武士 (Bushi)

武士(ぶし、もののふ)は、10世紀から19世紀にかけての日本に存在し、戦士を本分とするとされた宗家の主人を頂点とした家族共同体の成員。
古代末に発生した武士はその武力で古代を終焉させ、中世社会で主導的役割を果たし、近世で完成された社会体制を築き上げた。
武士の概念は時代により微妙に変化しており、一言では言い表すには難しいが、各時代でも共通しているのは武装した私兵集団の構成員だという点である。
ただし、武装した私兵集団が全て武士であるとは言えず、公的な軍事警察力の担い手としての社会的な公認がなければ武士と認められなかったこともまた、強調しなければならない。
同義語として武者(むしゃ・むさ)武士

また、武士の起源に関しても諸説が有り、まだ決定的な学説があるわけではない。
武士の起源に関する学術的研究は明治以降に始まった。
武士の起源研究は「日本の歴史における中世の発見」と密接に関わっている。

以下、まず古典的「開発領主」武士起源論と近年流行の「職能」武士起源論を記述する。

「開発領主」武士発生論
武士起源研究は中世の発見と密接に関わっている。
明治時代の歴史学者三浦周行らによって日本にも中世があったことが「発見」された。
当時の欧米史学では、中世は欧米特有なもので、近代へ発展するために必須な時代とされていた。
アジア・アフリカはいまだ(当時)古代社会であり、欧米のような近代社会に発展することは不可能とされていた。
三浦らは、ヨーロッパの中世が、ゲルマン民族の大移動によって辺境で発生した「武装した封建領主」である騎士によって支えられていたことに着目し、日本で平安時代中期から東国を中心とした辺境社会で活躍した武士を騎士と同じ「武装した封建領主」と位置づけ、アジアで唯一日本にも中世が存在したことを「発見」し、日本は近代化できると主張した。
武士は私営田の開発領主であり、その起源は、抵抗する配下の農奴と介入する受領に対抗するために「武装した大農園主」が起源とする。
この古典的な学説は広く受け容れられ、戦後も学界の主流を占めることとなった。
唯物史観の影響を受け、武士は古代支配階級である貴族や宗教勢力を排除し、中世をもたらした変革者として石母田正らによって位置づけられた。

「職能」武士起源論
しかし、「開発領主」論では全ての武士の発生を説明できたわけではなかった。
特に、武士団の主要メンバーである源氏、平氏、藤原氏などを起源とする上級武士や朝廷、院など権門と密接に結びついた武士の起源を説明できない。

そこで佐藤進一、上横手雅敬、戸田芳実、高橋昌明らによってこれら在京の武士を武士の起源とする「職能」武士起源論が提唱された。

武官と武士の違い
武士は、一般に「武芸に通じ、戦闘を職業とする軍人、あるいは兵法家のこと」とされるが、これだけでは平安時代以前の律令制体制下の「武官」との違いがはっきりしない。
例えば、武人として名高い征夷大将軍の坂上田村麻呂は、すぐれた武官であるが、武士であるとはいえない。
また、中国や朝鮮の「武人」との違いも明確でない。
中国や朝鮮には「武人」は存在したが、日本の「武士」に似た者は存在しなかった。
時代的にいえば、武士と言える存在は平安時代中期の10世紀(国風文化の成立期)に登場する。
つまり、それ以前の武に従事した者は、武官ではあるが武士ではない。

では、武官と武士の違いとは何か。

簡単にいえば、武官は「官人として武装しており、律令官制の中で訓練を受けた常勤の公務員的存在」であるのに対して、武士は「10世紀に成立した新式の武芸を家芸とし、武装を朝廷や国府から公認された「下級貴族」、「下級官人」、「有力者の家人中世の家人」からなる人々」であって、律令官制の訓練機構で律令制式の武芸を身につけた者ではなかった。
ただし、官人として武に携わることを本分とした武装集団ではあった。

また単に私的に武装する者は武士と認識されなかった。
この点が歴史学において十分解明されていなかった時期には武士を国家の統制外で私的に武装する暴力団的なものと見る見方もあった。
ただし、武装集団である武士社会の行動原理に、現代社会ではヤクザなどの暴力団組織に特徴的に認められる行動原理が無視できないほど共通しているのも確かである。

軍事(武芸)や経理(算)、法務(明法)といった朝廷の行政機構を、律令制機構内で養成された官人から様々な家芸を継承する実務官人の「家」にアウトソーシングしていったのが平安時代の王朝国家体制であった。
そして軍事を担当した国家公認の「家」の者が武士であった。

