水軍 (Suigun)

水軍(すいぐん)は、東アジアの漢字文化圏における伝統的な水上兵力の称である。
西洋・近代の軍事における海軍に相当するが、東洋の水軍においては河川や湖沼における水上兵力の比重も大きい。
水師、船師、舟師ともいう。
集団化・組織化すると、船党、警固衆(けごしゅう)、海賊衆などの呼称もある。

日本の水軍

島国日本では隣国の朝鮮と同様に、古代から沿海部に居住する海民が水上兵力として活躍した。
古代ヤマト王権の時代には、日本の水軍を支えたのは安曇氏(あずみべ)や海人部(あまべ)、津守氏といった海の氏族たちであった。
古代の日本においては国家の背骨は大阪湾、瀬戸内海にあった。
紀の川流域の紀氏のように瀬戸内海に対する天然の良港を持ち、後背に木材産地を確保した大豪族も独自の水軍をもって活躍した。

中世の水軍

平安時代に入ると、水上輸送する官物を強奪する「海賊」の存在が歴史に現れる。
貞観_(日本)年間には瀬戸内海の海賊鎮圧の命令が出されている。
彼らは当初は海賊行為を主体とした小規模な集団に過ぎなかった。
平安後期に入ると、各地で在地の有力者が力を持つようになった。
陸上の荘園では開発領主が武芸をもって世業とするようになり、武士階層の成立が進んでいく。
海上でも同じように海上の武力をもって世業とする海の武士たちが登場するようになった。

瀬戸内方面に於いては、その代表的なものとして次のような水軍が存在した。
摂津国渡辺津(現・大阪市中央区 (大阪市))を本拠地とし、瀬戸内海の水軍系氏族の棟梁だった渡辺氏。
その一族で13世紀の元寇に奮戦したことで知られる九州の松浦党。
10世紀の藤原純友追討に伊予の水軍を率いて活躍した橘遠保。
保元の乱後から戦国時代 (日本)まで東は塩飽諸島から西は周防国上関町まで瀬戸内を勢力圏とした村上氏(村上水軍)。

紀州方面に於いては熊野別当に代表される熊野水軍が代表格であった。
治承・寿永の乱に於いては湛増などが壇ノ浦などで活躍している。
これらは後に、九鬼水軍へと引き継がれていく。

また、安芸国の小早川氏、伊予国の越智氏や河野氏、三浦半島の三浦氏、津軽地方の安東氏などは、陸の武士であると同時に支配下の沿海土豪からなる水軍を擁した海賊衆でもあった。

中世の海辺の小土豪が結合して軍事力をもつようになった海上勢力を海賊衆といい、九州や瀬戸内海、紀伊半島、伊勢湾、東京湾など日本各地で見られた。
海賊衆は陸の悪党と同様に徒党を組んでの略奪行為や金銭を代償に取った船舶航行の警護を行った。
幕府などの公権力の統制を無視して海上で独立した軍事力と権力をふるった。

彼ら海賊衆は14世紀には活動を活発化させ、南北朝時代 (日本)の動乱には南北それぞれの側に分かれて戦った。
その後、室町時代になると陸の権力が海にも次第に及ぶようになった。
守護大名は周辺の海賊衆を、領内の田畑を警固料の名目で所領として給する代償に警固衆に編成、海上軍事力に利用した。
続く戦国時代_(日本)においては、軍事力・兵站輸送力の観点より戦国大名の側から積極的に水軍の編成に対する働きかけを行った。
そして警固衆を陸上の土豪や国人と同じように家臣団に組み入れていった。
このようにして、中世末期から近世の初頭にかけて日本の海上勢力は自立した海賊衆から大名の統制に服して公権力の海上における軍事力である水軍に転化させられてゆく。

近世の水軍

織田信長は勢力拡大の過程で志摩国の守護九鬼氏出身の九鬼嘉隆を臣属させ九鬼氏を主体とした水軍を編成した。
嘉隆率いる織田氏の水軍は長島一向一揆の征伐や石山合戦に参加して活躍した。
信長の死後には豊臣秀吉に引き継がれる事となる。
秀吉はさらに淡路や四国を領有するとその沿海部の領主として子飼いの仙石秀久、小西行長、加藤嘉明、脇坂安治らの武将を送り込んだ。
それぞれに水軍を編成させて九州征伐や小田原征伐に参戦させた。

