有岡城の戦い (War of Arioka-jo Castle)

有岡城の戦い(ありおかじょうのたたかい)は、天正6年(1578年)7月から翌天正7年(1579年)10月19日にかけて行われた籠城戦。
織田信長に帰属していた荒木村重が突然謀反を起こしたことに端を発する。
「伊丹城の戦い」とも呼ばれている。
開城後、織田信長が人質としていた女子供を虐殺した戦いとしても有名である。

開戦の経緯

天正6年(1578年)7月三木合戦に参戦し、羽柴秀吉軍に属していた荒木村重は、突然戦線を離脱し居城であった有岡城(伊丹城)に帰城してしまった。
織田信長に謀反を起こしたのである。

『戦国合戦大事典』によると「謀反の原因については不明な点が多い」と記している。
荒木村重は波多野氏の支族と言われており、37万石 (単位)の所領で織田信長より摂津国守護を拝命している。
『陰徳記』によると石山合戦で織田信長と交戦中の石山本願寺へ毛利氏勢と通じた荒木村重が兵糧を密かに搬入したとの噂が流れた。
織田信長の命により石山本願寺に和睦の交渉役として出向いた時に、城内の困窮ぶりを目のあたりにし、交渉を有利にすすめるために単独で米100石を提供したという説もある。
『武功夜話』では神吉城の攻城戦で城内の内通者であった神吉藤太夫は、荒木村重と旧知の間であったため、落城後羽柴秀吉は神吉藤太夫の助命を許した。
しかし、神吉藤太夫はその直後別所長治のもとに走って羽柴秀吉軍と対することになる。
ためらいもなく別所長治のもとに走った事から、神吉藤太夫と荒木村重は通じており、荒木村重も疑われることになったという説を記している。
先行様々な説があり何が原因で謀反に及んだのか、真相はよく解っていない。

荒木村重の謀反に驚いた織田信長は、糾明の使者として明智光秀、松井友閑、万見重元を有岡城に派遣した。
明智光秀の娘は荒木村次の妻となっていたため、親戚の縁で選ばれたと考えられている。
明智光秀らの使者の言を一旦聞き入れ自ら安土城に赴き母親を人質に釈明すべく有明城を出立した荒木村重は、途中茨木城に立ち寄った。
『立入左京亮入道隆佐記』によると「安土城に出向くのはもってのほか、安土城に行って切腹させられるより、摂津国で一戦に及ぶべき」と中川清秀に引き止められたとしている。
織田信長軍の中には荒木村重の出世を快く思っていない者もいた。
細川藤孝は織田信長に対して「村重に反意あり」と謀反三か条なるもの織田信長に差出、注意喚起していた。
織田信長軍の中でもねたむ者もあり、織田信長の猜疑深い性格を恐れるあまり謀反を明確にした。

織田信長と対決するにあたり、荒木村重は足利義昭、毛利輝元、顕如のもとに人質と誓書を差し出し同盟を誓った。
『本願寺文章』によると顕如への誓書として、下記のようにした。

本願寺と一味の上は善悪については相談、入魂にすること。
1. 本願寺の要求には承諾すること。
織田信長を倒し、天下の形勢がどのようなろうとも、本願寺は荒木を見捨てないこと。

2. 知行については本願寺は口出ししない。
また本願寺の知行分については異存はない。
百姓門徒については荒木が支配すること。
本願寺は干渉しない。

3. 摂津国の事は申すに及ばず、所望の国々の知行の件についも本願寺は手出ししない。
公儀及び毛利にたいして忠節をつくすので、望みを任せるように本願寺は最善をつくす。
また荒木と戦っている牢人門徒は本願寺がやめさせる。

また荒木村次の妻となっていた明智光秀の娘は離別させ明智光秀の元に帰らせた。
この報に接した織田信長は福富直勝、佐久間信盛を派遣し、更に同年11月3日に明智光秀、松井友閑、羽柴秀吉を有明城に向かわせた。
これに対して野心は無いと答え、人質に母親を差し出せと織田信長の命に従わず、亀裂は決定的になった。
この後黒田孝高が単身有明城に来城したが、同盟関係にあった小寺政職の手前、捕えて牢獄に閉じ込めてしまったのではないかと思われている。