王朝国家体制では四位、五位どまりの受領に任命されるクラスの実務官人である下級貴族を諸大夫(しょだいぶ)と、上級貴族や諸大夫に仕える六位どまりの技能官人や家人を侍(さむらい)と呼び、彼らが行政実務を担っていた。
武芸の実務、技能官人たる武士もこの両身分にまたがっており、在京の清和源氏や桓武平氏などの軍事貴族が諸大夫身分、大多数の在地武士が侍身分であった。
地域社会においては国衙に君臨する受領が諸大夫身分であり、それに仕えて支配者層を形成したのが侍身分であった。
こうした事情は武士の発生時期から数世紀下る17世紀初頭の日葡辞書に、「さむらい」は貴人を意味し、「ぶし」は軍人を意味すると区別して記載されていることにもその一端が現れている。

よく言われるように貴族に仕える存在として認識された武士を侍と呼んだと言うよりもむしろ、上層武士を除く大多数の武士が侍身分の一角を形成したと言った方が正確であろう。

また、武士などの諸大夫、侍クラスの家の家芸は親から子へ幼少時からの英才教育で伝えられると共に、能力を見込んだ者を弟子や郎党にして伝授し、優秀であれば養子に迎えた。
武士と公認される家もこのようにして増加していったと考えられる。

いわば、国家から免許を受けた軍事下請企業家こそが武士の実像であった。
そして、朝廷や国衙は必要に応じて武士の家に属する者を召集して紛争の収拾などに当たったのである。

なお、これとは別に中世の前期の頃までは、他者に対して実力による制裁権を行使できる者を公卿クラスを含めて「武士」と言い表す呼称も存在した。
このことは、院政下で活躍した北面武士などもその名簿を参照すると、侍身分以外の僧侶・神官などが多数含まれている事でも分かる。

「職能」武士の起源
武士の起源については、従来は新興地方領主層が自衛の必要から武装した面を重視する説が主流であったが、近年は清和源氏や桓武平氏のような軍事貴族や下級官人層から構成される戦士身分が起源であり、彼らが平安後期の荘園公領制成立期から荘園領主や国衙と結びついて所領経営者として発展していったとみる説が提唱されている。

平安時代、朝廷の地方支配が筆頭国司である受領に権力を集中する体制に移行すると、受領の収奪に対する富豪百姓層の武装襲撃が頻発するようになった。
当初、受領たちは東北制圧戦争に伴って各地に捕囚として抑留された蝦夷集団、すなわち俘囚を騎馬襲撃戦を得意とする私兵として鎮圧に当たらせた。
しかし俘囚と在地社会の軋轢が激しくなると彼らは東北に帰還させられたと考えられている。

それに替わって、俘囚を私兵として治安維持活動の実戦に参加したことのある受領経験者やその子弟で、中央の出世コースからはずれ、受領になりうる諸大夫層からも転落した者達が、地域紛争の鎮圧に登用された。
おりしも宇多天皇、醍醐天皇が菅原道真や藤原時平らを登用して行った国政改革により全国的な騒乱状況が生じていた。
彼らは諸大夫層への復帰を賭け、蝦夷の戦術に改良を施して、大鎧と毛抜型太刀を身につけ長弓を操るエリート騎馬戦士として活躍し、最初の武芸の家としての公認を受けた。

藤原秀郷、平高望、源経基らがこの第一世代の武士と考えられ、彼らは在地において従来の富豪百姓層(田堵負名)と同様に大規模な公田請作を国衙と契約することで武人としての経済基盤を与えられた。
しかし勲功への処遇の不満や、国衙側が彼等の新興の武人としての誇りを踏みにじるような徴税収奪に走ったり、彼らが武人としての自負から地域紛争に介入したときの対応を誤ったりしたことをきっかけに起きたのが、藤原純友や平高望の孫の平将門らによる反乱、承平天慶の乱であった。

この反乱は朝廷の勲功認定を目的に全国から集結した武士たちによって鎮圧され、武芸の家、すなわち、武士として公認された家系は、承平天慶勲功者の子孫ということになり、「武」が貴族の家としての「家業」となり、武家としての清和源氏や桓武平氏、秀郷流藤原氏もこの時に確定した。

この時点ではまだ武士の経済基盤は公田請作経営で所領経営者ではなかった。
しかし11世紀半ばに荘園の一円化が進み、諸国の荘園公領間で武力紛争が頻発するようになると、荘園及び公領である郡、郷、保の徴税、警察、裁判責任者としての荘園の荘官(荘司)や公領の郡司、郷司、保司に軍事紛争に対応できる武士が任命されることが多くなり、これらを領地とする所領経営者としての武士が成立したのである。

