東映 (Toei Company)

東映株式会社(とうえい、TOEI COMPANY, LIMITED)は、日本の映画の製作配給会社。
一般には映画会社一覧 (国内)として知られる。
2005年現在、直営映画劇場34館、東京と京都の二つの撮影所を保有する。
テレビ朝日の大株主(かつては筆頭株主、現在は第2位。テレ朝株の16%を保有している)としても有名であり、同時に(テレビ朝日が)同社の筆頭株主にもなっている(東映株の11%を保有)。
本社は東京都中央区 (東京都)銀座3丁目2番17号。

沿革

1949年10月1日設立の東京映画配給(とうきょうえいがはいきゅう)が1951年、太泉映画(おおいずみえいが)(東京・大泉の旧新興キネマ東京撮影所を買収して貸スタジオを経営。
やがて映画製作に進出した太泉映画(おおいずみえいが)と1938年設立の東横映画(とうよこえいが)(東急東横線の沿線開発を目的に、東京の渋谷や横浜市で映画館を経営していたが、戦後大映 (映画)より京都第2撮影所(旧新興キネマ京都撮影所)を賃借して映画製作に進出。)を吸収合併、社名を東映と改めて出発した。
東横映画を吸収したことからも判る様に設立には東京急行電鉄が関わっている。
小林一三が東宝を作ったように、五島慶太は東映を作った。
東横映画には、マキノ光雄と根岸寛一を中心に、大陸から引き上げた満州映画協会OBが製作スタッフとして参加していた。
そのまま東映に移行した彼らは「第四系統」(松竹、東宝、大映に継ぐ後発映画会社の意味)として誕生した会社を担うことになる。

上記のように企業としては戦後派であるが、撮影所は東西ともに帝キネ→新興→大映第二(東横)を引き継いでおり、徹底して大衆娯楽路線を重視する路線なども似ている。

1957年には東京・大泉撮影所の隣に動画専用スタジオを建設し、前年に東映動画(とうえいどうが、現・東映アニメーション)と改めた旧日動映画(旧日本動画映画)を移転させた。
1950年代には片岡千恵蔵、市川右太衛門、月形龍之介、大友柳太朗、萬屋錦之介、東千代之介、大川橋蔵らを擁して時代劇ブームを巻き起こした(東映時代劇)。
1958年には競合会社よりもいち早くテレビ映画の製作に着手。
数年後には大泉に東映テレビプロダクションとその撮影所を設ける。
一方、東映現代劇からは1950年代半ばから1960年代前半にかけ江原真二郎、中原ひとみ、高倉健、佐久間良子、梅宮辰夫、三田佳子、JJサニー千葉、大原麗子らがデビューしている。
観客動員No.1となった東映は1960年に第二東映(1年後にニュー東映と改称)を設立し、制作本数を倍増して日本映画界の売上50%のシェアを目指した。
しかし、うまくいかず、2年で解散。
映画不況が始まった1960年代に入ると時代劇は客が入らなくなった。
コストダウンのため1963~64年にかけて、京都撮影所の大リストラを敢行し、東映テレビプロダクション、東映アニメーションへ大半の従業員が配転される。
また取締役俳優である片岡千恵蔵、市川右太衛門の両御大の専属契約が切られ(取締役の地位は留任)、右太衛門は映画から引退。
演出料が非常に高い渡辺邦男、松田定次、佐々木康などの時代劇の大御所監督にも辞めてもらった。

1963年から鶴田浩二、高倉健、藤純子(現・富司純子。寺島しのぶの母)らを擁してヤクザ映画ブームを作った(東映任侠映画)。
1973年以降は、菅原文太の実録物『仁義なき戦い』シリーズ、『トラック野郎』シリーズが人気を呼んだ。

