大宰府 (Dazai-fu (local government office in Kyushu region))

大宰府(だざいふ)は、7世紀後半に、九州の筑前国に設置された地方行政機関。
和名は「おほ みこともち の つかさ」。

名称

大宰(おほ みこともち)とは、地方行政上重要な地域に置かれ、数ヶ国程度の広い地域を統治する役職で、いわば地方行政長官である。
大宝律令以前には吉備大宰(天武8年)、周防総令(天武14年)、伊予総領(持統3年)などあったが、大宝令の施行とともに廃止され、大宰の帥のみが残された。

『続日本紀』文武天皇4年10月の条に「直大壱石上朝臣麻呂を筑紫総領に、直広参小野朝臣毛野を大弐(次官)と為し、直広参波多朝臣牟後閇を周防総領と為し」とあるように「総領」とも呼ばれた。

大宝律令(701年)によって、九州の大宰府は政府機関として確立したが、他の大宰は廃止され、一般的に「大宰府」と言えば九州のそれを指すと考えてよい。
また、その想定範囲は、現在の太宰府市および筑紫野市に当たる。
遺跡は国の特別史跡。

平城宮木簡には「筑紫大宰」、平城宮・長岡京木簡には「大宰府」と表記されており、歴史的用語としては機関名である「大宰府」という表記を用いる。
都市名や菅原道真を祀る神社(太宰府天満宮)では中世以降に現れた「太宰府」という表記を用いる。
「宰府」と略すこともある。

なお現在、地元では史跡は「都府楼跡」(とふろうあと)と呼称されることが多い。

概要

外交と防衛を主任務とすると共に、西海道9国(筑前国、筑後国、豊前国、豊後国、肥前国、肥後国、日向国、薩摩国、大隅国)と三島(壱岐国、対馬国、多禰国(現在の大隅諸島。824年に大隅に編入))については、掾(じょう)以下の人事や四度使の監査などの行政・司法を所管した。
与えられた権限の大きさから、「遠の朝廷(とおのみかど)」とも呼ばれる。

軍事面としては、その管轄下に防人を統括する防人司を置き、西辺国境の防備を担っていた。

外交面では、北九州が古来中国の王朝や朝鮮半島などとの交流の玄関的機能を果たしていたという背景もあり、海外使節を接待するための迎賓館である鴻臚館(こうろかん)が那津(現在の福岡市中心部)に置かれた。

長官は大宰帥(だざいのそち)といい従三位相当官、大納言・中納言クラスの政府高官が兼ねていた。
しかし平安時代には親王が任命されて実際には赴任しないケースが大半となり、次席である大宰権帥が実際の政務を取り仕切った(ただし、大臣経験者が左遷された場合、実務権限はない)。
帥・権帥の任期は5年であった。
また、この頃は、唐宋 (王朝)商船との私貿易の中心となった。

四等官は、帥の下に、以下のものが置かれた。
弐(すけ) 大弐(だいに)、少弐(しょうに)
監(じょう) 大監(だいかん)、少監(しょうかん)
典(さかん) 大典(だいてん)、少典(しょうてん)
そのほか官人雑任・医師_(律令制)・算師などが置かれていた。

面積は約25万4000平方メートル、甲子園の約6.4倍である。

歴史

特に弥生時代や古墳時代を通じて、玄界灘沿岸は、アジア大陸との窓口という交通の要衝であった。
そのため、畿内を地盤とするヤマト王権が外交や朝鮮半島への軍事行動の要衝として、出先機関を設置することになった。

『魏志倭人伝』に見られる「一大率」は別としても、以下のような記述がその証拠と考えられている。
『日本書紀』宣化天皇元年(536年)条の「夫れ筑紫国は、とおくちかく朝(もう)で届(いた)る所、未来(ゆきき)の関門(せきと)にする所なり。(中略)官家(みやけ)を那津(なのつ、博多大津の古名)の口(ほとり)に脩(つく)り造(た)てよ」

崇峻天皇5年(593年)条の「駅馬を筑紫将軍の所に遣して曰はく」
推古天皇17年(609年)4月の条に「筑紫大宰(つくしのおほみこともち)、奏上して言さく」

「大宰」の文字の初見が609年(推古天皇17年)であるが、既に見たように福岡県博多に官家を造るなどの記事から大宰府の起源はもっと遡るのではないかと考えられている。