芸能の家としての武士
武士は社会的な身分であるのと同時に、武芸という芸能を家業とする職業的な身分であるとも規定できる。
つまりウマ上の弓道や合戦の作法を継承する家に生まれ、それを継いだ人物が武士であると言える。
逆に言えば、いくら武芸に優れていて身分が高くても、出生が武士身分でない限り武士とは認められなかった。
これ以外で武士の身分を得るには、正統な武士身分の者の郎党となってその家伝来の武芸の伝授を受け、さらに新たに独立の家を起こすに当たって家芸の継承権を得るしかなかった。
この道筋が子孫の増加、分家以外で武士身分に属する家系が拡大する機会となった。
また、中世になり武門の家が確立した後でも、それとは別に朝廷の武官に相当する職種が一応存在したが、たとえこの官職を得ても、武士身分出身でなければ武士とは認められなかった。
ここで言う武門の家とは、承平天慶勲功者子孫(承平天慶の乱で勲功のあった者の子孫)が基本であり、その中でも「源氏」及び「平氏」の諸流と藤原秀郷の子孫の「秀郷流」が特に有名である。
これら以外だと藤原利仁を始祖とする「利仁流」や、藤原道兼の後裔とする宇都宮氏が多く、他に嵯峨源氏の渡辺氏や大江広元が有名な大江氏などがあり、有力な武士団はこれらの家系のどれかを起源としていた。
特に下克上が一般化する以前においてこの認識が強く、戦国時代 (日本)の豊臣秀吉のように、百姓その他武士身分以外出身の人物は当然、武士として認められるはずがなかった。
先祖の武名によって自分の家が武士として認められていたため、かれらは自分の家系や高名な先祖を誇っていたとも言える。

「職能」起源論の限界
「職能」起源論では地方の武士を十分説明できるわけではない。
確かに源平藤橘といった貴族を起源とする武士や技術としての武芸については説明ができるが、彼らの職能を支える経済的基盤としての所領や人的基盤としての主従関係への説明が弱すぎる。
こうした弱点を克服する議論として主張されはじめたのが、下向井龍彦らによって主張されているように、出現期の武士が田堵負名としての経済基盤を与えられており、11世紀の後期王朝国家に国家体制が変質した時点で、荘園公領の管理者としての領主身分を獲得したとする議論である。
(→国衙軍制)

武士の身分
「職能」起源論では、武士とみなされる社会階層は源氏、平氏などの発生期には武芸を家業とする諸大夫、侍身分のエリート騎馬戦士に限定されていたとし、その後、中世を通じて「狭義の武士」との主従関係を通じて「広義の武士」とみなされる階層が室町時代以降拡大していった。
発生期の武士の家組織の内部奉公人の中においても武士と同様に戦場では騎馬戦士として活動した郎党や、徒歩で戦った従卒がいたが、室町・戦国期になると武士身分の拡散が大きくなり、狭義の武士同士の主従関係のほかに、本来は百姓身分でありながら狭義の武士の支配する所領の名主層から軍役を通じて主従関係を持つようになった広義の武士としての地侍などが登場する。

このように室町時代以降、武士内部に複雑な身分階層が成立していったが、これらは拡大した武士身分の範囲が一応確定された江戸時代の武士内部の身分制度に結実している。

江戸時代の武士の身分を以下に大雑把に分類する。
細かく分ければきりが無く、大名家などによっても分け方や名称が違うため、あくまで大体の目安である。

武士の身分を「士分」といい、士分は、大きく「侍」と「徒士(かち)」に分けられる。
これは南北朝時代以降、戦場への動員人数が激増して徒歩での集団戦が主体となり、騎馬戦闘を行う戦闘局面が比較的限定されるようになっても、本来の武士であるか否かは騎馬戦闘を家業とするか層か否かという基準での線引きが後世まで保持されていったためである。

「侍」は狭義の、つまり本来の武士であり、所領(知行)を持ち、戦のときは馬に乗る者で「御目見え」の資格を持つ。
江戸時代の記録には騎士と表記され、これは徒士との比較語である。
また、上士とも呼ばれる。
「徒士」は扶持米をもらい、徒歩で戦うもので、「御目見え」の資格を持たない。
下士、軽輩、無足などとも呼ばれる。