戦いの状況

両者の争いは決定的になり、荒木村重は織田信長軍に備えるため、下記のように広範囲に配置した。
城名: 有明城 (本城)、城主名: 荒木村重
城名: 尼崎城 (本城)、城主名: 荒木村次
城名: 大和田城、城主名: 安部仁佐衛門
城名: 吹田城、城主名: 吹田村氏
城名: 高槻城、城主名: 高山右近
城名: 茨木城、城主名: 中川清秀
城名: 多田城、城主名: 塩川国満
城名: 能勢城、城主名: 能勢頼道
城名: 三田城、城主名: 荒木重堅
城名: 花隈城、城主名: 荒木村正

これは石山合戦の包囲網を備えるために織田信長か荒木村重に命じて築城、修築させたりした城である。
一方織田信長は石山本願寺と荒木村重の両軍を敵に回すは得策でないと考えたのか、村井貞勝を使者とし石山本願寺に和議を申し入れた。
石山本願寺は毛利氏の承諾が必要とし、すぐには快諾とはならなかった。
そのような時織田信長に吉報が届く。
同年11月6日第二次木津川口の戦いで鉄甲船が出撃し毛利水軍を大敗させた。
補給路が途絶えた石山本願寺の戦力は幾分和らいだとみたのか、同年11月9日山城国と摂津国の国境にある大山崎町に5万兵で進軍した。

翌11月10日滝川一益、明智光秀、蜂屋頼隆、氏家直重、伊賀伊賀守らが茨木城を攻囲する一方、荒木村重軍の切り崩しにかかった。
高槻城の城主であった高山右近に、キリシタン大名であることを利用し宣教師のグネッキ・ソルディ・オルガンティノを使者として「即時帰順しなけば、宣教師も領内の信者も残らず磔に処す。教会も焼き払う」として脅した。
織田信長は比叡山焼き討ち (1571年)では非戦闘員も含む3,000名を殺害していることから、単なる脅しとは思えなかった。
高山右近は織田信長の軍門に降った。
ついで「一戦に及ぶべし」としていた茨木城の中川清秀も帰服し、大和田城、能勢城、三田城が織田信長に寝返ったため荒木村重は孤立した。

ここに至り戦局有利と見た織田信長は石山本願寺との和平交渉を打ち切った。
同年11月14日滝川一益、明智光秀、蜂屋頼隆、氏家直重、伊賀伊賀守、稲葉良通、羽柴秀吉、細川藤孝軍と荒木村重軍の先鋒隊が激突した。
この時の様子を『信長公記』では、下記のように記している。
"足軽隊を出した後、武藤宗右衛門やその配下の者どもが敵陣に駆け入った。
宗右衛門は伊丹方の侍と馬上で渡りあい、首四つをあげて尼崎に凱旋した。
また多くの味方将士は伊丹城の周辺に放火して回り、遮蔽物をなくすることで城方の働きを閉塞した"

その後織田信長も有岡城と猪名川を挟んだ古池田(池田城)に本陣地を移して有明城を攻囲した。
池田城は荒木村重の元居城で、この当時は廃城になっていたと思われている。
そこを本陣とした。
織田信長軍は、まず別動隊として動いていた滝川一益、丹羽長秀隊が同年12月4日兵庫の須磨区を焼き払い塚口付近に布陣した。

本格的な攻城戦は同年12月8日酉刻(午後六時頃)からはじまった。
まず織田信長軍の鉄砲隊が有岡城に乱射し、次いで弓 (武器)隊が町屋を放火した。
しかし有岡城は戦国時代 (日本)の城としては珍しい総構えの城で守りが堅く、また夜の暗さで攻め切る事が出来なかった。
逆に戦闘が終了した亥刻(午後十時頃)には織田信長軍の万見重元ら多くの近臣と2千兵を失う事になる。
その後織田信長は有岡城の周りを固めて同年12月11日には古池田まで陣を戻し、同年12月15日には安土城に帰城してしまった。
『信長公記』では有岡城の記述が減っていき、織田信長が鷹狩りを楽しんでいる記述が増えてくる。
この事より『町を放火候なり』によると「信長は一旦持久戦に持ち込むことにした」と解説している。
12月8日の戦いが思いのほか損害が大きかったことから力押しの攻城戦を変更し、兵糧攻めに切り替えられたと思われている。

