橘奈良麻呂の乱 (Rebellion of TACHIBANA no Naramaro)

橘奈良麻呂の乱(たちばなのならまろのらん)は奈良時代のクーデターである。
橘奈良麻呂が藤原仲麻呂を滅ぼして、天皇の廃立を企てたが、密告により露見して未遂に終わった。

事件前史

橘奈良麻呂の父の左大臣橘諸兄は、聖武天皇の治世に政権を担当していた。

天平15年(743年)、難波行幸中の聖武天皇が病に倒れた時、奈良麻呂は佐伯全成に対し小野東人らと謀り次期天皇に黄文王を擁立する旨の計画を漏らす。

天平勝宝元年(749年)、聖武天皇が譲位して皇女の阿倍内親王(孝謙天皇)が即位すると、天皇の母の光明皇后に信任されていた藤原仲麻呂が皇太后のために新設された紫微中台の長官(紫微令)に任命される。
仲麻呂は孝謙天皇からも寵愛深く、急速に台頭してゆく。
一方、阿倍内親王の皇位継承に批判的と見られていた橘諸兄親子の勢力は次第に衰退することとなった。
藤原氏の台頭に危機感を抱いた奈良麻呂は11月の孝謙天皇即位大嘗祭の時佐伯全成に再び謀反の計画を謀った。
しかし全成が謀反への参加を拒絶したため謀反を実行することが出来なかった。

天平勝宝7歳(755年)、諸兄の従者佐味宮守から、諸兄が酒宴の席で朝廷を誹謗したとの密告があった。
聖武太上天皇はこれを問題としなかったが、翌天平勝宝8歳(756年)2月、これを恥じた諸兄は辞職した。
(2年後諸兄は失意のうちに75歳で死去)。

同年4月、聖武上皇不豫の際黄金を携えて陸奥より上京した佐伯全成に対して三度謀反の計画を謀った。
このとき奈良麻呂は大伴古麻呂を誘い、大伴佐伯両氏族をもって黄文王擁立を告げるが佐伯大伴両氏はともにこれを拒絶した。

同年5月2日、聖武太上天皇が崩御する。
太上天皇の遺言により道祖王が立太子された。
翌天平宝字元年(757年)4月、道祖王が孝謙天皇の不興を受けて廃され、代わって仲麻呂が推す淳仁天皇が立太子される。

陰謀の計画と発覚

仲麻呂の専横に不満を持ったのが、諸兄の子の奈良麻呂である。
奈良麻呂は不満を持つ者たちを集めて仲麻呂を除こうと画策する。
同年6月28日 (旧暦)(7月22日)、山背王が孝謙天皇に「奈良麻呂が兵をもって仲麻呂の邸を包囲しようと計画している」と密告した。
7月2日 (旧暦)(7月26日)、孝謙天皇と光明皇太后が、諸臣に対して「謀反の噂があるが、皆が逆心を抱くのをやめ、朝廷に従うように」との詔勅を発した。

しかし、その日の夜、中衛府の舎人上道斐太都から、前備前国国司小野東人に謀反への参加を呼びかけられたと仲麻呂へ密告があった。
仲麻呂はただちに孝謙天皇に報告して、中衛府の兵を動かして前皇太子道祖王の邸を包囲した。
小野東人らを捕らえて左衛士府の獄に下した。
翌7月3日 (旧暦)(7月27日)、右大臣・藤原豊成、中納言・藤原永手らが小野東人を訊問。
東人は無実を主張した。
その報告を受けて、孝謙天皇は仲麻呂を傍らに置いて、塩焼王、安宿王、黄文王、橘奈良麻呂、大伴古麻呂を前に「謀反の企てがあるとの報告があるが自分は信じない」との宣命を読み上げた。

ところが同日事態は急変する。
右大臣豊成が訊問から外され、再度、永手らを左衛士府に派遣し小野東人、答本忠節(たほのちゅうせつ)らを拷問にかけた。
東人らは一転して謀反を自白した。
その内容は、橘奈良麻呂、大伴古麻呂、安宿王、黄文王らが一味して兵を発して、仲麻呂の邸を襲って殺し巣ことであった。
更に、皇太子を退け、次いで皇太后の宮を包囲して駅鈴と玉璽を奪うこと。
そして、右大臣豊成を奉じて天下に号令し、その後天皇を廃し、塩焼王、道祖王、安宿王、黄文王の中から天皇を推戴するというものであった。

過酷な処分

東人の供述により、7月4日 (旧暦)(7月28日)に奈良麻呂をはじめ、道祖王、黄文王、大伴古麻呂、多冶比犢養(たじひのこうしかい)、賀茂角足(かものつのたり)ら、一味に名を挙げられた人々は直ちに逮捕され、永手らの訊問を受けた。
訊問が進むにつれ、全員が謀反を白状した。
奈良麻呂は永手の聴取に対して「東大寺などを造営し人民が辛苦している。政治が無道だから反乱を企てた。」と打ち明けた。

この後すぐに獄に移され、永手、百済王敬福、船王らの監督下、杖で全身を何度も打つ拷問が行われた。
道祖王(麻度比と改名)、黄文王(久奈多夫礼と改名)、古麻呂、東人、犢養、角足(乃呂志と改名)は同日、過酷な拷問に耐えかねて次々と絶命した。
また首謀者である奈良麻呂の名が続日本紀に残されていないが、同じく拷問死したと考えられる。

安宿王は佐渡島、大伴古慈悲(藤原不比等の娘婿)は土佐国に配流された(両者ともその後赦免)。
塩焼王は直接関与した証拠がなかったために臣籍降下(「氷上塩焼」と改名)することで不問とされた。
反乱計画に直接関与していなかったものの全成は捕縛され奈良麻呂から謀反をもちかけられた顛末を自白した上で自害した。
他にもこの事件に連座して流罪、徒罪、没官などの処罰を受けた役人は443人にのぼる。
また、右大臣・藤原豊成が息子藤原乙縄とともに事件に関係したとして大宰員外帥に左遷された。
また、中納言・藤原永手も、その後仲麻呂派で固められた朝廷内で政治的に孤立し逼塞を余儀なくされたと言う説がある。
皮肉にも豊成・永手らは反仲麻呂派であると同時に奈良麻呂らの標的とされた孝謙天皇の側近であった人々であった。
彼らは、天皇廃立を企てた奈良麻呂らに対して過酷な尋問や拷問を行った人々でもあった。

その後

仲麻呂はこの事件により、自分に不満を持つ政敵を一掃することに成功した。
天平宝字2年(758年)、大炊王が即位し(淳仁天皇)、仲麻呂は太保(右大臣)に任ぜられ、恵美押勝の名を与えられる。
そして、天平宝字4年(760年)には太師(太政大臣)にまで登りつめ栄耀栄華を極めた。
だが、その没落も早く、孝謙天皇の寵愛は道鏡に移った。
天平宝字8年(764年)、仲麻呂は乱を起こして敗れ、その一族は滅んだ(藤原仲麻呂の乱)。

[English Translation]