この間、1954年にはプロ野球・東急フライヤーズ(現北海道日本ハムファイターズ)の運営を東京急行電鉄から受託し、東映フライヤーズとした。
また、1959年開局の日本教育テレビ(現在のテレビ朝日)に資本参加し同局番組の有力な供給源となるなど、来るべきテレビ時代に先手を打った。
ところが、1964年9月30日には資本面で東急から分離独立する。
この背景には嫌々ながら東映の社長に派遣され、多重債務を抱え自転車操業で倒産寸前だった同社の再建を成功させた大川博と、東急本体を引き継ぎ東急グループの基本を沿線開発に据えた五島昇との間に確執があったと言われている。
東映フライヤーズは引き続き共有の形を採った。

1960年代半ばから映画の斜陽化が顕著になると、ヤクザ映画で観客動員を保つ一方で、1971年二代目社長に就任した岡田茂は、テレビに取り込まれない客層を狙い実録任侠ものやエログロものを量産。
興行収入で他社を圧倒した。
また時代劇が斜陽になったことから1975年に京都撮影所のオープンセットの維持を画して、一部を東映太秦映画村とした。
1966年、日本教育テレビ持株の半数を朝日新聞社へ譲渡した。
成績不振と黒い霧事件 (日本プロ野球)の余波で観客数が伸び悩んでいた東映フライヤーズを東急と共に1972年オフに日拓ホームに売却。
その一方で、シティホテルや不動産分譲、撮影所余剰地の複合施設開発など新規事業を開拓して事業の再構築を行った。
本業の映像部門でも、香港映画限定ながら洋画配給部門を新設し邦画部門の不振を補った。
また、劇場用映画以外にテレビ映画の制作にも積極的に取り組み、1989年からは東映Vシネマというオリジナルビデオをリリースすることで映画の制作数を補うなど、スクリーン以外での映像展開を積極的に進めて対応を図っている。

東映は、正社員の採用において学歴や縁故を大変重視していた。
中島貞夫の著書によると東京大学、早稲田大学、慶應義塾大学、日本大学芸術学部、京都撮影所枠で京都大学、同志社大学以外の学生は採用に至ることは縁故以外ではなかったという。
しかしながら、近年、この傾向は弱くなりつつあり、上記の大学卒以外や専門学校卒からの採用も多くなってきている。
また、一時期エース監督として屋台骨を支えた鈴木則文、関本郁夫はそれぞれ立命館大学中退、工業高校卒である。
このように他の大手で戦後に大卒でない採用社員を監督として活躍させた例はほとんど無い。
また、東映採用ではないが新東宝から移籍し60年代東映きってのヒットメーカーとなった石井輝男は旧制中学卒であり、70年代のエース深作欣二は日大芸術学部ではあるが映画学科ではなく文芸学科の卒業。
少なくとも撮影所には採用人事の学閥重視を一蹴するような実力主義が見られる。

大川親子、岡田親子ともに最初はサラリーマン的立場であった幹部が実質上の世襲オーナー化する例が続いている。
その強烈な指揮権によってもっとも製作カラーの鮮明な映画会社であり続けている。
おしゃれなデートコースとしての映画館という風潮とは対極に位置することもあり、ライバルであった東宝には大きく水をあけられた。
しかし、早々に自社製作を事実上中止した同社とは対照的にTV、アニメを含め徹底した自社製作を貫いてきた歴史が長く、世界最大級の映像コンテンツ企業としてポテンシャルが注目を浴びている。

社風
系列会社にも当てはまるが、東映の作品は基本的に中身より量をメインとしており、「数打てば当たる」のごとく企画などは常に見切り発車の状態で実行されている。
東宝や松竹よりも低予算で最大限の効果を得ることを旨とし、実際に50年代から70年代にかけて興行成績において勝利している。

黒澤明は、日米合作「トラ!トラ!トラ!」の撮影に際して初めて東映京都撮影所を使用し、そのスタッフとの軋轢が降板の一因となったと言われるが、初日にセットのカーテンの折り皺に激怒し即撮影中止となったエピソードが伝えられている。
東宝では指示がなくても数日前から霧吹きして伸ばしておくのが常識だったと言われるが、撮影所間の勢質の違いと量産体制に徹するあまり完全主義の黒澤に合わせることができなかった当時の社風を伝えている。