有岡城は東西に400m、南北に600mからなる大城であった。
発掘調査から有岡城の土塁の下から石垣積みが発見され、墓石などの転用石材があり石垣の先駆ではないかと注目されている。
また日本国で最初の天守が備えていたと言われており、城内には猪名野神社、上﨟塚砦、鵯塚砦、岸ノ砦、昆陽口砦などが築かれており堅城であった。
これに対抗して『信長公記』では織田信長軍の布陣の様子を、"二重、三重堀をほり、塀、柵を付け、手前々々堅固に申し付けられ候"としており、有岡城に対する砦のようなものが建てられた。

織田信長軍は有馬から山崎までの広範囲に布陣して長期化の様相となってきた。

荒木村重は毛利軍と石山本願寺軍の後詰を期待していたが増援軍は現れなかった。
食糧も欠乏しつつあり、士気を高めるため織田信忠隊がいる加茂砦に翌天正7年(1579年)の正月明け夜襲をかけた。
加茂砦には織田信忠が率いる美濃国、近江国3千兵が陣をはっている。
そこに荒木村重自身が指揮をとり5百兵を北ノ砦より出撃させ3町 (単位)離れた加茂砦の西方より火を放って切りかかった。
また東に待ち伏せていた一隊は、逃げてくる敵を押しつつ討ち取っていった。
加茂砦の急襲を知った刀根山砦にいた兵たちが直ちに織田信忠隊の救援に駆け付けたが、馬や兵糧を奪われて加茂砦は炎上した後だった。
織田信忠の首こそ無事であったが、「荒木村重軍強し」との評判は京都まで伝わり今様が流行るまでにいたった。
織田信長軍はその後警戒が厳重になり、織田信長自身も有岡城に督戦に訪れたりした。
そんな中、同年4月18日、有岡城方より討って出て、有岡城の城兵3兵が討ち取られたようである。
同年9月まで戦闘経緯は不明である。

同年9月2日夜半、荒木村重は5,6名の側近を引き連れ、夜陰にまぎれて船で猪名川を下って、息子荒木村次にいる尼崎城(大物城)へ移っていった。
この時の様子を『陰徳太平記』では、"忍び有岡の城を出立づ。共に乾助三郎に重代相伝の葉茶壺を負はせ、阿古とて、常に膝下に召使ひし女を召具しけり"としている。

『戦国の武将たち』によると、この「阿古」なる人物は荒木村重の側室で身辺を警護する女武者ではなかったかと解説している。
また「村重に反意あり」としていた細川藤孝は、「君に引く荒木ぞ弓の筈ちがい、居るにいられぬ有岡の城」という歌を詠んで、突然城と家族を捨て茶道具と共に夜逃げした荒木村重を皮肉った。

絶望的な戦いに命が惜しくなって逃げ出してしまったという解釈もあるが、『陰徳太平記』によると、下記のように記している。
"荒木家老の者共さし寄りて村重を諫めて云く、つらつら城中の形勢を見るに、毛利家の援兵も今は頼み少なく、徒らに月日を送り給う故、兵糧甚だ乏しく成り候。
此上し別に行も候はじ、只早く大将尼崎へ御出有りて、中国・西国の諸将を語らはれ候はば、定めて援兵を出さるべきかにて候。
先ず一旦城中を忍びて御出ありて、随分御智謀をめぐらされ候へと、衆口一舌に勧めけり。
村重是を聞きて、実に是もさる事也、妻子諸軍士共のためなれば、いかにもして忍び出で謀ほめぐらすべき候。"

三木合戦もそうであったが、毛利氏は援軍の約束しながら、花隈城や尼崎城を通じて兵糧は補給していたが、1年経っても援兵はこず、このままでは城を持ちこたえるのは不可能と判断し、家臣を使者としても効果は無く、城主自ら安芸国に出向き毛利氏と直接交渉しようとしたのではないかと説明している。
『戦国の武将たち』では「茶道具は毛利への手土産とみることができる」としている。

荒木村重の逃亡はしばらくは伏せられていたが、織田信長の間者に知られるところとなり、同年9月12日に有岡城の攻城軍の半数を、織田信忠が総大将として尼崎城へ向かわした。
その一方、滝川一益は調略を開始した。
上﨟塚砦にいた中西新八郎大将と宮脇平四郎副将に荒木村重の逃亡の事実を巧みに使い寝返りに成功した。
滝川一益は「進むも滝川、退くも滝川」といわれた戦術家で、調略の才も秀でていた当時屈指の武将であった。

