幕府陸軍 (Bakufu rikugun (bakufu [Japanese feudal government headed by a shogun] army))

幕府陸軍(ばくふりくぐん)とは、幕末に江戸幕府が編成した陸上戦闘を任務とした西洋式軍備の軍事組織である。
文久2年(1862年)、幕府の軍制改革で対外防衛と国内体制維持を目的として創設された。
長州征討や天狗党の乱などで実戦を経験した。
大政奉還により幕府が消滅した後も所属部隊の多くが戊辰戦争で戦闘を続けた。

沿革
前史
江戸幕府は、直轄の軍事力としては、旗本や御家人からなる戦国時代以来の体制を続けてきた。
これらの旗本などにより小姓組・大番などの伝統的な軍事組織を構成していた。
だが、長期の平和の中で形骸化が進んでいた。
アヘン戦争の情報などから次第に危機感を覚えた幕府は、高島秋帆や江川英龍らを砲術師範などに登用して西洋式軍備の研究を開始した。

黒船来航後の安政元年(1854年)には、老中の阿部正弘による改革で軍制改正掛が置かれた。
軍制改正掛の検討で、旗本・御家人の子弟を対象とした武芸訓練機関である講武場(後に講武所)の設置が決まった。
安政3年(1856年)4月に開場された講武所では、古来の剣術などだけでなく、西洋式の砲術や戦術学の研究も行われた。
また講武所には、教導部隊ともいうべき一定の実戦力も期待された。
後に奥詰と呼ばれる将軍の警護要員も整備された。
さらに講武所の設置と前後して、安政2年(1855年)9月には徒士、安政3年(1856年)1月には小十人に対して砲術師範の江川英敏への入門が義務付けされ、洋式銃砲の訓練が始められた。
この徒組等への訓練は、講武所設置後には、その中の砲術習練所へと移って続けられた。
安政5年(1858年)には、深川越中島に銃隊調練所が建設された。

しかし、井伊直弼が大老に就任すると、西洋式軍備の導入は停滞してしまった。

文久の軍制改革
桜田門外の変の後、文久2年(1862年)に、文久の改革の一環として本格的な西洋式軍隊である「陸軍」の創設がされた。
陸軍奉行を長として、その下に歩兵奉行3人と騎兵奉行を置き、歩兵・騎兵・砲兵の三兵戦術を導入した。
ただし、こうして誕生した陸軍はあくまで従来の軍制と並立する組織であった。

歩兵は、横隊などを組む戦列歩兵に該当する「歩兵」と、軽歩兵に該当する「撒兵(さっぺい)」に分類された。
うち歩兵隊は、旗本から禄高に応じて供出させた兵賦(へいふ)と称する人員から構成された。
歩兵隊の兵賦は江戸に設けられた駐屯地に入営し、給与だけは各旗本が個別に支給する方式が取られた。
他方の撒兵隊は御目見以下の小普請組などの御家人から構成され、慶応2年(1866年)までは御持小筒組と称した。
騎兵は与力や旗本である御目見以上の小普請組から、砲兵は同心から編成された。
各部隊の士官は旗本やその子弟をあてることとした。

天狗党の乱や長州征討へ実戦投入されている。

慶応の軍制改革
第二次長州征討の敗戦後、慶応2年(1866年)8月以降、将軍徳川慶喜の下で再び大規模な軍制改革が行われた。
幕府中枢への総裁江戸幕府の総裁(老中)制度導入により陸軍局が設置され、従来の陸軍組織の上に乗るかたちで老中格の陸軍総裁が置かれた。
そして、幕府直轄の軍事組織の一元化が進められ、大番などの旧来型組織は解体ないし縮小された。
余剰人員のうち優秀な者が親衛隊的な性格の奥詰銃隊や遊撃隊(奥詰の後身)などとして陸軍へと編入された。
講武所も陸軍に編入され、研究機関である陸軍所となった。
すでに一定の洋式化が進んでいた八王子千人同心も編入され、八王子千人隊と改称されている。
組織の拡大にあわせて、陸軍奉行の若年寄格への昇格、歩兵奉行並や撒兵奉行並の設置など指揮系統も整備された。

