戊辰戦争 (Boshin War)

戊辰戦争(ぼしんせんそう、慶応4年/明治元年 - 明治2年(1868年 - 1869年))は、王政復古 (日本)で成立した明治新政府が江戸幕府勢力を一掃した日本の内戦。
慶応4年/明治元年の干支が戊辰だったことからこの名で呼ばれる。
この戦争の結果、薩長、薩長協力藩(佐賀藩、土佐藩等)出身者が明治政府の主体となり、日本は近代的な中央集権国家への道を歩んでいった。

概要

戊辰戦争は、新政府下での薩長と幕府の主導権争いに起因する「鳥羽・伏見の戦い」の段階、会津藩・庄内藩の処分問題に起因する「東北戦争(北越戦争と会津戦争を含む)」の段階、旧幕府勢力の最後の抵抗となった「箱館戦争」の段階の3段階に大きく区分される。

陣営の呼称として、新政府側については官軍、西軍、薩長軍、旧幕府側については東軍、といった呼び方もなされるが、本項目では便宜上新政府軍と旧幕府軍に呼称を統一する。
東北戦争における列藩同盟軍は同盟軍と記述する。

幕末の混乱した政局の中、第15代将軍徳川慶喜は朝廷に統治権を返上する大政奉還を行い、倒幕運動の大義名分を失わせた。
朝廷が行政能力をもっていないため、引き続き旧幕府が新政府下の実質的な政権を担う予定であった。
これに対し討幕派(薩摩藩・長州藩や岩倉具視らの一部公家)は、政治上の劣勢を挽回すべくクーデターを計画。
徳川慶喜や親徳川派の公家を排除し王政復古 (日本)を宣言する。
これは旧幕府と上級公家を廃して薩長派を中心とした新体制の内容であった。
さらに会議で徳川慶喜に対し内大臣の官位辞退と領地の一部返上(辞官納地)の要求を決定した。
さらに薩摩藩は藩士に命じ江戸で騒擾を起こさせたため、旧幕府軍は討薩表を掲げて、京都を軍事力によって鎮定するべく兵を進めた。

旧幕府軍と新政府軍は激突し戊辰戦争が開始された。

政治的な経過については幕末も参照のこと。

戦争終結までほぼ一貫して新政府軍の優勢のうちに戦いが進められた。
「近代化を進めた新政府軍に対して、遅れた旧幕府側の軍隊が対抗できなかったために敗れた」というのは誤りで、実際は旧幕府軍も早くから軍隊の西洋化に取り組んでおり、新政府軍に対して劣っていなかった。
特に海軍は旧幕府軍のみが持っていた強力な戦力であった。
開戦時での兵力や兵站は旧幕府軍が圧倒的に優勢であったが、小銃での戦闘に習熟した新政府軍に対応できず大敗した。
それでも旧幕府軍の兵力は上回っており洋化部隊も温存されていたのだが、徳川慶喜が将兵を置き去りにしたまま脱出したこともあり士気が低下し自壊した。
以降、徳川慶喜が降伏恭順に徹したため、反抗を続ける旧幕府勢力は糾合の核を欠き、戦力の結集が行えなかった。
東北戦争では奥羽同盟に参加した藩の多くが、改革の遅れや財政難から軍備が立ち後れており、新政府軍とは兵力での開きが大きかった。
同盟に合流した旧幕府軍の精鋭部隊も弾薬が欠乏すると、旧式の小銃を使用せざるをえない状況に追い込まれた。

兵力として藩士からなる正規兵だけでなく、町民や農民、無頼の徒や他国藩士によって結成された混成部隊が戦力とされ活躍した。
長州奇兵隊を結成した高杉晋作は「太平の世で堕落した武士より戦力になる」と考えていたとされる。

戊辰戦争においては、焼き討ちや物資の現地接収、捕虜の私刑、味方への制裁も多く発生している。
また、略奪、暴行、放火、強姦や殺戮のような戦争犯罪が行われた記録も多い。
いわゆるガラの悪い人物の多い混成部隊ではもちろんの事、藩兵が同盟領内や自国内で行った記録すら残されている。
また、会津兵や薩摩兵による敵兵の肝を食う行為も伝えられている。
これらの記録は特に東北戦争において見ることができる。
なお、これらの兵の素行や略奪に関する概念は近代の倫理観と落差があった。

