文禄・慶長の役 (Bunroku-Keicho War)

文禄・慶長の役(ぶんろく・けいちょうのえき)は1592年(日本:文禄元年、明および李氏朝鮮:万暦20年)から1598年(日本慶長3年、明および朝鮮万暦26年)にかけて行われた戦役。
日本の豊臣秀吉が主導する遠征軍と李氏朝鮮および明の軍との間で交渉を交えながら朝鮮半島を戦場にして戦われた。

名称について

豊臣政権時から江戸時代後期に至るまでは、この戦役が日本が明の征服を目指す途上の朝鮮半島で行われたものであることから唐入り・唐御陣、あるいは高麗陣・朝鮮陣などの呼称が用いられていた。
幕末から明治初期にかけては朝鮮征伐、征韓などと呼ばれるようになった。
1910年(明治43年)の日韓併合以後は朝鮮人が日本人となったことから朝鮮征伐の表現は避けられた。
代わって第一次出兵を文禄の役、第二次出兵を慶長の役、併せて文禄・慶長の役という呼称が定着した(他にも朝鮮出兵や朝鮮役・征韓の役という呼び方もある)。
近年では、朝鮮半島が戦場となったため、朝鮮側が受けた被害に関心をもつ研究者を中心に朝鮮侵略と呼ぶ場合もある。
しかし豊臣秀吉はあくまで明を征服することを目指しており、朝鮮そのものの侵略が目的ではなく、あくまで明への出兵の途上での戦役であった。

文禄の役は1592年(文禄元年)に始まって翌1593年(文禄2年)に休戦した。
また、慶長の役は1597年(慶長2年)講和交渉決裂によって始まり、1598年(慶長3年)の秀吉の死を受けた日本軍の撤退をもって終結した。
朝鮮民主主義人民共和国・大韓民国では文禄の役を壬辰倭乱(じんしんわらん、、イムジンウェラン、戦役総称として使う場合もあり)、慶長の役を丁酉倭乱(ていゆうわらん、、チョンユウェラン)または丁酉再乱(ていゆうさいらん、、チョンユヂェラン)と呼んでいる(北朝鮮では壬辰祖国戦争(じんしんそこくせんそう、、イムジンチョグクチョンジェン)と呼ばれる場合もある)。
中華人民共和国では万暦朝鮮戦争(ばんれきちょうせんせんそう、)もしくは朝鮮壬辰衛国戦争(ちょうせんじんしんえいこくせんそう、)と呼ばれる。

なお、文禄元年への改元は12月8日(グレゴリオ暦1593年1月10日)に行われたため、4月12日の釜山上陸で始まった戦役初年の1592年のほとんどの出来事は元号的には天正20年の出来事である。

戦役前の状況

明の征服を企図していた豊臣秀吉は、天正15年(1587年)九州征伐に際し、臣従した対馬の領主・宗氏を通じて「李氏朝鮮の服属と明遠征の先導(征明嚮導)」を命じた。
元来、朝鮮との貿易に経済を依存していた宗氏は対応に苦慮した。
李氏朝鮮に対しこの要求を直接伝えず、日本統一を祝賀する朝鮮通信使の派遣を要求して穏便に済まそうとした。
明の冊封国であった李氏朝鮮に征明嚮導の意思はなく、秀吉は明への遠征のため先ず朝鮮の制圧を決め、文禄元年(1592年)4月(和暦。漢数字表記の月は以下同じ)、16万人の大軍を送ることとなる。

李氏朝鮮王朝では日本へ派遣した使節が帰国し、その報告が西人派(正使の黄允吉は戦争が近いことを警告)と東人派(副使の金誠一は日本の侵略はあったとしても先の話と否定)で別れ、政権派閥の東人派が戦争の警告を無視した。

なお、秀吉は開戦後も李氏朝鮮が降参するならこれを許し、明遠征への先導役を果たさせる考えを捨てていなかった。
先鋒と交渉役を務めた小西行長や宗義智の日本軍一番隊は、しばしば秀吉が考える「李氏朝鮮の服属と明遠征の先導(征明嚮導)」を「朝鮮に明への道を借りる(假途入明)」に言い換えた上で李氏朝鮮に求めに応じるよう交渉を呼びかけている。

