東亜同文会 (Toa-dobunkai (Toa-dobunkai nationalism group))

東亜同文会(とうあどうぶんかい、1898年(明治31年) - 1946年(昭和21年))は、かつて日本に存在した民間外交団体。
上海市に設立された東亜同文書院大学の経営母体であったことで知られる。
現在の霞山会の前身である。

設立の経緯

1898年、それまで別組織であった東亜会 (アジア主義団体)と同文会が合体して東京・赤坂溜池に設立された。

東亜会
東亜会は福本日南の渡欧送別会の席上、この会に参加した陸羯南・三宅雪嶺・志賀重昂らによって提起され1897年に誕生した。
会の事務所は政教社に置かれた。
会員は政教社同人のほかに黒龍会の内田良平 (政治運動家)、および孫文らの中国革命を援助した宮崎滔天らであった。

同文会
同文会は東亜会設立の翌1898年、貴族院議長・近衛篤麿を中心に結成された。
この会の事業綱領は以下のようなものである。

支那問題を研究するとともに各般の調査に従事し、各種事業の助成を図る。

上海市に同文会館を設け、両国有志の協同を図る。

東京にあっては『時論』、上海にあっては『亜東時報』の両雑誌をもって通信機関とする。

上海における同文学堂をもって、両国人の教育機関とする。

東亜同文会の設立
同文会設立の4ヵ月後、同会と東亜会の合併により設立された東亜同文会は「支那保全論」に基づき清朝を容認した。
さらに洋務運動官僚の劉坤一・張之洞らと関係の深い近衛が会長に就任すると孫文らの中国革命を支援する東亜会系の会員は次第に姿を消していった。

教育機関の設立

東亜同文会は上海市に東亜同文書院大学、東京に東京同文書院を設立した(前者は在華日本人留学生を教育し、後者は中国人留学生を受け入れる高等教育機関であった)。

東亜同文書院
東亜同文書院の45年の歴史は、初代院長・根津一によって始まり、以降杉浦重剛、大津麟平、近衛文麿、大内暢三、矢田七太郎、本間喜一ら計8代7人の院長が担った(詳細は東亜同文書院大学を参照)。

東京同文書院
柏原文太郎(のち中央大学附属高等学校第3代校長)を実質的な責任者として運営され、1898年から1918年まで存続した。

このほか、天津同文書院(のちの天津中日学院)・漢口同文書院(のちの江漢中学校)・東亜工業学院(「敵性資産」を引き継いだ、中国人学生のための高等教育機関)・華北高等工業学校(1943年設立)・北京興亜学院(1943年引継)を運営した。

終焉

第二次世界大戦後の1946年11月、東亜同文会は解散し、4年後の1950年12月、財団法人としての東亜同文会も清算された。
1948年には後継団体として霞山会が設立され現在に至っている。

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