川勝氏 (Kawakatsu Clan)

川勝氏(かわかつし、かわかつうじ)は、日本の氏族のひとつ。
本姓は秦氏。
秦河勝の後裔と伝えられるが、その系譜は必ずしも明確ではない。
分家も少なくないが、江戸幕府の幕臣川勝氏がよく知られている。
家紋は、桐に鳳凰、釘抜、五七桐、五三桐など。
通し字は、それぞれ「広」、「隆」、「氏」(家紋、通し字とも幕臣川勝氏)。

経歴

戦国時代 (日本)、丹波国桑田郡下田の国人領主(美作守)であった下田広氏の嫡男、川勝広継(光照)のとき川勝を称したのが始まりだという。
家伝によれば、下田美作守広氏は秦河勝(広隆)の嫡流とされる。
川勝氏(下田氏)は桑田郡・船井郡内を知行し、室町幕府に仕えてきた。
先の応仁の乱では、幕府の管領を務めた細川勝元に従って、他の国人衆とともに合戦に参加した。
川勝広継は12代将軍足利義晴、13代将軍足利義輝に仕え、北桑田郡美山町静原の島城を本城とし、八木の守護代内藤氏、京北の宇津氏、篠山の波多野氏など、丹波の武将と対峙した。

広継の嫡男川勝継氏は織田信長に従い、天正元年(1573年)、信長の命を受けた細川幽斎に従って、山城国の淀古城攻め(淀古城第二次淀古城の戦い)に参加した。
また、天正4年(1576年)からの明智光秀の丹波攻略には与力となって協力した。
継氏の嫡男川勝秀氏は豊臣秀吉に仕え、秀吉の馬廻を務めて、天正10年(1582年)、丹波国何鹿郡内に3,535石を与えられた。
また、文禄元年(1592年)からの文禄・慶長の役では、肥前国名護屋城に在陣した。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、嫡男川勝広綱とともに西軍に与して丹後国田辺城 (丹後国)攻撃(田辺城の戦い)に参加した。
しかし、秀氏父子は徳川家康に赦されて、改易を免れることができた。
慶長6年(1601年)、室町時代以来の丹波の旧族、細川忠興の推挙により召し出され、秀氏は旗本家を興した。

慶長12年(1607年)、広綱は父秀氏の家督を継いだ(知行は丹波内3,570石余)。
江戸時代には、秀氏・広綱に始まる旗本の川勝家(本家)の他に、広継の嫡男の川勝継氏の系統からは3家の旗本家が出ている(系譜1)。
また、広継の二男の川勝知氏の系統からも4家の旗本家が出ている(系譜2)。
これら旗本家は、若年寄、大目付、勘定奉行、外国奉行、外国(事務)副総裁、開成所総奉行などを務めた幕臣を、主に幕末に輩出した。
明治元年(1868年)の江戸開城に際して、川勝広運は同年正月23日より若年寄を務めた。
また、外国奉行であった川勝広道は同年2月6日、外国(事務)総裁山口直毅のもとで外国(事務)副総裁となった。
幕臣以外にも、八戸藩、棚倉藩、八幡藩そして忍藩などに、川勝氏が存した。
各々の藩において、川勝氏は家老等の要職を務めた。

[English Translation]