同年10月15日亥刻(午後十時頃)織田信長軍は有岡城に総攻撃を開始した。
有岡城の城兵はただちに各砦へ配置し臨戦態勢を整えた。
しかし上﨟塚砦に押し寄せた滝川一益隊は、なんの抵抗もうけることなく城内へ侵入を許した。
これは中西新八郎と宮脇平四郎のみが裏切ったわけではなく、中西新八郎らの説得に応じた守備兵力の足軽大将らが加わったためである。

総構えの有岡城であったが内からの攻撃には弱い。
守備兵はことごとく討ち取られていき、北ノ砦の渡辺勘太郎、鵯塚砦の野村丹後の両大将は降伏を申し出たが受け入れられず、切腹してはてた。
増援軍の雑賀衆も白兵戦には弱くほぼ全滅した。
総構えの城とは城内に百姓、町人の住居も多数ある。
織田信長軍は城内を焼き討ちにし郷町から侍屋敷へ火の手が広がっていった。
非戦闘員は二の丸に逃れたが、そこに織田信長軍が突入してきたので本丸にひいていった。
本丸は三方を堀で囲まれ、南側は空堀を隔てて二の丸に面しており、さすがの織田信長軍も本丸への侵入は不可能であった。

同年10月19日、城守をしていた荒木久左衛門は開城を決意した。
織田信澄が接収部隊を率いて本丸に入城した。
ここに有岡城の戦いの戦闘は終結することになる。

戦後の影響

荒木久左衛門が開城を決意したのは、織田信長から講和の呼びかけがあり「荒木村重が尼崎城と花隈城を明け渡すならば、本丸の家族と家臣一同の命は助ける」とした為である。
荒木久左衛門は手勢300兵を率いて尼崎城に向かったが、荒木村重はこの説得に応じる事はなかった。
『戦国の武将たち』によると、この時尼崎城には毛利氏、石山本願寺、雑賀衆の御番衆もいたので、荒木村重の意見は通らなくなってしまったとしている。
荒木村重の説得を約束していた荒木久左衛門は織田信長に顔向け出来ないと思ったのか、300兵共々姿をくらましてしまった。
この時の様子を『信長公記』では
今度、尼崎・はなくま渡し進上申さず、歴々者ども妻子・兄弟を捨て、我身一人づつ助かるの由、前代未聞の仕立なり。
余多の妻子ども、此趣承り、是は夢かやうつつかや。恩愛の別れの悲しさ、今更たとへん方もなし。さて如何かと歎き、或はおさない子をいただき、或は懐妊したる人もあり。
もだへこがれ、声もおしまず泣き悲しむ有様は、目も当てられぬ次第なり。
たけき武士も、さすが岩木ならねば、皆みな涙を流さぬ者はなし。

この報告を聞いた織田信長は、「このよし聞食及ばれ、不便に思食され候といへども、侫人懲のため、人質御成敗の様子、山崎にて条々仰さる」とした。

「侫人」(ねいじん)とは荒木村重や約束を守らない荒木久左衛門らを指しており、不便と思いながらも「荒木一族は武道人にあらず」と人質全員を処刑するように命じた。
織田信長は比叡山焼き討ち、長島一向一揆、越前一向一揆で大量虐殺を行ったが、今回も同様の処刑とあって織田信長の軍勢の中にも断案に首を傾げる者もいたようである。
しかし織田信長の決意に変更は無く、まず荒木一族と重臣の36名が妙顕寺に移送された。
ついで、同年12月13日辰刻(午前九時頃)に尼崎城の近く、織田信忠が陣をはっていた七つ松に有岡城の本丸にいた人質が護送され、97本の磔柱を建て家臣の妻子122名に死の晴着をつけ、鉄砲で殺害されたようである。
それが終わると男性124名、女性388名が四軒の農家に入れられ、生きたまま農家ごと火をつけたようである。
この時の状況を『信長公記』では、下記のように記していおり、臨終の悲惨な状況が伺えしれる。
「風のまはるに随って、魚のこぞる様に上を下へとなみより、焦熱、大焦熱のほのほにむせび、おどり上り飛び上り、悲しみの声煙につれて空に響き、獄卒の呵責の攻めも是なるべし。肝魂を失ひ、二日共更に見る人なし。哀れなる次第中々申し足らず。」

