如意ケ嶽の戦い (Battle of Nyoigatake)

如意ケ嶽の戦い(にょいがたけのたたかい)は、永正6年(1509年)6月17日の夜半に京都市左京区の如意ケ嶽周辺で行われた戦い。
大規模な戦闘になったのか、京都への再侵攻を試みたのか、阿波国への帰着の突破を計ろうとしたのかは不明。
地図などによると如意ケ谷と記載されることもある。

開戦までの経緯

永正の錯乱で細川澄元や三好之長は一旦近江国の甲賀に引いたが、すぐさま京に侵攻し細川澄之派をことごとく討ち取った。

このような混乱に乗じて、明応の政変で追われた前征夷大将軍足利義稙が大内義興を頼って上洛しようとしていた。
この動きを察知した細川澄元は祖父である細川成之や細川高国に頼んで、大内義興らと和睦しようと画策していた。
しかし細川高国は逆に大内義興らと気脈を通じ、永正5年(1508年)3月17日伊勢参宮と称して京都を脱出、伊賀国守護の仁木高長に身を寄せるという大事件がおきた。

同年4月9日、摂津国の主だった国衆達は細川高国方につき、また大内義興軍が接近しつつある情勢を不利と読んだ細川澄元や三好之長は、自らの屋敷に火を放ち再び近江国に落ち延びた。

翌4月10日細川高国は入京、同年6月9日足利義稙は堺から入洛し、同年7月1日に再び将軍職につき、細川高国には管領職を大内義興には管領代職にそれぞれ任じられた。

その後、摂津国の国衆で細川澄元派であった池田貞政は討死、阿波国に逃れたようとした芥川豊後守も台風で遭難、近江国からだと徴兵もままならず、細川澄元は八方ふさがりの状態に陥っていた。

戦いの状況

この状況を打開するため細川澄元、三好之長軍は、翌永正6年(1509年)6月に琵琶湖を渡り、小関越から同6月17日に如意ケ嶽に3千名で陣をひいた。
これに対して細川高国、大内義興連合軍は2万-3万兵で如意ケ嶽を取り込むように陣をひいた。

その後戦闘状態に突入したが、夜半から大雨がふり出し細川澄元、三好之長らは雨音にまぎれて阿波国へ落ち延びていった。

戦後の影響

細川澄元、三好之長らは京都奪還はならず失敗に終わった。

また永正5年(1508年)4月10日細川高国が入京時期に、逆に足利義澄は京から落ち延びて九里氏を頼って近江岡山城に落ち延びたが、同年10月2日に細川高国と大内義興は追討軍を差し向け岡山城の戦いに続く。

別説

この戦いは大きな戦闘は無かったのではないか、という説もある。
細川澄元、三好之長軍は3千名前後しかおらず、この戦力で京都奪還を目指すというのは、戦上手である三好之長が立案するとは考えにくく、戦局の打開、阿波国へ逃げ帰る事が目的であったとも思われている

また、『実隆公記』によると「夜大雨になったのを利用して走った」という記述を見受けられるため、両陣営は対峙したが、夜陰の大雨にまぎれて逃げ去ったという説もある
ただ、公家日記によると京都周辺で落武者狩りが行われ、60名前後が捕縛、処刑されたとあるので、小規模な戦闘はあったと思われている
この戦い後、三好之長の子三好長秀は父と別れ伊勢国に逃亡したが、細川高国が手を回し宇治山田で最後をとげたと言われている
また、多くの文献でこの如意ケ嶽の戦いで細川澄元は阿波国へ落ち延びていったという記述が見受けられるが、10月2日の岡山城の戦いで落ち延びたという説もある

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