新政府軍は主にグレートブリテンおよびアイルランド連合王国から、旧幕府軍は主にフランス第二帝政から、軍事教練や武器供与などの援助を受けていた。
しかし両陣営とも外国の軍隊の派兵を要請することはなかったため、欧米列強による内政干渉や武力介入という事態は避けられた。

鳥羽・伏見の戦い

旧幕府陣営では王政復古後の新政府による、徳川慶喜に対する辞官納地の決議により薩摩藩に対しての反発が強まっていた。

さらに薩摩藩は旧幕府側を混乱させ戦端を開かせる誘いとして、西郷隆盛の命令で江戸で藩士に強盗や狼藉を行わせ騒擾を引き起こしていた。

江戸市中警護の任についていた庄内藩は上山藩と共同し、この薩摩藩士の拠点となっていた薩摩邸を焼き討ちした。

これにより旧幕府では薩摩打倒の機運が高まり、「薩摩の不法行為を誅する」とした上奏表(討薩表)を携え、京都を兵力で抑えるべく、旧幕府側の幕府歩兵隊、会津藩兵、桑名藩兵などが大阪から進軍し、薩摩藩・長州藩の軍勢と慶応4年1月3日 (旧暦)(1868年1月27日)、京都南郊外の鳥羽と伏見で衝突した。

前述の通り、開戦時の兵力では旧幕府軍が上回っており、新政府軍では天皇を連れて京都から撤退することも検討していたと言われる。
新政府軍は戦闘中に官軍の証である錦の御旗を掲げたため旧幕府軍の戦意が低下した。
洋化部隊が温存されたことや指揮そのものも稚拙であったため、新政府軍の圧勝に終わった。

この時点での総戦力では未だに幕府軍が圧倒的に上回っており、巻き返すのも時間の問題と思われたが、慶喜は軍を捨てて大坂城を脱出(1月6日)、海路で江戸へ逃走した。
このとき慶喜は、松平容保(会津藩主)と松平定敬(桑名藩主)の兄弟および愛妾を同道させた。
最高指揮官であり当事者であるはずの徳川慶喜が敵前逃亡したことにより、旧幕府軍は自壊し、抗戦をやめて各藩は兵を帰した。
また戦力の一部は江戸方面へと撤退した。

甲州勝沼及び野州梁田の戦い

江戸へ到着した徳川慶喜は、上野寛永寺にて謹慎し、天皇に反抗する意志がないことを示そうとした。
しかし、新政府は有栖川宮熾仁親王を大総督宮とした東征軍を組織し、東海道軍・東山道軍・北陸道軍に別れ、江戸へ向けて進軍した。

旧幕府軍では、近藤勇らの率いる甲陽鎮撫隊を組織して甲府城を押さえようとした。
東山道を進み信州にいた土佐藩士板垣退助・薩摩藩士伊地知正治が率いる新政府の東山道軍は、この動きを封じるために板垣退助が指揮する東山道軍の別働隊を甲州へ向かわせ、旧幕府軍よりも早く甲府城に到着し接収した。
甲陽鎮撫隊は甲府盆地へ兵を進めたが、慶応4年3月6日 (旧暦)(同3月29日)新政府軍に敗れた。

一方、東山道を進んだ東山道軍の本隊は、3月8日に武州熊谷宿に到着、3月9日に近くの梁田宿(現・足利市)で宿泊していた旧幕府歩兵隊の脱走部隊(衝鋒隊)に奇襲をかけ、これを撃破した。

江戸開城

駿府に進軍した新政府の東海道軍は、3月6日の軍議において江戸城総攻撃を3月15日と定め、準備を始めた。
恭順派として旧幕府の全権を委任された陸軍総裁の勝海舟は、幕臣山岡鉄舟を東征大総督府参謀の西郷隆盛に使者として差し向け会談、西郷より降伏条件として、徳川慶喜の備前預け、武器・軍艦の引渡しを伝えられた。