なお、戦力に自信のあった日本軍は上陸後も戦国の常識に従って何度も李氏朝鮮を交渉により服属させようと試みており、朝鮮の武力制圧が既定路線であるかのような認識は間違いである。
戦術に於いても攻城戦の開始前と落城寸前の場面で降伏勧告を行っており、自軍被害も低減できる無血開城の交渉を行っている。
しかし、異文化間の戦争のため明・朝鮮の指揮官は民衆を巻き込んだ籠城に徹し、守将の降伏による無血開城よりも民衆を巻き込んだ落城を選ぶケースが多かった。

文禄の役

4月12日、釜山に上陸した日本軍は翌13日より攻撃を開始した。
侵攻に対応が遅れた朝鮮軍は連戦連敗や無血撤退・逃散を重ねた。
釜山鎮の戦い(鄭撥戦死)、東莱城の戦い(宋象賢戦死)、尚州の戦い(李鎰敗走)、弾琴台の戦い(申砬戦死)などで日本軍は勝利を重ねた。
一番隊(小西行長、他)、二番隊(加藤清正、他)、三番隊(黒田長政、他)を先鋒に三路に分かれて急進した。
ソウルに日本軍が迫ると李氏朝鮮の宣祖は平壌へ遷都して避難した。
翌5月には首都・漢城(漢陽・現在のソウル特別市)を日本軍が占領する。

容易に李氏朝鮮の首都である漢城が陥落すると、日本の諸将は5月に漢城にて軍議を開き、各方面軍による八道国割と呼ばれる制圧目標を決めた(平安道から一番隊小西行長他、咸鏡道から二番隊加藤清正他、黄海道から三番隊黒田長政他、江原道から四番隊毛利吉成他、忠清道から五番隊福島正則他、全羅道から六番隊小早川隆景他、慶尚道から七番隊毛利輝元他、京畿道から八番隊宇喜多秀家他)。
日本軍の進撃が平壌に迫ると宣祖は遼東との国境である北端の平安道・義州へと逃亡し、冊封に基づいて明に救援を要請する。
その間にさらに北上した日本の一番隊と三番隊は平壌を占領して進撃を停止した。
なお、開城の攻略まで行動を共にしていた二番隊は鏡道へ進路を転じ、日本軍は北西部の平安道の平壌より北方と全羅道を除く朝鮮全土を制圧した。
加藤清正の一隊は威力偵察のため国境を越えて明領・オランカイ(兀良哈)へ攻め入った。

「宣祖実録(せんそじつろく、ソンジョシルロク)宣祖二十五年壬辰五月條」によると、このとき朝鮮の民衆は既に王や大臣を見限り、日本軍に協力する者が続出した。

これは、宣祖実録の「人心怨叛,與倭同心耳」、「我民亦曰:倭亦人也,吾等何必棄家而避也?」で伺い知ることができる。

また、明の朝鮮支援軍が駆けつけると、辺りに散らばる首の殆どが朝鮮の民であったと書かれてある。
景福宮・昌徳宮・昌慶宮の三王宮は、日本軍の入城前にはすでに灰燼となっており、奴婢(ぬひ、奴隷の一種)は、日本軍を解放軍として迎え、奴婢の身分台帳を保管していた掌隷院に火を放った、とある。

日本軍に大きく後れを取った李氏朝鮮であったが、釜山を基点として支配領域を広げていた日本軍後方部隊のうち、海岸移動を行っていた船団に対して李舜臣率いる朝鮮水軍が4月と5月の二回の出撃で積極的に攻撃を加え、備えのない日本船団は被害を受けた。

