応永の外寇 (Oei Invasion)

応永の外寇(おうえいのがいこう、朝鮮では己亥東征と称す)とは、日本史の時代区分では室町時代の1419年(応永26年)に起きた、李氏朝鮮軍による対馬国襲撃をさす。
対馬の糠岳(ぬかだけ)で戦闘が行われた事から糠岳戦争とも。

事件の推移
背景
14世紀前後の北九州から朝鮮半島、中国沿岸などでは日本人、中国人や朝鮮民族らの多民族構成とする倭寇(前期倭寇)が活発化し、日朝貿易においては朝貢貿易に加えて民間貿易も許可されていたため、東アジアの海上世界は民族雑居状態が存在していた。

倭寇の中心的活動の一つで拠点であった前期倭寇当時の朝鮮半島は李氏朝鮮が成立直後であった事もあり、自立的な治安維持能力が不足し倭寇活動を抑制する事が困難であった。
そこで李氏朝鮮は高麗時代からの民族雑居状態の解消と、官営貿易で利益を独占する事を望み、室町幕府や九州探題、対馬の実質的な支配者である宗貞茂に対して倭寇および私貿易の取締りを要求した。

しかし、倭寇の取り締まりを積極的に行っていた宗貞茂が1417年9月、病に倒れ翌1418年4月に病没し、宗貞盛が跡目を継ぐと、若年の当主のため対馬の周辺海域の警察力が弱体化し、活動を抑制されていた倭寇は再び活発化し、日本や朝鮮で多大な被害が出ていた。

軍事行動
李氏朝鮮では前年に世宗 (朝鮮王)が即位していたが、実権は太宗 (朝鮮王)が握っており、太宗は倭寇撃退を名目にした対馬遠征を決め、永楽17年(西暦1419年)6月、李従茂率いる227隻、17,285名の軍勢を対馬に侵攻させた。
この時期は対馬の有力者が明などに渡航し不在であることを知り、また同時に朝鮮国内の在留商人らを一斉に抑留するなど、防備の弱体に乗じ一般民衆を標的にした周到な計画であったことが知られる。
また、太宗は号令の中で「古書によれば対馬は慶尚道に隷属する」と根拠に欠ける主張を掲げた。
6月17日に巨済島を出航したが逆風ですぐに引き返し、6月19日に再出航している。
朝鮮軍は6月20日昼頃に対馬の尾崎浦(朝鮮王朝実録には豆知浦とある)附近へ上陸。
一帯の一般船舶129隻を焼き払い20隻を奪い、民家1939戸を焼き払い、また104(実録には首級114)の島民を殺害したとされる。
しかし6月26日頃には、仁位郡(実録では尼老郡)で対馬側の伏兵に遭い多大な損害を受け、李従茂の軍は尾崎浦まで退却、戦局は膠着状態に陥った。
6月29日に朝鮮側は宗氏に対して対馬の属州化などを要求する使者を送るが宗氏に拒絶された。

戦況は対馬側の反撃により膠着し、損害の大きくなった朝鮮側は対馬側の和平提案を受け入れ7月3日に巨済島へ全面撤退した。
朝鮮側の被害は日本の資料では死傷者2500以上、世宗実録ではの記録では死者百数十人、の記録では180人とされている。
しかし総数の1%程度の被害で和平を受け入れるとは考えにくく、敗戦と自ら明記していることからも、実際の被害はもっと多かったと思われる。
8月5日の記録では日本の戦死者20人に対し朝鮮側が百余名とされており、正規軍での対戦では朝鮮軍は日本軍に歯が立たなかった。
このような弱小ぶりは、保護された中国人の扱いにおいて「対馬での朝鮮軍の弱小ぶりを詳細に見たことから中国に返還できない」というや、朴実が敗戦の罪により投獄され、李従茂が国民への影響を理由に免罪となった事からも窺える。

また7月3日の黄海道沖に中国からの倭寇数十隻が沿岸を荒らし回っていると言う報告を受け、これを口実にした対馬再征も検討されたが実行されなかった。

翌年には日本と和解し、回礼使として宋希璟が派遣された。

この事件により対馬や北九州の諸大名の取り締まりが厳しくなり、倭寇の帰化などの懐柔策を行ったため、前期倭寇は衰退していく。
なお、この事件の報が日本本土に伝わった際、元寇の再来との憶測が流れた。
そのため、室町幕府は事実究明のため朝鮮へ使者を送り、その真偽を確かめさせた。