築造兵と称した工兵隊、天領の農民で組織した御料兵の編成もされた。
また、シャルル・シャノワーヌ大尉らフランス軍事顧問団による直接指導も導入され、その訓練を受ける伝習隊が新規に編成された。

兵員調達の方法も改正された。
従来の兵賦による歩兵隊のほか、旗本に禄高ごとに銃隊を整備させて、数家分を組み合わせて小隊や大隊級の銃隊を編成する組合銃隊の制度も施行された。
組合銃隊用の兵員は、歩兵隊とは異なり、平時は各旗本の屋敷に待機することとされていた。
しかし、翌1866年1月に、兵賦については金納をもって替え、その資金で幕府が直接に雇用する形態となった(幕府歩兵隊の傭兵化)。
さらに同年9月に組合銃隊についても、幕府の財政事情などから金納による歩兵隊へと変更された。
旗本の軍役は金納のみとなった。
各旗本は貢租の半額を拠出することとされた。

最終時点で、幕府陸軍は歩兵隊8個連隊(一橋徳川家の播磨領で第16連隊が編成されて、計9個連隊であるとも言われる。)と伝習歩兵隊3個大隊を中核に、日本最大の西洋式軍事組織となっていた。

大政奉還後
大政奉還後に鳥羽・伏見の戦いが発生した。
この戦闘には歩兵隊や伝習隊など多数が動員されたが、敗北した。
その後、一部は明治新政府に帰順した。
一部は部隊規模で脱走し、戊辰戦争では各地で戦闘を繰り広げた。
他方、帰順した部隊が新政府軍に編入された例もあった。

戦歴
天狗党の乱
- 初陣。

長州征討
- 歩兵隊4個大隊,砲兵組,御持小筒組などが参陣。

鳥羽・伏見の戦い
野州梁田の戦い:古屋佐久左衛門率いる脱走部隊(衝鋒隊)が新政府軍(東山道軍)に大敗。

北関東の戦い:大鳥圭介率いる脱走部隊(伝習隊など)が、小山・宇都宮城、今市、藤原など各地で新政府軍と戦う(宇都宮城の戦い)。

北越戦争:衝鋒隊が参加。

会津戦争:大鳥軍、衝鋒隊、共に新政府軍と戦う。
母成峠の戦いで大敗。

五稜郭の戦い
- 歩兵隊を再編した衝鋒隊や伝習歩兵隊,伝習士官隊など。

教育
当初はオランダ陸軍の操典類の翻訳による教育が中心だった。
海軍伝習に訪れたオランダ海軍の教師団のうちの海兵隊員らから、歩兵戦闘や隊員の指導を受けたこともあった。

次いで、1864年には一部でイギリス式の教育も導入された。
横浜市駐留のイギリス軍から、神奈川奉行所の下番などが指導を受け、合同演習も行った。
神奈川奉行所からは、窪田鎮章や古屋佐久左衛門のように後に幕府陸軍の歩兵隊士官となった者も多かった。
兵士である下番も歩兵隊に改編されて箱館の警備部隊として配置されるなどした。
(このため、「幕府海軍=イギリス式、陸軍=フランス式」と単純に解釈するのは誤りである。)
(なお、幕府以外では紀州藩陸軍のようにプロシア陸軍から影響を受けた藩もあった)。

最終的にフランス軍事顧問団による教育が行われることになり、1866年に伝習隊の編成が行われた。
翌年にシャノワーヌ大尉以下が着任し、はじめは横浜の太田陣屋で、数ヵ月後に江戸へ移って伝習が開始された。
6月には14~19歳の旗本子弟志願者を対象に士官教育も開始されている。
フランス人教官の不足から、伝習隊の一部は日本人教官による指導を受けていた。

編制
歩兵隊については、2個大隊(各10個小隊)からなる連隊が最大の編成単位であった。
それ以外の伝習隊や撒兵隊などの多くは大隊を最大単位とした。
2個小隊からなる中隊編制が用いられることもあった。
砲兵については「座」(砲8門)という単位が用いられていた。

[English Translation]