山国隊 (Yamagunitai)

山国隊(やまぐにたい)は、幕末期に丹波国桑田郡山国郷(現京都市右京区京北町)で結成された農兵隊。
因幡鳥取藩に付属し官軍に加わって戊辰戦争を戦った。
京都時代祭行列で維新勤王隊列の鼓笛隊としても知られる。

山国隊はフランス式教練を受け、銃の射撃精度は山村の猟で慣らしていたため非常に優れていた。
また関東を行軍中、彼らの熊毛の陣笠姿を見て河童隊と呼んだ人がいたというエピソードがある。

結成

平安京造都の木材を供給した伝承をもつ山国郷は古くより皇室との関係が深く、山国一円は太閤検地まで禁裏直轄の荘園であった。
しかし幕末には禁裏御料は郷内の半分ほどで、村々の所領関係が異なることは、山国の諸村が一体となり山国神社の宮座を堅持していく上で問題も多かった。
そこで名主仲間(宮座仲間)は、かつての荘園「山国庄」の時代と同様に天皇から正式に官位を授かることなどで地域の一円禁裏御料化を目指し、宮座の結束強化をはかっていた。

このような状況のなか、慶応4年(1868年)1月3日に鳥羽・伏見の戦いが始まった。
間もなく山陰道鎮撫総督西園寺公望から丹波に王政復古(日本)の募兵があり、前年末頃から御所警備などの勤王奉仕策を練っていた山国では、平安時代以来の皇室との関係と郷中復古(禁裏御料回復)の願いから、直ちにこれに応じて自弁による農兵隊が結成された。

農兵隊には荘園時代の古例により四沙汰人を置き、第一陣「西軍」・第二陣「東軍」の2軍が目的別に編成され、両軍が慶応4年1月11日山国神社に集結し出陣した。

西軍 (隊士64人客士12人、沙汰人:水口備前守・藤野近江守)
山陰道の西園寺との合流を目指したが、道中でこの方面が既に平定されていたことが判明した。
しかし鳥取藩の伊王野治郎左衛門(後の久美浜県知事)の仲介もあって、岩倉具視から鳥取藩に付属し「山国隊」と称するようにとの指示を受けることができ、山国隊が誕生した。

東軍 (隊士27人、沙汰人:鳥居河内守・河原林大和守)
大坂の征討大将軍仁和寺宮の陣に合流を目指したが上手くいかず、更に「親兵組」と称し御親兵として御所警衛にあたることに拘ったが最後まで不調のまま終った。

京都出陣と東征

東征大総督有栖川宮熾仁親王の京都出陣に伴い、山国隊に1小隊東征の指令が下った。
慶応4年2月13日、山国隊の1個小隊(隊士28人客士2人)が東山道軍の鳥取藩部隊に加わり、「十三番隊」として京都を出発した。
残りの隊士は京都で御所警備などにあたった。

(東征の詳細は年表を参照。)

山国凱旋

明治2年2月18日、山国隊は大勢の見物人・出迎えのなか、鼓笛を奏して京都から山国への凱旋を果たし山国神社を参拝した。
2月25日には死者の慰霊祭を行ない、辻村に招魂場(今の山国護国神社)を設けた。

最終的に山国隊はその活躍とともに、戦死4人(行方不明1人含)、病死3人という多大な犠牲を出した。
また新兵組とともに軍費自弁のためにできた膨大な借金は名主仲間共有の山林を売り払うなどして賄われ、肝心の宮座は維新後間もなく消滅してしまった。
しかしこれ以来山国隊は郷土の誇りとされ、山国神社の還幸祭と京都時代祭では山国隊姿の行進を見ることができる。

年表

慶応4年(明治元年)
1月18日 岩倉具視の指示で山国隊が誕生。

2月13日 山国隊1個小隊が京都を出陣。

2月15日 補充6人が合流。
隊士34人となる。

2月20日 美濃大垣で戦場に臨む決意を示す血判書を作成。

3月3日 鳥取藩内参謀の河田左久馬が山国隊隊長を兼務。

3月6日 甲州勝沼の戦いに加戦。

3月9日 ゲベール銃に換えてミニエー銃を付与される。

3月19日 江戸入り。

3月24日 隊士に「魁」(さきがけ)の文字を冠した熊毛の陣笠配布。

4月22日 野州安塚の戦いで激戦。
戦死2人 負傷5人 行方不明1人

閏4月25日 江戸に凱旋。
錦の御旗の警衛を任される。

5月15日 上野戦争で彰義隊と交戦。
戦死1人 負傷4人

6月28日 隊士9人が隊長と奥州へ向け江戸を出陣。

7月3日 常陸平潟に上陸。

8月7日 相馬中村城に入城。

9月12日 隊士3人が隊長と残り、6人は東京(江戸)に帰営。

9月21日 亘理城に入城。

10月1日 仙台城に入城。

10月21日 隊士3人が隊長と東京に帰営。

11月5日 有栖川宮の凱旋に随伴して東京出発。
(錦旗警衛)

11月25日 有栖川宮とともに京都凱旋。
帰洛。
(錦旗警衛)

[English Translation]