唐・新羅連合軍と対峙した白村江の戦い(663年)で大敗した。
天智朝では、唐が倭へ攻め込んでくるのではないかという危惧から664年(天智天皇3年)8月、筑紫に大きな堤に水を貯えた水城(みずき)・小水城を造ったという。
水城は、福岡平野の奥、御笠川に沿って、東西から山地が迫っている山裾の間を塞いだ施設であり、今日もその遺跡が残っている。
構造は、高さ14メートル、基底部の幅が約37メートルの土塁を造り、延長約1キロにわたる。

また、翌年の665年(天智天皇4年)大宰府の背後に大野城 (筑前国)、前面に基肄城などの城堡が建設されたとされた。

649年(大化5年)には「筑紫大宰帥」の記述があるほか、天智天皇から天武天皇にかけての時期にはほかに「筑紫率」「筑紫総領」などが確認でき、中央から王族や貴族が派遣されていた事を示すと考えられている。
機関としては、667年(天智天皇6年)に「筑紫都督府」があり、671年(同10年)に初めて「筑紫大宰府」が見える。

この時代は、首都たる奈良(794年以降は京都)で失脚した貴族の左遷先となる事例が多かった。
例としては菅原道真や藤原伊周などがいた。
また、大宰府に転任した藤原広嗣が、首都から遠ざけられたことを恨んで740年に反乱を起こした。
その影響で数年間大宰府は廃止され、その間は大宰府の行政機能は筑前国司が、軍事機能は新たに設置された鎮西府が管轄していた。
つまり、742年(天平12)1月にいったん廃止し、743年(天平15)12月に筑紫に鎮西府を置く。
しかし、745年(天平17)6月に復活させている。

941年(天慶4)承平天慶の乱(藤原純友の乱)で陥落し、大宰権帥の橘公頼が対抗する。

1158年に平清盛が大宰大弐になると、平氏政権の基盤である日宋貿易の意図もあり、やがて北九州での政治的中心地は、大宰府から20キロメートル北の博多(福岡市)へ移る。

武藤資頼が大宰少弐に任じられ、その子の代に少弐氏となった。

中世にはいり、朝廷の衰微や元寇など西海道の動向につれて実権は揺らいでいく。
南北朝時代 (日本)には、南朝 (日本)の後醍醐天皇が皇子の懐良親王を征西将軍として派遣し、菊池氏に擁立された懐良親王を頂く南朝方は1351年の筑後川の戦いで少弐氏を総大将とした北朝方を破り、本拠とした。
南朝方の征西府は室町幕府が派遣した今川貞世(了俊)に敗れ、少弐氏は大宰府を回復するが、戦国時代 (日本)には大内氏に追われた。

政庁地区

政庁地区の発掘調査は1943年に行われたものを嚆矢とする。
調査の結果、政庁地区においては3時期の遺構面が存在することが確かめられた。
各遺構面の概要は下記のとおりである。

第1期 7世紀後半-8世紀初頭。
大宰府政庁創建期。
掘立柱建物群。
古段階と新段階に細分される。

第2期 8世紀初頭-10世紀中葉。
朝堂院形式創建期。
礎石建ち瓦葺き建物。
政庁規模は、東西111.6メートル、南北188.4メートル、回廊規模は、東西111.1メートル、南北113.8メートル。

第3期 10世紀中葉-12世紀。
朝堂院形式整備拡充期。
礎石建ち瓦葺き建物。

政庁地区については、発掘調査以前には「現在見える礎石が創建時のもの」、「941年(天慶4)の藤原純友の乱で焼亡した後は再建されなかった」、という考えが主流であった。
前者の考えについては各遺構面が存在することによって否定された。後者については、第2期遺構面上に堆積する焼土層によって焼失の事実は証明されたものの、第3期の遺構がさらに規模を拡大して再建されていることが明らかとなり、現在では否定されている。

第1期から第2期への改築は、律令制度によって政府機関として確立したことに対応するものである。
第3期は律令制度が弛緩している時期にあたるため、第2期より大規模な造作が行われていることに多くの研究者が驚かされたが、現在では、当時の政庁運営で中心的役割を担っていた在庁官人層の拡大に対応するものと理解されている。

