮守として奉られた。
また、江戸城の建設にともなって城内にあった山王権現(現在の日枝神社)は裏鬼門である赤坂へと移される。
更に、家康の帰依していた天台宗の僧天海が江戸城の鬼門にあたる上野忍岡を拝領、京都の鬼門封じである比叡山に倣って堂塔を建設し、1625年に寛永寺を開山した。
寛永寺の山号は東叡山、すなわち東の比叡山を意味しており、寺号は延暦寺と同じように建立時の年号から取られている。

江戸は海辺を埋め立てて作られた町のため、井戸を掘っても真水を十分に得ることができず、水の確保が問題となる。
そこで、赤坂に元からあった溜池が活用されると共に、井の頭池を水源とする神田上水が造られた。
やがて江戸の人口が増えて来るとこれだけでは供給し切れなくなり、水不足が深刻になって来た。
このために造られた水道が1653年完成の玉川上水である。
水道は江戸っ子の自慢の物の一つで、「水道の水を産湯に使い」などと言う言葉がよく使われる。

1640年には江戸城の工事が最終的に完成し、江戸の都市建設はひとつの終着点に達した。
しかし、1657年に明暦の大火が起こると江戸の町は大部分が焼亡し、江戸城天守も炎上してしまった。
幕府はこれ以降、火事をできるだけ妨げられるよう都市計画を変更することになった。
これまで吹上にあった御三家の屋敷が半蔵門外の紀尾井町に移されるなど大名屋敷の配置換えが行われ、類焼を防ぐための火除地として十分な広さの空き地や庭園が設けられた。

大名屋敷が再建され、参勤交代のために多くの武士が滞在するようになると、彼らの生活を支えるため江戸の町は急速に復興するが、もはや外堀内の江戸の町は狭すぎる状態だった。
こうして江戸の町の拡大が始まり、隅田川の対岸、深川・永代島まで都市化が進んでいった。
南・西・北にも都市化の波は及び、外延部の上野 (台東区)、浅草が盛り場として発展、さらに外側には吉原遊郭が置かれていた。

神社

神田明神

日枝神社(日枝神社)

根津神社(根津神社)

富岡八幡宮

築土神社

鳥越神社

湯島天神

寺院

浅草寺

寛永寺

増上寺

伝通院

護国寺

泉岳寺


湯島聖堂

江戸近郊

目黒不動(瀧泉寺)

池上本門寺

柴又帝釈天

東海寺 (東京都品川区)

豪徳寺

- 彦根井伊家の菩提寺

深大寺

武蔵国分寺跡

娯楽

行楽(参詣、花見、月見、紅葉狩り、雪見など)

江戸近郊

- 飛鳥山、武蔵野、深大寺詣で、小金井桜、富士塚

江戸から関東各地

- 大山 (神奈川県)詣で、富士講

歌舞伎 - 市川團十郎 - 十八番、浄瑠璃(人形浄瑠璃、常磐津など)

落語、講談

錦絵

浮世絵

- 葛飾北斎、歌川広重、東洲斎写楽

黄表紙本

- 戯作、洒落本

俳諧

- 松尾芭蕉、小林一茶

花火

- 玉屋、鍵屋

風呂

服装

着物

振袖

浴衣

履物

下駄 足駄 草履 雪駄

食事

百珍(豆腐百珍、卵百珍など)

初カツオ

蕎麦飯

雑炊

沢庵漬け

江戸前寿司

蕎麦

天ぷら

振売

諺・故事成語

江戸前

火事と喧嘩は江戸の華 >>江戸の火事

江戸の敵を長崎で討つ

江戸っ子は宵越しの銭は持たぬ

江戸っ子は五月の鯉の吹き流し

江戸っ子の梨を食うよう

江戸っ子の初もの食い

江戸っ子の産れ損なひ金を貯め

[English Translation]