幼学綱要 (Yogaku Koyo (Principles of Early Education))

『幼学綱要』(ようがくこうよう)とは、明治天皇の勅令を受けた侍講元田永孚によって編纂され、1882年12月2日に宮内省より頒布された勅撰修身書。
歴史学・教育学の分野においては、教育勅語の原点をここに求める説が通説とされている。

内容

元田は児童が知識を与えられる前に仁義忠孝の徳目をその頭脳に確然と刻印させることが真の教育であるとする。
そのためには徳目の大意や四書五経の語句を暗誦出来るまでに徹底した反復させる必要があるとして、その考え方を強く反映させた内容となっている。

沿革

1879年に明治天皇が啓蒙主義を批判して仁義忠孝を中心とした儒教主義を公教育の中心とすべきとする教学聖旨を公布したが、その実際の執筆者が元田であった。
これに対して伊藤博文は「教育議」を提出して反論を行い、伊藤を中心とする太政官(及び文部省)と元田を中心とする宮内省(及びその教説の信奉者であった明治天皇)との対立を招いた。

これに対して天皇は改めて元田に対して幼少の児童に仁義忠孝の道徳を明らかにするための教訓書を編纂すべしとする命令が下された。
元田は高崎正風・仙石政固らとともに編纂作業を行い1881年夏に一応の完成を見たものの、西洋の事例を取り上げるかで議論が分かれた。
最終的に元田の修訂によって完成されて、松本楓湖の図画を添えて印刷頒布された。
(以上の経緯から、当時の太政官は編纂・頒布過程には関わっていない)。

まず、地方官会議に参加するために上京した地方官に勅諭を付して下賜された。
続いて皇族以下奏任官以上及び官公立学校には願出により下賜、私立学校には実費徴収の上で下付されることになっていた。
その結果、翌1882年から6年間で下賜約32,000部・下付約8,600部の計約41,000部が頒布された。
しかし、実際の教育現場では「天皇陛下から賜ったものを授業で汚すなど畏れ多い」という理由で少数部が桐箱に納められて厳重に保管されて校長などわずかな人物しか見ることが許されないという極めて厳重な取り扱い方を受けた(もちろん、そのような趣旨で頒布された訳ではない)。

さらに啓蒙主義者であった森有礼が文部大臣に就任したことで下賜・下付希望が減少し、1887年に版権が宮内省から吉川弘文館に移されて翌年に下賜・下付が停止された。
昭和に入ると、国家主義の高まりとともに新版本・解説書が刊行されて教育勅語の補完を目的として採用された。

[English Translation]