「侍」の内、1000石程度以上の者は大身(たいしん)、人持ちと呼ばれることがあり、戦のときは備の侍大将となり、平時は奉行職等を歴任し、抜擢されて側用人や仕置き家老となることもある。
それ以下の「侍」は平侍(ひらざむらい)、平士、馬乗りなどと呼ばれる。

以下、特定の呼び名のものを挙げる。

幕府の旗本は「侍」、御家人は「徒士」である。

幕府の役所の下役で一代限り雇用名目の者達のうち、与力は本来は寄騎、つまり戦のたびに臨時の主従関係を結ぶ武士に由来する騎馬戦士身分で「侍」、同心は「徒士」である。

代官所の下役である手付は「侍」、手代は「徒士」である。

郷士は郷に住む武士で、多くは「徒士」身分であるが、「侍」身分の者もいる。

足軽は士分(武士)には入らない。
「卒」と呼ぶ。
発生期の武士の戦闘補助を行った従卒と同一の階層とみなされたわけである。
但し、時代が下ると共に徒士と同じ下級武士として待遇されていった。

武家奉公人の内、若党は士分で「徒士」身分である。

お抱えは、一代限りの雇用の者だが、実際は世襲することも多く、軽輩の者が多いなかで、専門職で侍身分の者もいた。
足軽、武家奉公人の他、江戸町奉行所の与力、同心、代官所の手代など。
学者、医者等もお抱え雇用されることが多かった。

公権力の担い手

武士は当初、「侍」に象徴されるように天皇・貴族の警護や紛争の鎮圧を任とする階層であったが、平清盛の平氏政権を経て鎌倉幕府の成立に至り、旧来の支配権力である朝廷・国司・荘園に対して全国の軍事・警察を担う公権力に発展した。
また、個々人の武士が国司・荘園領主として地方の政務を担う局面も拡大していった。

文官としての武士

室町時代・戦国時代 (日本)・安土桃山時代を経て江戸幕府成立に至る過程で、次第に武士が公権力を担う領域は拡大し続けた。
江戸時代以降は社会の全てを覆うようになり、元来軍人・「武官」に相当する職務であった武士が「文官」として働くことが多くなった。
江戸時代以降の武士は、軍事から文化へと活躍の場を移っていくことになる。
このようなところにも、武士と武官の違いが現れているといえよう。

江戸時代には文官に相当する武士を「役方」、武官に相当する武士を「番方」と呼んだ。

武士道

戦国の武士の気風を受け継ぎ殉死などを行なうかぶき者を公秩序維持のため徳川家綱の代に禁止し、江戸幕府が、儒教の朱子学を公の学問としたため、信・義・忠を重んじ、気高い振る舞いを行なうのが武士であるとされた。
このため名誉を金銭より重んじるなど、後世において武士道という概念につながるような、武士としての理想や支配者としての価値観としての「士道」が生まれた。

しかし、安定期であった江戸時代を通じて形成された、儒教的な「士道」に反発し武士としての本来のありようを訴える人もいた。
そうした武士の一人、佐賀藩士・山本常朝が話した内容が『葉隠』に「武士道」という記述としてまとめられているが、それは武士社会に広まることはなかった。

幕末の万延元年(1860年)、山岡鉄舟が『武士道』を著した。
それによると「神道にあらず儒道にあらず仏道にあらず、神儒仏三道融和の道念にして、中古以降専ら武門に於て其著しきを見る。鉄太郎(鉄舟)これを名付けて武士道と云ふ」とあり、少なくとも山岡鉄舟の認識では、中世より存在したが、自分が名付けるまでは「武士道」とは呼ばれていなかったとしている。

武士道と近代の意識

明治になり、武士をはじめとする身分制度はなくなった。
その後新渡戸稲造がアメリカ人に紹介するために書いた『武士道 (新渡戸稲造)』が、日清戦争以降、逆輸入され広く受け入れられ、大日本帝国の軍人が持つべき倫理と接合して、軍人の倫理の骨格をかたちづくり、また一方では、美学として文学や芸能の世界でさまざまなかたちとなってあらわれた。

武士に関する言葉

武士は食わねど高楊枝
武士の商法(士族の商法)
武士の情け
武士は相身互い
武士に二言なし
武士道とは死ぬことと見つけたり
一所懸命
いざ鎌倉
武士の三道楽
- 園芸、釣り、学問。

武者に関する言葉など
武者絵:武者の姿や合戦を描いた絵。

武者押し:武者が隊列を組んで進んで行くこと。

武者返し:武家屋敷で、表長屋の外溝の縁に一歩置きに立てた石。

[English Translation]