戦国時代後期から江戸時代初期の大名が編成した水軍においては、安宅船と呼ばれる数十人から数百人が乗り組む巨船が配備された。
巨船同士の大規模な海戦も行われるようになる。
安宅船などの日本の水軍の軍船は竜骨 (船)を持たない和船の一種である。
楯板で厳重な防備が施され、大鉄砲や大砲など強力な武装が取り付けられるようになった。
その代表的なものは織田信長が命じ、九鬼嘉隆が建造した鉄甲船(鉄板で装甲した巨大安宅船)である。

秀吉は九州征伐翌年の1588年8月29日(天正16年7月8日 (旧暦))、秀吉は刀狩令とともに海上賊船禁止令を発布した。
海賊衆の財源であった通過商船の有償警護などの活動を海賊行為として禁圧した。
海上の土豪たちに領主の支配に服することを命じた。
この命令以降、村上水軍の能島氏は毛利氏の家臣となって毛利水軍を率いることになった。
秀吉に直接服属した来島氏は秀吉直属の大名に取り立てられて豊臣氏のための水軍を負担することを命ぜられた。
このように、かつての海賊衆たちは豊臣氏を頂点とした大名権力の水軍に再編を強制された。
こうして編成された豊臣政権の水軍は、1592年に始まる朝鮮出兵(文禄・慶長の役)大々的に投入されることになる。

豊臣氏にとってかわった徳川氏は海外進出に消極的で、大船建造の禁令を発して諸大名に本格的な軍艦を建造することを禁じた。
それとともに、来島氏を森藩、九鬼氏を三田藩と水軍大名を次々に内陸に移して海事から切り離させた。
徳川家康自身は、五カ国領有時代から今川氏、武田氏の水軍を継承して向井正綱、小浜氏、千賀氏、間宮氏からなる徳川水軍を編成していた。
江戸への移封後はこれらが関東地方に随行してそのまま江戸幕府の水軍となった。
幕府水軍の拠点は三浦半島の浦賀と江戸の日本橋 (東京都中央区)に設けられ、1631年に建造された将軍の御座船安宅丸を初めとする巨船を擁した。
しかしやがて鎖国の時代の到来とともに幕府艦隊も縮小され老朽化した安宅丸も解体された。
本格的な水軍は日本から消滅する。

江戸時代には、幕府や海辺に領地をもった大名は船手組、船手方、船手衆などと呼ばれる水軍をもっていた。
幕府では向井氏、長州藩では能島氏、尾張藩では千賀氏のようにかつての海賊衆の末裔たちが世襲して維持した。
だが、戦争の絶えて久しい平和な時代にあっては領内の海上交通を管理したり、領内巡察や参勤交代などで大名が船旅するときに船を出したりする程度の役割でしかなかった。
幕末に至って欧米諸国を範に幕府や雄藩は近代的な艦隊の創設に向かう。
だが、そのときにはすでに海軍という用語が用いられ、水軍の名は過去のものとなる。
しかしながら、幕末の海軍創生期には、水夫達のかなりの人員が水軍の伝統ある地方の出身であった。

中国の水軍

中国では「南船北馬」という言葉があるように、長江を中心に水路が入り組んだ南方において水軍が発展した。
魏晋南北朝時代、五代十国時代、南宋時代のように中国が南北の勢力で分割された。
そうしたとき、水路が入り組んだ南方江南の諸国は水路を天険の守りとし、強力な水軍を養成してしばしば北方の騎馬兵力を擁して軍事的に優越した華北諸国の軍を撃退することに成功した。

一方海上についてみると、中国の東方には広大な海が広がるが、歴代の統一王朝は首都を内陸の関中や河南省に置いた
このことから明らかなように国家の目は内陸に向いており、本格的な海上兵力を養成して海外に直接国家が乗り出していったことはあまり多くない。
しかし唐以来、漸次南方の沿岸に海外から交易に訪れる外国の海上勢力が増した。
それにつれて中国においても海のもつ経済的な重要性が上昇した。
元 (王朝)においては南宋治下の江南で養成された水軍を活用して、日本や東南アジアに対して積極的な遠征が行われた。
江南から河北省への物資の海上輸送が大々的に開始されたのも元代のことである。