海戦用の水軍や朝鮮沿岸を西進する作戦を持たなかった日本軍は、陸戦部隊や後方で輸送任務にあたっていた部隊から急遽水軍を編成して対抗した。

こうして編成された水軍は脇坂安治の抜け駆けが閑山島海戦にて敗北した。
続いて援護のために進出した加藤嘉明と九鬼嘉隆の水軍が李舜臣の泊地攻撃に耐えかねて後退する。
日本軍は海戦の不利を悟って、積極的な出撃戦術から消極的な水陸共同防御戦術へ方針を変更した。
これは長年の倭寇対策で船体破壊のための遠戦指向の朝鮮水軍に対して、船員制圧のための近戦指向の日本水軍では装備や戦術の差もあって、正面衝突の海戦をすると日本水軍が不利であったことによる。
しかし当時の船は航海力も攻撃力も未熟であり、陸上への依存が強いため水陸共同防御戦術は有効に機能し、以降の李舜臣の攻撃は戦果があがらず精彩を欠くようになり、出撃も滞ることとなった。

7月、援軍に来た祖承訓率いる遼東の明軍が最前線の平壌を急襲した。
これは小西行長によって撃退するものの、明の救援によって交渉優先の状況となり戦況は膠着することになる。

朝鮮へ派遣された諸将は八道国割を目標に要衝を制圧していった。
前述のとおり小西行長は当初は李氏朝鮮、後には明との和平交渉を優先して平壌で北進を停止した。
また小早川隆景は忠清道方面から全羅道に侵入したが権慄の反撃によって進撃を阻まれ、直後に南下する明軍の攻撃に対応するために漢城へ転出したため、全羅道の制圧は進まなかった。

日本軍は釜山西方の制圧を画策して、第一次晋州城攻防戦(1592年9月、細川忠興指揮の日本軍対金時敏指揮の朝鮮軍)を生起させるが苦戦したうえ、攻城に失敗した。
ちなみに、この戦闘は閑山島海戦(1592年7月、脇坂安治指揮の日本軍対李舜臣指揮の朝鮮軍)・幸州山城攻防戦(1593年2月、宇喜多秀家指揮の日本軍対権慄指揮の朝鮮軍)とあわせて韓国では「壬辰倭乱の三大捷」と呼ばれている。

翌文禄2年(1593年)1月、李如松率いる明軍4万3,000人余が平壌に進攻し奪還。
しかし日本軍は漢城郊外の碧蹄館の戦いに勝利する。
この段階で両者の戦線が行き詰まり、和平交渉が始められた。

占領各地では義兵の決起が生じ、このため武器・兵糧不足に悩まされた。
この義兵は流民も多く、朝鮮の民衆や軍隊も襲う事もあった。
漢城に集結して和平交渉を始めていた日本軍だが、本土から釜山までの海路の補給は維持していたが、釜山から漢城までの陸路の治安が悪化して食糧などの補給が滞りがちであった。
そのため、加藤清正が捕虜にした李氏朝鮮の2人の王子(臨海君・順和君)の返還と引き替えに釜山周辺の南部へ4月頃までに移陣した。

こうして兵力と補給に余裕が出てきたことにより朝鮮南部の支配を既定事実とするため、朝鮮南部へ布陣した諸将を動員して第二次晋州城攻防戦で晋州城を攻略した。
(当初は漢城戦線を維持したまま日本本土からの新戦力を投入する計画であった)。
更に全羅道を窺うも明軍の進出によって戦線は膠着し、長い休戦期に入った。

休戦期の和平交渉

この時期、豊臣秀吉は明が降伏したという報告を受け、反対に明の朝廷では日本が降伏したという報告を受けていた。
これは日本・明双方の講和担当者が穏便に講和を行うためにそれぞれ偽りの報告をした為である。
このため秀吉は和平に際し、明の皇女を天皇に嫁がせる事や、朝鮮南部の割譲など、到底明側には受け入れられない講和条件を提示し、明の降伏使節の来朝を要求した。
一方、明の朝廷も日本が降伏したという証を要求したが、これも秀吉にとっては到底受け入れられるものではなかった。

結局、日本の交渉担当者は「関白降表」という偽りの降伏文書を作成し、明側には秀吉の和平条件は「勘合貿易の再開」という条件のみであると伝えられた。
「秀吉の降伏」を確認した明は朝議の結果「封は許すが貢は許さない」(明の冊封体制下に入る事は認めるが勘合貿易は認めない)と決め、秀吉に対し日本国王の称号と金印を授けるため日本に使節を派遣した。
文禄5年(1596年)9月、秀吉は来朝した明使節と謁見。
自分の要求が全く受け入れられていないのを知り激怒。
使者を追い返し朝鮮への再度出兵を決定した。