西郷は3月13日、高輪の薩摩藩邸に入り、同日から勝と西郷の間で江戸開城の交渉が行われた。
翌日勝は、慶喜は隠居の上、水戸にて謹慎すること、江戸城は明け渡しの後、即日田安徳川家に預けること、等の旧幕府としての要求事項を伝え、西郷は総督府にて検討するとして15日の総攻撃は中止となった。
結果、4月4日に勅使(先鋒総督橋本実梁・同副総督柳原前光)が江戸城に入り、慶喜は水戸にて謹慎すること、江戸城は尾張徳川家に預けること等とした条件を勅諚として伝え、4月11日 (旧暦)(同5月3日)に江戸城は無血開城され、城は尾張藩、武器は肥後藩の監督下に置かれることになった。
同日、慶喜が水戸へ向けて出発した。
21日には東征大都督である有栖川宮熾仁親王が江戸城に入城して江戸城は新政府の支配下に入った。

ここに江戸幕府は事実上「滅亡」し、家康以来続いた260余年の支配に終止符が打たれた。

船橋の戦い

慶応4年(1868年)4月11日に行われた江戸城無血開城に従わぬ旧幕臣の一部が千葉県方面に逃亡、船橋大神宮に陣をはり、4月3日 (旧暦)(5月24日)に市川市・鎌ヶ谷市・船橋市周辺で両軍は衝突した。
この戦いは最初は数に勝る旧幕府軍が有利だったが、戦況は新装備を有する新政府軍へと傾き、新政府側の勝利で幕を閉じた。
この戦い以後、江戸以東における新政府に対する集団的な抵抗はなくなった。

宇都宮城の戦い

江戸城は開城したものの、徹底抗戦派の幕臣は大量に江戸を脱走し、北関東を転戦した。
その道中、小山城 (下野国)付近や宇都宮城で伝習隊などの旧幕府軍と新政府軍が戦った。
4月19日 (旧暦)、(同5月11日)に旧幕府軍が宇都宮城を占領するも、奪い返され、今市市、日光市方面に退却した。

上野戦争

徳川慶喜が謹慎していた上野寛永寺には、旧幕府徹底抗戦派の彰義隊が集結して反政府軍の拠点となっており、しばしば新政府軍の兵士と衝突した。

「江戸無血開城」に成功し、事実上幕府を滅亡させた新政府の東海道軍を率いる西郷隆盛は、旧幕府穏健派の勝海舟との関係から、彰義隊への対応の甘さが指摘されていた。
大総督府は長州藩士大村益次郎を軍防事務局判事として赴任させた。

大村は5月1日、旧幕府による江戸府中取締の任を解き、東北地方、越後で仙台藩主導による北部政府(奥羽越列藩同盟)が誕生した直後の5月15日 (旧暦)(同7月4日)、彰義隊を攻撃した。
新政府の東海道軍はわずか一日の戦いで彰義隊を壊滅させた。

これにより、新政府は江戸以西を掌握することとなり、7月には江戸が東京と改称された。

東北戦争(東北地方・新潟の戦い)

奥羽越列藩同盟は白石盟約の時点では会津藩・庄内藩の赦免嘆願のを目的としていた。
新政府の鎮撫使(世良修蔵)を殺害し、白石口で既に本格的な攻防戦が開始されていたことから軍事同盟へと変化した。
両藩への同情や日和見的に雰囲気から参加した藩だけでなく、大藩の圧力や旧幕府軍の恫喝を受けて参加した藩もあり、結束が固いとは言い難く、戦況が劣勢になるにつれ次々と同盟から脱落していった。

奥羽越列藩同盟

慶応4年(1868年)、新政府は会津藩の武装恭順を認めず仙台藩・米沢藩をはじめとする東北の雄藩に会津藩追討を命じ、鎮撫使と軍の部隊を派遣した。

奥羽14藩は会議を開き、会津藩・庄内藩赦免の嘆願書を九条総督に提出するも却下されたため、朝廷へ直接建白を行う方針に変更し、閏4月23日新たに11藩を加えて白石盟約書が調印。
さらに後に25藩による奥羽列藩盟約書を調印した。
会津・庄内両藩への寛典を要望した太政官建白書も作成された。
同盟には、武装中立が認められず新政府軍との会談に決裂した越後長岡藩、ほか新発田藩等の越後5藩が加入し、計31藩によって同盟が成立した。
さらに6月には上野戦争から逃れてきていた輪王寺宮公現法親王(のちの北白川宮能久親王)が盟主として据えられた。
これには輪王寺宮の「東武皇帝」へ推戴し、東北政府を作る構想もあったとする説もある。

