幕府海軍 (Bakufu kaigun (navy))

幕府海軍(ばくふかいぐん)とは、江戸幕府が設置した、海上戦闘を任務とした西洋式軍備の海軍である。
長州征討などで活動し、江戸幕府が大政奉還で消滅した後も戊辰戦争において榎本武揚に率いられ戦闘を続けた。

沿革

異国船の来航が頻繁になったことに伴い、弘化2年(1845年)、老中・阿部正弘は海岸防禦御用掛(海防掛)を設置し軍制改革を実施した。
しかし、海防策では海防組織に農兵隊を編成するなどの内容であり、諸外国の圧力に抗するには不十分であった。
嘉永6年(1853年)に幕府は「大船建造禁令」を解除し、諸藩に軍艦建造を奨励した。

黒船来航後の安政1年(1854年)、阿部政弘は大久保一翁(一翁)を海防掛目付に登用した。
大久保は勝海舟の海防意見書に着目した。
その内容は海軍の創設と、そのための軍艦購入と、海軍生養成の提言である。
幕府はこの提言を採用し海軍創設に乗り出した。

安政2年(1855年)7月、幕府はオランダから寄贈を受けた蒸気船「観光丸」を練習艦とし、オランダ海軍から派遣されたヘルハルト・ペルス・ライケン大尉以下22名を教官とする長崎海軍伝習所を開設した。
所在地は長崎奉行西役所(外浦町、現・長崎市江戸町の長崎県庁舎所在地)。
伝習諸取締に永井尚志が任命され、伝習生から総督(学生監督)に矢田堀鴻、永持亨次郎、勝海舟が選ばれた。

安政4年(1857年)3月、永井尚志と105名の生徒は「観光丸」で長崎を出港し、神奈川に入港した。
同年7月(旧暦)、彼らと「観光丸」によって築地講武所内に軍艦教授所が開設された。
勝海舟は長崎に残り、幕府がオランダに発注した「ヤパン号」(咸臨丸)と、それに同乗するヴィレム・ホイセン・ファン・カッテンディーケを団長とする36名の第二次教師団を待つことになった。
「ヤパン号」は同年9月(旧暦)に到着し、江戸からの27名の第2期伝習生を迎えた。
長崎伝習所は安政6年(1859年)に閉鎖された。
また、同年に軍艦奉行の役職が新設された。

安政7年(1860年)1月、日米修好通商条約の批准書を交換するため遣米使節団一行を乗せアメリカ軍艦「ポーハタン号」(USS Powhatan (1850))にて太平洋を横断した。
「咸臨丸」も副使・木村芥舟、教授方取扱(艦長格)・勝海舟、ブルック大尉(enJohn Mercer Brooke)以下アメリカ海軍軍人11名などを乗せて出航し、日本人乗組員の遠洋航海実習、アメリカ海軍の実情視察という成果を上げた。

文久の軍制改革

文久 1年(1861年)5月、軍制改革を推進するため10名の軍制掛が任命された。
海軍に関しては軍制掛の一人である軍艦奉行・木村摂津守を中心に改革の計画立案が行われた。
同年6月(旧暦)、軍艦組が設置され、軍艦頭取に矢田堀鴻、小野友五郎、伴鉄太郎が任命された。
後に荒井郁之助、肥田浜五郎、木下(伊沢)謹吾らが軍艦頭取に加えられた。
文久2年(1862年)7月、船手組が、同年8月(旧暦)、小普請組288名が軍艦組に編入された。

文久2年(1862年)に国産蒸気船「千代田形丸」の建造を開始。
さらに、留学生のオランダ派遣、軍艦の海外発注(アメリカ「富士山 (軍艦)」「東艦」、オランダ「開陽丸」)を実施した。

文久2年閏8月、艦船370艘、乗員61,205人という海軍大拡張計画が提案されたが、採択されることはなかった。

慶応の軍制改革

第二次長州征討の敗戦後の慶応2年(1866年)8月以降、将軍徳川慶喜の下で再び大規模な軍制改革が行われた。
幕府中枢への総裁江戸幕府の総裁制度導入により海軍局が設置され、従来の海軍組織の上に乗るかたちで老中格の海軍総裁が置かれた。
また、軍艦奉行の上に海軍奉行が新設された。
海軍階級俸給制度を確立し、服章の規定を定めた。

大政奉還後

大政奉還後に鳥羽・伏見の戦いが発生した。
開戦直後、旧幕府海軍は大坂の天保山沖に停泊していた。
鳥羽伏見の戦いで旧幕府軍が敗北すると、大坂城にいた徳川慶喜らは、主戦派の幕臣に無断で旗艦「開陽丸」に乗って江戸へ引き揚げたため、江戸に移った。

新政府軍が江戸を占領すると、徳川家に対する政府の処置を不満とする榎本武揚ら抗戦派の旧幕臣に率いられ、開陽丸、回天丸、蟠竜丸、千代田形丸は、遊撃隊など陸軍兵を乗せた運送船4隻(咸臨丸・長鯨丸・神速丸・美賀保丸)を加えて品川沖を脱走。
新選組や奥羽列藩同盟軍、松平定敬らを収容し蝦夷地(北海道)に逃走した。
榎本らは箱館の五稜郭に拠り、蝦夷共和国を設立した。
翌、明治2年(1869年)、箱館戦争に敗北し、残された所属艦船は新政府に引き渡された。

戦歴

長州征討
阿波沖海戦
- 宮古湾海戦
- 箱館湾海戦

[English Translation]