慶長の役

慶長2年(1597年)2月、和平交渉で無視された朝鮮南部割譲を実力で果たすという名目で、秀吉は14万人の軍を再び朝鮮に送った。
李氏朝鮮王朝では釜山に集結中の日本軍を朝鮮水軍で攻撃するように命令したが、度重なる命令無視のために三道水軍統制使の李舜臣は罷免され、後任には元均が登用された。

朝鮮水軍を引き継いだ元均も攻撃を渋ったが、ついに7月に出撃を行った。
しかし攻撃は失敗し、帰路に巨済島で停泊していたところを水陸から攻撃され、朝鮮水軍は幹部指揮官、元均、李億祺、崔湖の戦死と共に壊滅的打撃を被った(漆川梁海戦)。

翌8月、日本軍は右軍と左軍(及び水軍)の二隊に別れ慶尚道から全羅道に向かって進撃を開始した。
対する明・朝鮮軍は道境付近の黄石山城と南原市城で守りを固めた。
日本の右軍は黄石山城を、左軍は南原市城を攻撃、たちまち二城を陥落させ全州市城に進むと、ここを守る明軍が逃走したため無血占領した。

日本の諸将は全州で軍議を行い、右軍、中軍、左軍、水軍に別れ諸将の進撃路と制圧する地方の分担を行い、守備担当を決め全羅道・忠清道を瞬く間に占領した。
北上した日本軍に一時は漢城の放棄も考えた明軍であったが、結局南下しての抗戦を決意した。
9月に先遣隊の明将・解生と黒田長政の部隊が天安市で遭遇戦を行い双方が後退した。

同じく9月には南原城から南下した後に西進した日本水軍の先鋒を三道水軍統制使に返り咲いた李舜臣が鳴梁海戦で破った。
しかし、日本軍により全羅道西岸が制圧されると朝鮮水軍は制海権を失い、李舜臣も全羅道北端まで後退し、日本水軍は全羅道西岸まで進出した。

京畿道まで進出した日本軍は、冬の訪れを前にして寒冷期の漢江渡河の困難さを鑑み、慶尚道から全羅道の沿岸部へ撤収し、文禄の役の際に築かれた城郭群域の外縁部(東は蔚山から西は順天市に至る範囲)に新たな城郭群を築いて久留の計を目指した。
城郭群が完成後は各城の在番軍以外は帰国する予定で、翌慶長3年(1598年)中は攻勢を行わない方針を立てていた。

築城を急ぐ日本軍に対して、明軍と朝鮮軍は攻勢をかける。
12月22日、完成直前の蔚山倭城(日本式城郭)を明・朝鮮連合軍5万6,900人が襲撃し、攻城戦を開始した。
急遽入城した加藤清正を初め日本軍の堅い防御の前に大きな損害を被り苦戦を強いられた。
そのため明・朝鮮連合軍は強襲策を放棄し、包囲戦に切り替える。
このとき蔚山城は未完成であり、食料準備も出来ていないままの籠城戦で日本軍は苦境に陥る。
年が明けた翌慶長3年(1598年)1月になると蔚山城は飢餓により落城寸前まで追いつめられていた。
しかし、1月3日毛利秀元等が率いる援軍が到着し、翌4日水陸から明・朝鮮連合軍を攻撃敗走させ2万人の損害を与えて勝利した(蔚山城の戦い)。
戦いの後、宇喜多秀家など13人は、立地上突出している蔚山・順天・梁山の三城を援軍の困難さを理由として放棄する案を豊臣秀吉に上申しているが、秀吉はこれを却下し上申者を叱責した。

秀吉は翌慶長4年(1599年)の攻勢計画を発表していたが、秀吉が8月18日に死去すると戦役を続ける意義は失われた。
そのため五大老や五奉行を中心に、密かに朝鮮からの撤収準備が開始された。
もっとも、秀吉の死は秘匿され朝鮮に派遣されていた日本軍にも知らされなかった。