奥羽越列藩同盟政府は、旧幕府艦隊を率いて脱走していた榎本武揚に対して援軍の要請を行うも、榎本はこれに同調せず後に敗兵を収容するにとどまった。

北越戦争

北越戦争では長岡城と、同盟が武器の供給源としていた新潟港が主戦場となった。

5月2日の会談で、長岡藩は武装中立の姿勢と会津説得の猶予を嘆願したが新政府側はこれを拒否。
これにより長岡藩および北越の藩が同盟へと参加したため、新政府軍と同盟軍の間に戦端が開かれた。
特に中心となった長岡藩は郡奉行河井継之助により、兵制改革が進められ、武装も更新されており、、ガトリング砲も有していた。
河井継之助の指揮下で善戦したが、7月末には長岡城が落城。
同盟軍は長岡城を奪還したものの、この際、指揮をとっていた河井継之助が負傷する。
新政府軍は長岡城を再奪取、米沢・会津藩兵が守る新潟も陥落したため、8月には越後の全域が新政府軍の支配下に入った。
これによって、武器類の補給を新潟市港に頼っていた奥羽越列藩は深刻な事態に追い込まれた。
同盟軍の残存部隊の多くは会津へと敗走した。

東北戦争

東北戦争は庄内・秋田地方が主な戦場となった。

久保田藩(秋田藩)は同盟に参加したものの、なおも藩内の意見が不確定だったため、新政府側の鎮撫使総督と同盟側の使者の両者が訪れていた。
7月4日、新政府を支持する久保田藩士が、同盟側仙台藩の使者を殺害し藩論を掌握、同盟を離脱して新政府側へと変節した。
秋田藩は東北での新政府軍の拠点となったが、孤立状態にあり、南から庄内藩、南東から仙台藩、北東から南部藩に侵攻された。
援軍として派遣されていた佐賀藩兵と共同で防衛戦を行うも劣勢で、特に庄内藩には領内深くまで攻め込まれ久保田城の支城までが落とされたが、新政府軍の増援が来着したことで優勢となり反撃を行った。

庄内藩は4月24日、清川口から侵攻してきた新政府軍と戦闘に突入していた。

新政府軍の侵攻を予想して、豪商からの献金で最新鋭の小銃を購入し洋化を進めており、戦術指揮も優秀であったため新政府軍を圧倒。
同盟軍が苦戦していた白河口へ援軍を送ったが、その直後に秋田の久保田藩およびがその周辺の小藩が新政府側へと寝返ったため、白川口へ派遣した部隊を帰還させるとともに、それら新政府側の藩へ侵攻した。
新庄藩を占領し久保田城に迫ったが、他の同盟藩の降伏によって新政府軍の兵力が増強されたため領内へと撤退した。
その後は防衛戦を行い、ほぼ領土を守っていたものの、他の同盟藩が脱落したこともあり9月24日に開城し恭順した。

会津戦争

藩主不在となっていた白河小峰城は要地であり、先んじて同盟軍が占拠していた。
この白河小峰城をめぐり3か月余りも攻防戦(白河口の戦い)が行われ、最終的に新政府軍が占領した。
同盟軍も奪還を試みたが失敗に終わり、白河口へ兵力が集中した隙を衝かれ二本松城も落城し新政府軍は会津へと進行路を確保した。
新政府軍はいくつかの街道のうち、同盟軍の裏をかいて母成峠から侵攻し激戦(母成峠の戦い)が行われた。
新政府軍により同盟軍の防衛線は突破され、会津藩兵および旧幕府軍は若松城に篭城した。
会津藩の劣勢が濃厚となり、東北戦争での趨勢が決した。

