奴婢 (Nuhi (slave))

奴婢(ぬひ)は、律令制における、良民(自由民)に対する賤民(自由のない民)の中の位置づけの一つであり、奴隷階級に相当する。
奴は、男性の奴隷。
婢は女性の奴隷を意味する。

奴婢は、一般的に職業の選択の自由、家族を持つ自由、居住の自由などが制限されており、一定の年齢に達したり、その他の条件で解放される場合もあった。
しかしながら基本的には家畜と同じ扱いであり、市場などで取引されていた。

中国の奴婢制度
奴婢制度そのものは、律令制によって正式に国家の制度に取り込まれるが、それ以前からも良民と賤民は区別されており、賤民はさまざまな制限を受けていた。
賤民は大きく奴婢とその他に分けられ、その中でも国が保有する官奴婢と個人が所有する私奴婢に分けられる。

秦・前漢代においては、官奴婢は戦争捕虜や重罪を犯した氏族が中核を占めており主に官営工場の労働や牧場などでの馬・鳥・犬などの飼育を行っていた。
一方、私奴婢は、破産農民などでしめられており、地方の大地主の元で農作業やその他の雑務に従事していることが多かった。

北魏・隋・唐代では、律令制に組み込まれ、私奴婢は主人の管理下にあり、その主人を訴える事ができないなどと定められていた。

明・清代にも奴婢は残っていたが、基本的に私奴婢が中心であり徐々に廃れていった。
しかしながら19世紀には、代わりとも言える苦力が現れた。
これらの制度は中華人民共和国の成立で正式に廃止される。

日本の奴婢制度
日本における奴婢制度は、隋・唐の律令制を取り入れる時に日本式に改良して導入したものである。

奴婢自体は、三国志 (歴史書)魏志倭人伝に卑弥呼が亡くなったとき100人以上の奴婢を一緒に殉葬したと言う記述や、生口と呼ばれる奴隷(または捕虜。異説もある)を魏 (三国)に朝貢したと言う記述が見られるように、少なくとも邪馬台国の時代には既に奴婢は存在していた。
これらの古代から存在していた奴婢を、律令制を取り入れるときに整理しなおしたものが、日本の奴婢制度だと思われる。

律令制における賤民は、五色の賎(ごしきのせん)と呼ばれ五段階のランクに分けられていた。
その中で最下級に置かれたのが奴婢である。
奴婢は、大きく、公奴婢(くぬひ)と私奴婢に分けることが出来た。
日本の律令制下における奴婢の割合は、人口の5%前後だと言われている。

公奴婢は朝廷に仕え、雑務に従事していた。
66を過ぎると官戸に組み込まれ、76を越えると良民として解放されたようである。

私奴婢は地方の豪族が所有した奴婢であり、代々相続することが可能であった。
私奴婢には、口分田として良民の1/3が支給された。

日本の奴婢制度は、律令制の崩壊と共に消滅し、900年代には既に奴婢制度の廃止令が出ている様である。

奴隷としての賤民は早い時代に消滅したが、被差別階級としての賤民(いわゆる“穢多”“非人”)が中世の頃から顕著に見られ始め、近世を通じて存続し、明治4年(1871年)の解放令まで残っていた。

朝鮮の奴婢制度
朝鮮半島においても奴婢制度は存在し、李氏朝鮮では賤民は大きく奴婢(ノビ)と白丁(ペクチョン)に分けることができた。
中でも白丁は一番下の存在と位置づけられていた。

奴婢には、官奴婢と私奴婢が存在し、住まい及び結婚、職業の選択の自由に制限を受けており、法的に市場での売買が可能であった。
ただし、奴婢の身分から解放される場合もあった。
官奴婢の一部は徴税を代行していたために、地方の農民より裕福な者も存在していた。
さらに文禄の役の際に奴婢が反乱を起こし、役所に火を放ち戸籍を燃やしてしまい、また、戦費を獲得するために一定の額を支払った奴婢は良民になれるようにした。
そのため身分制度は混乱し、ある地方では37%居た奴婢が2%まで減少し、代わりに人口の9%に過ぎなかった両班が70%を占めるという状況も起きた。

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