数多くの作品をコンスタントに生み出す原動力となったのは、岡田茂体勢で確立した利益優先主義による作品の多ジャンル化である。

またテレビ作品においては骨格作りよりも視聴率や映画製作資金の獲得を最優先しており、その状況次第で作品の傾向を変えることが多い。

映画・テレビ作品とも当たった作品はすぐにシリーズ化され、そのほとんど10年ないし20年は続く長期シリーズとなっている。
(「網走番外地」、「仁義なき戦い」、「仮面ライダー」、「暴れん坊将軍」、「はぐれ刑事純情派」など)。

また近年では構成派のプロデューサーが多く、作品の製作において絶対的権限を示す者も少なくない。

また自社特撮作品のレギュラー出演者が終了後に自社の映画・一般向けテレビ作品に複数で招かれるケースも多い。

オープニング
東映映画のオープニングといえば3つの岩に荒波が打ち付け、三角形のロゴマークが飛びだすシーンが有名で、アニメ・ゲームやバラエティでしばしばパロディにされる事もある。
ちなみに1970年代のヤクザ映画全盛期には、莫大な興行収入を得ながらもスタッフやキャストへの金払いが悪かった事、強引なブッキングを強いた事などがあった。
それらのことから、「東映の三角マークは義理欠く恥欠く人情欠くの三欠くだ」と揶揄された。

3つの岩は、東映の前身である東京映画配給、太泉映画、東横映画の3社の統合と結束をイメージしている。

社内での正式な呼び名は「荒磯に波」である。
撮影場所は千葉県銚子市犬吠埼とされている。
1957年頃から映画のオープニングに登場するようになった。
現在使われているものは4代目になる。

現在のオープニングは、CG加工された画面が現れた後、一転して波飛沫が岩にかかるおなじみのシーンに変わる。
そこにはすでにロゴマークがあり、かつてのように岩の合間から飛びだしてこない。

京都の俳優会館
京都の撮影所の俳優会館には大物俳優のみが個室を持つ事が許されるとされ、里見浩太朗、北大路欣也、松方弘樹他数名が現在占有しているとされているが、たった一人だけ来ないのに名札の掛かっているのは高倉健であるという。
なお「日本の首領」で三船敏郎、佐分利信、片岡千恵蔵が同じ場面で競演した際には、挨拶の順は1)三船(1920生、戦後デビュー)が二人に挨拶し、2)次に佐分利(1909生、1931デビュー)が片岡に「佐分利でございます」と挨拶して3)最後に千恵蔵(1903生、1927デビュー)が「おう」と返事を済ませて大物同士の挨拶が済んだとされる。

テレビ
映画と並び会社の中核とされるのがテレビ向け作品の乱発である。
すでに国産初のテレビ映画が登場した1958年から始まっており、全盛期では年に30本ものレギュラー番組を輩出したこともあった。
その製作体制は三つの撮影所に分けられており、まず時代劇や近代もの、京都が舞台の現代劇を作っている東映京都テレビプロ、生田に構えていた東映東京製作所、大泉に設けた東映テレビプロがそれぞれ凌ぎを削りながら作品の量産を続けた。

初期数年は筆頭株主として出資していたNET(現テレビ朝日)専門の制作であったが、すぐに他局とも幅広く契約。
それでも60年代半ばまでは業界的にはNET系のプロダクションと見られていたと、キャラクター作品担当のプロデューサーだった平山亨は後日雑誌「宇宙船」で回顧している。
現在はアニメを除いて継続中の作品は全てテレビ朝日制作である。

また子供向け作品においては季ごとにプログラムピクチャーとして映画館で上映される「東映まんがまつり」にテレビからのエピソード一本または新作映画としてエントリーされた。

[English Translation]