8月には米沢藩が降伏。
9月には「旗巻峠の戦い」で敗れた仙台藩が降伏した。
抗戦を続けていた会津藩も新政府に降伏。

庄内藩も9月24日に降伏し、これにより東北戦争は終結した。

箱館戦争

榎本武揚ら一部の旧幕府軍は、8月旧幕府艦隊を率いて江戸を脱出。
仙台港に寄港し、奥羽越列藩同盟の残党勢力及び大鳥圭介・土方歳三等の旧幕府軍を収容し、蝦夷地(北海道)へと向かった。

榎本は箱館の五稜郭などの拠点を占領し、地域政権を打ち立てた(榎本政権(通称、蝦夷共和国))。
榎本らは北方の防衛開拓を名目として旧幕臣政権による蝦夷地支配の追認を求める嘆願書を朝廷に提出したが、新政府はこれを認めず派兵した。

旧幕府軍は松前、江差などを占領するも、要となる開陽丸を座礁沈没させて失い海軍へ兵力は低下、宮古湾海戦を挑んだものの敗れ、新政府軍の蝦夷地への上陸を許す。
5月18日 (旧暦)(同6月27日)、土方歳三は戦死。
榎本武揚らは新政府軍に降伏し戊辰戦争は終結した。

戦後処理

慶応4年5月24日、新政府は徳川慶喜の死一等を減じ、徳川家達に徳川将軍家を相続させ、駿府70万石を下賜することを発表した。

同年(明治元年)12月7日、東北地方と越後の諸藩に対する処分が発表された。
いずれも藩主は死一等を減じられ、一旦封土没収の上、削・転封された。
大きく減封された藩では財政が破綻したため、困窮した藩士の一部は北海道に移住し開拓に携わった。
主な諸藩の処分は次の通りである(括弧内は旧領石高)。

処分をうけた藩

仙台藩 - 28万石に減封(62万石)。
家老6名のうち2名が処刑、さらに2名が切腹させられた。

会津藩 - 陸奥斗南藩3万石に転封(23万石)。
藩主父子は江戸にて永禁固(のち解除)。
家老1人が処刑された。

盛岡藩 - 旧仙台領の白石13万石に転封(20万石)。
家老1名が処刑された。

米沢藩 - 14万石に減封(18万石)。

庄内藩 - 12万石に減封(17万石)。
新政府の重鎮、西郷隆盛によって、寛大な処分がとられた。

山形藩 - 近江国朝日山へ転封、朝日山藩を立藩。
石高は5万石から変わらず。
家臣1名が処刑された。

二本松藩 - 5万石に減封(10万石)

棚倉藩 - 6万石に減封(10万石)

越後長岡藩 - 2万8千石に減封(7万4千石)

請西藩 - 改易(1万石)、藩重臣は死罪。
藩主林忠崇は投獄。
のち赦免されるが士族扱いとなる。
後年、旧藩士らの手弁当による叙勲運動により、養子が他の旧藩主より一段低い男爵に叙任された。
戊辰戦争による除封改易はこの一家のみ。

一関藩 - 2万7000石に減封(3万石)

上山藩 - 2万7000石に減封(3万石)

福島藩 - 三河国重原藩2万8000石へ転封(3万石)

亀田藩 - 1万8000石に減封(2万石)

天童藩 - 1万8000石に減封(2万石)

泉藩 - 1万8000石へ減封(2万石)

湯長谷藩 - 1万4000石へ減封(1万5000石)

下手渡藩 - 旧領である筑後国三池へ転封、三池藩を立藩。
石高は1万石から変わらず。

加増をうけた藩

新庄藩 - 8万3200石(6万8200石)

本庄藩 - 3万石へ加増(2万石)

松前藩 - 3万石へ加増(1万石)

矢島藩 - 1万5200石で立藩(8000石)

久保田藩 - 2万石の賞典録が与えられた(20万石)

弘前藩 - 1万石の賞典禄が与えられた(10万石)