一方妙顕寺に移った36名は、同年12月13日辰刻(午前九時頃)に妙顕寺を出立し京市中引き回しの上、六条河原で首を討たれていった。
この中には、荒木久左衛門の息子荒木自念(14歳)、懐妊中であった荒木隼人介の妻(20歳)も含まれている。

その後荒木村重は12月中に尼崎城を抜け出し、花隈城に移動してく。
そして花隈城花隈城の戦いへと続いていき、ここでも敗れると毛利氏のもとに亡命していく。

黒田孝高

この戦いは、黒田孝高が約1年間投獄されていた事でも有名である。
黒田孝高が閉じ込められていた場所は、有岡城の西北にあり、後は深い沼地、三方に竹藪に囲まれていて日も差し込みにくく湿気が多い場所であった。
黒田孝高は、息子黒田長政を織田信長に人質として差し出している。
織田信長は単独で有岡城に向かった黒田孝高が裏切ったと思いこみ、羽柴秀吉に黒田長政を殺害するように命じた。
そこに竹中重治が進み出て「その役目手前がつかまつる」として長浜城 (近江国)に向い、黒田長政を自分の領地である菩提山城に移動させ、そこで織田信長の命に逆らってかくまった。

黒田孝高の投獄場所は快適な場所とはいえず、肌はカサカサになり、膝は曲がったまま終生不具者となってしまった。
唯一こころの安らぎとなっていたのは、牢獄から見えるフジ (植物)であった。
新芽を吹き出し、たまに花の蜜を目当てに小鳥が飛んでくる。
その時の光景が生涯忘れられず、後に大名の列に並んだ時に黒田氏の家紋を「藤巴」に選んだ。
姫路城にいた家臣達は、救出作戦を練っていた。
そこで栗山利安、母里太兵衛、井上九郎次郎らが商人に変装し有岡城に潜入し投獄されている場所を特定した。
また番人を取り込むことに成功し、以降自由に牢獄に尋ねる事はできた。
10月15日に総攻撃が開始された時に、栗山利安らが大混乱に乗じて救い出すことに成功し、三名は順番に背負いながら有馬温泉に向い、しばらく体力が回復するまで逗留し、その後姫路城で羽柴秀吉と対面した。
羽柴秀吉は黒田孝高のあまりの変わりように驚き、「すまぬ」と号泣したと言われている。
また後で真相を知った織田信長も黒田長政を殺害したことに対して「不明であった」と大変悔やんだが、竹中重治の気転によって生きている事が解ると大いに喜んだと言われている。
しかし、その竹中重治は三木合戦の陣中で病死していた。

神呪寺城、鷲林寺城

有岡城の戦いは、有岡城とその周辺で行われた戦いだけではなく、六甲山脈でも行われていた。
毛利援軍は1兵も来援しなかったが兵糧は補給し続けていた。
当初は尼崎城に陸揚げされ有岡城に届けられていたが、次第に織田信長軍の砦が築かれると、尼崎ルートの補給路は使えなくなった。
その後は、花隈城に一旦陸揚げした物資を神呪寺城、鷲林寺城や宝塚市の洞窟に一旦保管し、その後夜間に昆陽野を横切り有岡城に運ぶルートを使っていた。
神呪寺城、鷲林寺城とは三好長慶時代、越水城の支城となっており、この戦い時には越水城は廃城となり有岡城の支城となっていたと考えられている。
当時の神呪寺は現在より広範囲に寺院があったと思われ、池田市、豊中市、尼崎市まで眺望がきき、『郷土の城ものがたり』によると神呪寺城、鷲林寺城は烽火城で織田信長軍の動きを烽火で知らしていたとも記している。
補給路を断つためか、烽火城を潰すためかは不明だが、『信長公記』によると、「御断わりも申し上げず曲事」と織田信長は激怒し兵を六甲山中や神呪寺城、鷲林寺城に向けた。

この時の様子を、「山々をさがし、あるいは斬りすて、あるいは兵糧その外、思い思いに取り来ること、際限なし」と『信長公記』には記している。

略奪を繰り返し、神呪寺城、鷲林寺城以外の補給基地となっていた六甲山系の寺院も発見され焼かれていった。

[English Translation]