9月に入ると明・朝鮮連合軍は蔚山、泗川市、順天へ総力を挙げた攻勢に出た。
迎え撃つ日本軍は沿岸部に築いた城の堅固な守りに助けられ、蔚山城の戦い第二次蔚山城の戦いでは明・朝鮮連合軍を撃退し防衛に成功。
泗川の戦いは島津氏軍が明軍の火薬の暴発事故による混乱に乗じて一斉に突撃し、明・朝鮮連合軍に大打撃を与え潰走させた。

順天を守っていたのは小西行長であった。
日本軍最左翼に位置するためあらたに派遣された明水軍が加わり水陸からの激しい攻撃を受けるが防衛に成功し、明・朝鮮連合軍を後退させた(順天城の戦い)。
明・朝鮮連合軍は順天倭城を遠巻きに監視するのみとなる。

蔚山、泗川、順天への攻勢を退けた日本軍であったが、既に秀吉は8月に死去しており戦争を継続する意義は失われていた。
そこでついに10月15日、秀吉の死は秘匿されたまま五大老による撤退命令が発令された。
撤退命令を受領した小西行長は11月、明・朝鮮の陸水諸将と交渉や買収で無血撤退の約束を取り付ける。
実際には明・朝鮮水軍は後退せずに海上封鎖を継続しており、海路撤退を妨害した。

小西軍の脱出が阻まれてていることが確認されると泗川から撤退してきた島津義弘の他、立花宗茂、寺沢広高、宗義智らの諸将は救援に向かうために水軍を編成して進撃した。
島津義弘の救援軍が近づくのを知ると明・朝鮮水軍は順天の海上封鎖を解いて迎撃を行った。

この露梁海戦で島津水軍は苦戦したが、明・朝鮮も明水軍の副将、や朝鮮水軍の三道水軍統制使の李舜臣を含む複数の幹部が戦死した。
また、明・朝鮮水軍の出撃で順天の海上封鎖が解けたことを知った小西行長は海戦海域を避けて海路脱出に成功している。

こうして、日本の出征大名達は朝鮮を退去して日本へ帰国し、豊臣秀吉の画策した明遠征、朝鮮征服計画は成功に至らぬまま、秀吉の死によって終結した。

戦役後の和平

和平交渉は徳川家康によって委任を受けた対馬の宗氏と朝鮮当局の間で進められる。
断絶していた李氏朝鮮との国交を回復すべく、日本側から朝鮮側に通信使の派遣を打診したことにはじまる。
征夷大将軍徳川家康と朝鮮側の使節との会見が実現したのは日本軍撤兵から6年後の慶長9年(1604年)であった。
江戸幕府に対する朝鮮通信使が派遣されて正式の和平が果たされたのは慶長12年(1607年)であった。
明は日本と国交を結ばないまま滅亡し、明に代わって中国を支配するようになった清は、すでに日本が鎖国を取ったため貿易は行うが、正式な国交を持とうとはしなかった。

影響

休戦を挟んで6年に及んだ戦争は、朝鮮・日本・明の三国に重大な影響を及ぼした。

朝鮮半島への影響

戦場となった朝鮮半島では日本軍、朝鮮軍、明軍の戦闘や駐留の他、統治不全によって治安が悪化した。
その為、不平両班や被差別階級、困窮した農民、盗賊による反乱、蜂起、及び朝鮮軍によるその鎮圧、また朝鮮王朝内部の政争による粛正や処刑などが行われ、混乱は戦災を更に悲惨なものとした。

李氏朝鮮は階級差別と搾取によって農民が春窮と呼ばれる毎年春に飢える状況が常態となっているほど生産性の低い統治を行っており、国土開発を怠っていた。
また、流通経済が発達しなかったため銀などの貨幣による売買が成立せず自給自足が基本の朝鮮民とは物々交換などで食料の調達を行わなければならなかった。

戦争が開始され、日本軍・明軍・朝鮮軍による現地調達による食料消費と治安悪化のために農民が耕作を放棄することで流民が流民を生み、飢えた民衆は敵味方より略奪することで飢えを凌ごうとした。
また、明軍と李氏朝鮮との交渉により鴨緑江より朝鮮側の兵糧供給は李氏朝鮮側の調達及び輸送と取り決められたため、自軍と政府の維持も含めて李氏朝鮮は民衆から過酷な食料調達を行った。
そのため、明軍の略奪と合わせて日本軍が一歩も足を踏み入れていない平安道も荒廃して開戦当初の人口を養いきれずに人口が激減した。