守山藩 - 賞典禄1000両があたえられた。

所領安堵となった藩

八戸藩 - 藩主・南部信順が島津氏の血縁ということもあり、沙汰無しとなったと言われる。

村松藩 - 家老1名が処刑された。

村上藩 - 家老1名が処刑された。

磐城平藩 - 新政府に7万両を献納し、所領安堵となった。

相馬中村藩 - 新政府に1万両を献納し、所領安堵となった。

三春藩

新発田藩

三根山藩

黒川藩

明治2年(1869年)5月、各藩主に代わる「反逆首謀者」として、仙台藩首席家老但木成行、仙台藩江戸詰め家老坂英力、会津藩家老萱野権兵衛、盛岡藩家老楢山佐渡が、東京で極刑の刎首(ふんしゅ)刑(首を刎ねられてさらし首にされる)に処された。
続いて、仙台藩家老玉虫左太夫、同じく仙台藩家老若生文十郎が、切腹させられた。

会津藩と庄内藩の処分については、新政府内においても「厳罰論」と「寛典論」に分かれたが対照的な処分となった。

会津藩に対する処分は厳しく「旧領の猪苗代か新天地の斗南どちらか3万石に転封」というもので、会津藩内での議論の末、斗南を選択している。
斗南は風雪が厳しく実質的には8000石程度で、移住した旧藩士と家族は飢えと寒さで病死者が続出し、日本全国や海外に散る者もいた。

庄内藩に対する処分は、西郷隆盛らによって寛大に行われた。
西郷隆盛の庄内藩に対する対応は巧妙であり、これに感激した庄内の人々は、西郷に対する尊敬の念を深めた。
前庄内藩主酒井忠篤 (庄内藩主)らは西郷の遺訓『南洲翁遺訓』を編纂し、後の西南戦争では西郷軍に元庄内藩士が参加している。

奥羽越列藩同盟政府から新政府に寝返った久保田藩・津軽藩・三春藩は功を労われ、明治2年(1869年)には一応の賞典禄が与えられた。
しかし、いずれも新政府側から他の諸藩と同格とは見なされず恩恵を得られなかった。
この仕置きを不満とした者の数は非常に多く、後に旧秋田藩領では反政府運動が、旧三春藩領では自由民権運動が活発化した。

箱館戦争が終結すると、首謀者の榎本武揚・大鳥圭介・松平太郎らは東京辰の口に投獄されたが、黒田清隆らによる助命運動により、明治5年(1872年)1月に赦免された。
その後、彼らの多くは乞われて新政府に出仕し、新政府の要職に就いた。

大正6年(1917年)9月8日、盛岡において戊辰戦争殉難者50年祭が開かれた。
事実上の祭主としては、盛岡藩家老の家に生まれた政友会総裁原敬が列席し、「戊辰戦役は政見の異同のみ」とした祭文を読み上げ、「賊軍」・「朝敵」の汚名を雪いでいる。

「戊辰戦争で奥羽越列藩同盟が新政府に勝っていれば仙台(周辺)が日本の首都になった」、という「仙台首都説」がある。

これに直接的な関連は無いが、1990年代前半に地方分権法案が審議され日本の遷都が検討された際に、仙台市も首都候補都市として挙げられていた。

遺恨
戊辰戦争では戦争の様々な事柄や理由において、その原因を遺恨と結びつけて説明される事がある。

京都守護職であった会津藩の京都における勤王・倒幕浪士の捕殺や、庄内藩による薩摩藩邸の焼き討ち。
禁門の変による長州藩への「朝敵」指定や長州征討。
会津戦争での新政府軍による暴行・略奪などが各藩の「恨み」の理由として挙げられる。

また実際に、長州藩では官軍に立場が転じると旧幕府側の人間を敵意をこめて「朝敵」と呼称した山県有朋や世良修蔵のような人物が見られ、鹿児島で起きた西南戦争において旧幕府側出身の抜刀隊員達は、賊軍の汚名を晴らすべく「戊辰の仇、戊辰の仇」と叫んで斬り込んでいったとする談話もある。

現在でも会津藩のあった福島県(特に会津若松周辺)では、山口県(長州藩)・鹿児島県(薩摩藩)の人間へのわだかまりがあるという風説もある。

戊辰戦争には様々な遺恨が絡んでいたのは事実であるが、真実が定かではない事柄までも怨恨と結びつけた主張や、事実の捏造がなされている場合もある。

[English Translation]