清の徐継畭の『瀛環志略』や李氏朝鮮の安鼎福の『東史綱目』には、倭寇の原因は日本に対する侵略行為(元寇)を行った高麗(朝鮮)への報復である、と記述されており、応永の外寇以前の前期倭寇は局地的な奪還・復讐戦であるとして『倭寇』と呼ばず、これ以降の後期倭寇を『倭寇』と考える説もある。

韓国人による対馬領有権主張との関連

2005年(平成17年)6月17日、大韓民国慶尚南道馬山市では、毎年6月19日を『対馬の日』とする条例が宣布され、400人以上の市民が参加し『宣布式』が催された。
突然の報に日本と韓国政府は驚きを見せたが、直前に島根県が制定した『竹島の日』への報復的な意味合いがあったと見られる。
日本は相手にせず、韓国政府は馬山市に対して撤回を求めた。
6月19日は、『討伐軍』が馬山浦から出航した日である。

韓国人の間では、対馬は朝鮮王朝の属国であり、韓国に領有権があるとの主張がなされることがあるが、その根拠の一つに、応永の外寇における対馬への『倭寇討伐』が上げられている。
だがこの遠征は倭寇制圧を目的とした侵攻に過ぎず、対馬の属州化要求も対馬が朝鮮の形式的な『外藩』であることを再確認させ倭寇を禁圧させるためのもので、恒久的な属国化を図る朝鮮側の意思は見出しがたい。
また朝鮮軍は戦線膠着のため撤退し、その後の交渉で合意・実現に至ったのも倭寇の取り締まりであり、この遠征を理由に対馬を朝鮮の属国と見做すことは非常に論拠が薄い。
この史実との矛盾点に対し、馬山市の正式な解釈は示されていない。
2006年9月17日、韓国軍の戦史編纂研究所は、李氏朝鮮までの軍事戦略を分析した資料3冊を発刊し、うち「朝鮮時代の軍事戦略」編で応永の外寇の分析を行った。
それによると、軍事的には『討伐』には失敗したが、「対馬は土地が不毛で生活が苦しい。
島民を巨済島などに住まわせ、対馬を朝鮮領土と見なして州郡の名称と印信を賜れば、我々は適切に臣下の礼をもって命令に従う。
」との降伏文書を出させたとし、政治・外交的には成功したと結論付けた。
1420年7月、李氏朝鮮が宗氏に「宗氏 都都雄瓦」という印信を授け、対馬領主としての地位を認たことは失敗であり、その時に李氏朝鮮が対馬の自治権を認めず、役人を派遣して直接支配下に組み込んでいれば、現在の対馬は韓国領になっていたはずだと結論付けた(2006年9月17日聯合ニュース配信)。

世宗実録で自ら敗戦と明記していることや、『世宗実録』1420年閏1月10日には「時応界都が言うには(曰)」と記録されており、上記の降伏文書にあたるものは見あたらない。
更に時応界都(辛戒道)は偽使者とされており、1421年4月7日に正式な宗氏の使者である仇安里が「時応界都(辛戒道)の言ったことは妄言である。対馬を攻めるのは日本を攻めるのと同じだ」と強く否定している。
また、日本に派遣された朝鮮の回礼使の宋希璟は「日本国王が喜ぶと思ってやったこと」と釈明しており、外交的にも失敗だったと考えられる。
戦史編纂研究所の分析は、世宗実録の敗戦記述を無視して偽使者の言葉のみを取り上げており、意図的に史料を歪曲して解釈している疑いがある。
また、2007年7月13日には、金成萬(キム・ソンマン)前海軍作戦司令官(予備役海軍中将)が、Korean National Security Netで日本の防衛白書の竹島 (島根県)領有問題の記載に対しての反論および、対馬侵略計画を作成するよう主張している。
2008年には韓国国会議員50名による対馬島返還要求決議案が韓国国会に提出され、韓国国民の50%が支持している。

[English Translation]