民衆は無秩序に食料を求めて朝鮮・明軍・日本軍を襲い、食料調達が不足した日本軍・明軍・朝鮮軍は朝鮮民衆から現地徴発を行った。
明軍に優先的に食料供給が行われたことから、朝鮮軍の戦意低下は少なからぬものがあった。
戦役の後期から戦後の安全保障のための明軍の朝鮮駐屯による略奪なども横行した。
そのため、後に朝鮮の民衆の中には日本を一番の侵略者としながらも、明軍に対しても第二の侵略者として評する人間も出てきた。

また戦時下での混乱により諸勢力による宮殿・王陵、官庁、文化財の破壊や略奪が行われた。
特に身分差別に苦しんだ朝鮮民衆は緒戦の混乱に乗じて官庁や被差別身分を示す書類を焼き払った例が朝鮮側資料により知られている。
また日本軍は治安を乱しゲリラ攻撃を仕掛ける義勇軍の抵抗に手を焼いたため、治安確保のために住民の虐殺や村の焼き討ちなどを行うことも多かった。
戦功の証明として行われたはなそぎによってその後しばらくの間朝鮮に鼻のない人間が多く見られたということが知られている。
しかしこれらは不穏民衆を一揆と認識して討伐した慶長の役が始まった後の話である。
当初は朝鮮は戦後には支配下に繰り入れられるべき領土であり、日本の国内戦同様に非戦闘員である民衆は保護の対象であり殺戮は禁止されていた。
はなそぎも1597年の慶長の役の頃が主体であるが、これまで戦争全般を通じた蛮行であるがごとく語られてきた。
また戦後に咸鏡道に建てられた日本軍撃退記念碑の北関大捷碑には加坡の戦闘で斬殺した日本兵から左耳825個を切り取って朝鮮王へ送った記録が残っている。
さらに、日本兵の首に賞金を掛けたため都市部で朝鮮軍・明軍による朝鮮領民の首無し死体が続出するなど荒廃した状況が伝えられる。

戦役以後、総じて朝鮮人の間では日本に対する敵意が生まれ、平和な貿易関係を望む対馬の宗氏も朝鮮王朝に強く警戒され、日本使節の上京は禁じられ、貿易に訪れた日本人も釜山に設けられた倭館に行動を制限された。
また日本人捕虜(降倭)の多くは、鉄輪をはめられ逃げ出すことも出来ない状態にされたうえで、その身分を賎民とされた。

一方、朝鮮の両班階層(支配層)の間では明の援軍のおかげにより朝鮮は滅亡を免れたのだという意識(「再造之恩」)が強調され、明への恩義を重視する思想が広まった。
これは後の明清交代期に於いて、清朝と明との間での朝鮮外交の針路に多大な影響を与えることとなった。

また、文化面でも朝鮮半島に多大な影響をもたらした。
南蛮貿易により日本にもたらされた唐辛子は、文禄・慶長の役の日本軍によって朝鮮半島にももたらされ、キムチ等の韓国・朝鮮料理の礎を築いた。

日本国内情勢への影響

留守中の大名領地に太閤検地が行われ、豊臣政権の統治力と官僚的な集団が強化された。
しかし戦後にはこの戦争に過大な兵役を課せられた西国大名が疲弊した。
家臣団が分裂したり内乱が勃発する大名も出るなど、かえって豊臣政権の基盤を危うくする結果となった。

一方で、諸大名中最大の石高を持ちながら、関東移封直後で新領地の整備のために九州への出陣止まりで朝鮮への派兵を免れた徳川家康が隠然たる力を持つようになった。
派兵を免れたことが徳川家康が後に天下を取る要因の一つとなった。

五大老の筆頭となった家康は秀吉死後の和平交渉でも主導権を握り、実質的な政権運営者へとのし上がってゆく。
この官僚集団と家康の急成長は、豊臣政権存続を図る官僚集団と次期政権を狙う家康との対立に発展し、関ヶ原の戦い(1600年)に至った。
戦いに圧勝した家康は日本国内で不動の地位を得、1603年に征夷大将軍に任ぜられた。
こうして太平の江戸時代が始まる。