14世紀に元を滅ぼした明においては、王朝を脅かす怖れのある海上勢力の禁圧策がとられた。
これは当時中国の沿岸部で跳梁していた倭寇と呼ばれる海賊勢力を遠ざける必要もあったためである。
具体的には民間には海外進出を禁じ、公的には貿易のルートを朝貢のみに限定した。
海禁政策を守り倭寇を打ち破るため、明においては強力な水軍が養成された。
この後、海外交易の抑制政策は明と次の清によって基本的に維持された。
水軍は中国の南方を中心に海賊勢力に対する防衛力として維持された。
明の第3代永楽帝は鄭和率いる大規模な海上艦隊を編成して東南アジアからインド洋、アラビア海まで派遣している。
だが、このような国家の水軍による積極的な海上進出は明清時代を通じてむしろ例外に属する。

19世紀に入ると、ヨーロッパの進んだ海軍力に対して清の水軍はほとんど無力であった。
このことは1840年のアヘン戦争に大敗を喫する一因となった。
アヘン戦争の講和条約によって海禁策はほぼ無力化する。
だが、清の朝廷はそれでも水軍の再編を行わなかった。
清が水軍の再編について真に危機感を抱いたのは中国の南方の広い地域を巻き込んだ太平天国の乱において、その鎮圧に強力な水上兵力が必要とされたときであった。
だが、イギリスからイギリス軍人を司令官とする艦隊を清の海軍とするよう提案されたのを拒否し、近代海軍の設立は再び先送りされた。
清が水軍再編に対して重い腰をあげたのはようやく日本の台湾出兵によって屈辱的な和平を結ばざるをえなかった1874年であった。
翌年、清は海洋水師の創設を布告して近代海軍の創設を決定し、伝統水軍の時代は終わりを告げる。

朝鮮の水軍

朝鮮半島は、三方を海に囲まれ中国ほどの大河を持たない。
古い時代から海上交通の比重が高く、沿岸部では海の船上生活に慣れた海民が活躍した。
最初の統一王朝新羅の時代には、清海鎮大使張保皐が中国・日本まで股にかけた東アジアの大海上勢力を築きあげたことが名高い。

第二の統一王朝高麗は半島の南北から租税の米穀を首都の開城に廻送するために海上ルートを利用した。
また北方勢力に攻められたときには海を活用した。
13世紀には、高麗はモンゴル帝国の攻撃を避けるために首都を江華島に移して数十年にわたる抗戦を続けた。
モンゴルの元朝に服属した後はその日本征討に多大な負担を払って水軍を提供した。

14世紀後半になると、高麗も中国と同じように倭寇の入寇を受けるようになり、しばしば多大な被害を受けた。
倭寇は数百艘からなる船団をなして半島沿岸部の諸都市を焼いた。
そして高麗の海船を襲って人と米を略奪した。
たまりかねた高麗王朝は1375年頃から新たに強力な戦艦を建造して水軍の増強をはかった。
連年の激しい戦いによって高麗滅亡直前には倭寇を大きく抑えこむことに成功した。

高麗は水軍の兵力を維持するために水軍万戸の制をしいた。
元の千戸制・明の衛所制にならい、沿海の諸州郡の水上生活になれた住民を3戸に1戸の割合で水軍に編入した。
水兵を拠出しなかった戸には免税の代償に兵士の家族の扶養を義務付けられた。
高麗にとってかわった李氏朝鮮もこの制を引き継いだ。
沿海部に水軍万戸を設定、それを統制する役所として水軍万戸府をおいた。
また、朝鮮は行政区画である朝鮮八道ごとに水使(水軍節度使)を置き、各道の水軍を統括させた。
特に日本に面する南方に位置し、道内に複雑な多島海域を有する全羅道と慶尚道の2道にはそれぞれ左右2員の水使が置かれ、道内の水軍万戸もそれぞれ15ときわめて多かった。

1592年に始まる日本軍の侵攻(壬辰倭乱、日本でいう文禄・慶長の役)では全羅左水使李舜臣が自ら考案したと言われる亀甲船の艦隊を率いた。
日本の輸送船を襲い、日本軍に被害を与える戦功をたてた。
南方の水軍全体を統括する忠清全羅慶尚三道水軍統制使にのぼった。
彼はその後、撤退する日本軍を追撃して戦死している。
李舜臣の再編によって朝鮮水軍は精強となり、日本軍の撃退に大いに貢献したと言われる。
しかし李舜臣の業績はその後の政争などもあって失われた。
朝鮮が東アジアの水軍大国になることはなかった。

[English Translation]