また、出兵に参加した大名たちによって連れてこられた朝鮮人儒学者との学問や書画文芸での交流、そして陶工が大陸式の磁器の製法、瓦の装飾などを伝えたことで日本の文化に新たな一面を加えた。
その一方、多くの朝鮮人捕虜が戦役で失われた国内の労働力を補うために使役され、また奴隷として海外に売られたこともあった。

開国後の大陸進出への影響

江戸時代末期・明治時代の開国による外交関係の樹立から大陸情勢への関係が不回避となると、当時の武将達が三韓征伐を想起したように、秀吉の朝鮮出兵もクローズ・アップされるようになり、大陸への進出は豊臣秀吉公の遺志を継ぐ行いだと考えるものも多くなった。
朝鮮併合がなった際、初代総督寺内正毅は『小早川、加藤、小西が世にあれば、今宵の月をいかにみるらむ(秀吉公の朝鮮征伐に参加された小早川・加藤・小西の諸将が今生きていれば、朝鮮を日本のものとしたこの夜の月をどのような気持ちでみられるだろうか)』と歌を詠み、外務部長だった小松緑はこれに返歌して、『太閤を地下より起こし見せばやな高麗(こま)やま高くのぼる日の丸(太閤殿下を蘇らせ見せ申し上げたいものだ、朝鮮の山々に高く翻る日の丸を)』と歌い、共に太閤の成し得なかった朝鮮の編入が成功したことを喜んだ。

明への影響

朝鮮への援兵を、同時期に行われた寧夏のボバイ、播州(四川省)の楊応龍の二人の辺境地方の地元民族首長反乱の鎮圧とあわせて、「万暦の三征」と呼んでいる。

これらの軍事支出と皇帝万暦帝の奢侈は明の財政を悪化させ、17世紀前半の女真の強大化に耐え切れないほどの、明の急速な弱体化の重要な原因となったと考えられている。

主な戦い(日付=旧暦)

1592年(文禄元年)

4月28日 忠州の戦い

小西行長対申リツ

5月18日 臨津江の戦い

加藤清正対李陽元

6月5日 龍仁の戦い

脇坂安治対李洸

7月8日 閑山島海戦

脇坂安治対李舜臣

7月8日 梨峙の戦い

小早川隆景対権慄

7月9日 (第1次)錦山の戦い

小早川隆景対高敬命

7月17日 (第1次)平壌城の戦い

小西行長対祖承訓

8月18日 (第2次)錦山の戦い

小早川隆景,立花宗茂,安国寺恵瓊対趙憲

10月5日 晋州城攻防戦第一次攻防戦

細川忠興、長谷川秀一対金時敏,郭再祐

1593年(文禄2年)

1月6日 (第2次)平壌城の戦い

小西行長対李如松

1月26日 碧蹄館の戦い

小早川隆景,立花宗茂,宇喜多秀家対李如松,查大受, 高彦伯

2月12日 幸州山城の戦い

宇喜多秀家、石田三成対権慄

6月19日 晋州城攻防戦第二次攻防戦

宇喜多秀家,黒田長政,加藤清正対崔慶会,金千鎰

1597年(慶長2年)

7月15日 漆川梁海戦

藤堂高虎対元均

8月13日 南原城の戦い

宇喜多秀家対楊元

9月7日 稷山の戦い

黒田長政対解生

9月17日 鳴梁海戦

- 藤堂高虎対李舜臣

12月21日(翌1月4日まで) 蔚山城の戦い

加藤清正,毛利秀元,黒田長政,小早川秀秋対楊鎬,麻貴,権慄

1598年(慶長3年)

9月18日 順天の戦い

小西行長対劉テイ,陳リン

9月22日 (第2次)蔚山城の戦い

- 加藤清正対麻貴

10月1日 泗川の戦い

島津義弘対董一元

11月18日 露梁海戦

島津義弘,立花宗茂,宗義智対陳璘,李舜臣

[English Translation]