条坊制

大宰府に条坊が存在することを最初に想定したのは、のちに九州大学教授となる鏡山猛で、1937年のことである。
鏡山は、政庁域を方四町、観世音寺域を方三町と推定した場合、両者の南辺を東西線上に一致させることができること、かつその場合の政庁東辺と観世音寺西辺の間が二町となることをもって、一町を単位とする造成企画の存在を想定し、その適用範囲を広げると周囲の道路や畦畔に合致するものが多いことを指摘。
加えて観世音寺に伝わる古文書類に記された条坊呼称の分析から、東西各十二条、南北二十二条の、東西約2.6キロメートル、南北約2.4キロメートルに亘る条坊域を想定した。
その実態は1930年代に存在していた道路や畦道に基づく「机上の復元案」といえるものであるが、大宰府に条坊制による街区の存在を指摘し、学界に注意を喚起した功績は大きい。
鏡山案は現在においてももっとも知られている復元案であり、一般向け図書やHPなどで紹介されている復元図はほとんどが鏡山案である。

その後、福岡県教育委員会、九州歴史資料館、太宰府市教育委員会、筑紫野市教育委員会によって条坊施工想定範囲内での発掘調査が断続的に行われており、現時点では下記のような成果を得ている。

政庁第1期に対応する7世紀段階では、条坊の存在に結びつくような遺構は確認できない。

政庁第2期に対応する8世紀段階において条坊に関連すると考えられる遺構は、政庁中央から南へ伸びる南北中央大路(朱雀大路に相当する)周辺を中心として存在する。
これらの遺構は南北方向のものが顕著で、東西方向のものは少ないことから、整然とした条坊域が整備されていたのではない可能性もある。

政庁第3期に対応する10世紀段階の条坊遺構は鏡山案の想定域に近い範囲に存在する。
この段階での一区画は面積8反を基準としているらしい。
区画溝などの遺構は11世紀後半から12世紀前半にかけて埋没し、条坊制による街区はこのころに廃れたと考えられる。

こうした状況は、政治的中心の周囲に次第に都市が形成されていく過程と理解できる。

もはや鏡山案はそのままの形では成り立たない状況となっており、上記のような発掘成果を受けた新たな条坊復元案が金田章裕や井上信正などによって提示されている。

2006年4月20日、筑紫野市教委は、大宰府政庁跡の北端から約1.7キロメートル南で条坊の南端と推定される幅約8メートルの道路と側溝の遺構が見つかったと発表した。
市教委は、この場所より南側ではほとんど遺構が発見されていないことなどを根拠として、この遺構を条坊の南端と推定している。

石川王

- 壬申の乱で大海人皇子(天武天皇)に与して功績を上げた。
吉備大宰在任中の679年に吉備で病死。
他に例のない5段積みの方墳である大谷1号墳(岡山県)がその墓との説が有力である。

栗隈王

- 敏達天皇の孫(曾孫とも)。
大宰帥の前身にあたる「筑紫率」に任命された。
壬申の乱の際、筑紫の軍は外敵に対するもので国内の争いに用いるべきではないとして中立を宣言した。
結果的に大海人皇子(天武天皇)の勝利に貢献して天武天皇から重用されることとなり、子孫が橘氏として繁栄する礎を築いた。

藤原広嗣

吉備真備

大伴旅人(665年 - 731年)

- 728年(神亀5年)から730年(天平2年)の晩年、大宰帥。
大宰府へ赴任した直後に妻の大伴郎女(いらつめ)を失った。

大伴家持

山上憶良

小野岑守

- 大宰大弐として赴任中の弘仁14年(823年)に公営田の導入を建議、翌天長元年(824年)に多褹国を大隅国に編入した。

菅原道真

橘公頼

平清盛 (1158年)

- 大宰大弐となる。

武藤資頼(1159年 - 1228年)

- 武士ながら大宰少弐に任ぜられ、少弐氏の祖となる。

異説・俗説

九州王朝説では、大宰府が、古代北九州王朝の首都(倭京)であったと主張している。
しかし、査読のある学術雑誌において、九州王朝を肯定的に取り上げた学術論文は皆無であり、一般に九州王朝説および関連する主張は科学的な学説とはみなされていない。

交通

コミュニティーバスまほろば号「大宰府政庁前」下車すぐ

最寄駅:西鉄天神大牟田線都府楼前駅(まほろば号が接続している)

駐車場あり。
ただし狭く、政庁跡周辺は駐車禁止なので公共交通機関の利用を勧める。

国道3号
福岡県道76号筑紫野太宰府線

周辺情報

大宰府展示館

蔵司跡

月山(漏刻・水時計)

学校院跡

坂本八幡宮

通古賀近隣公園

太宰府市民の森

四王寺山登山

祭事

太宰府天満宮秋思祭(旧暦9月10日)

催事など

ウメ(2月~3月)

サクラ(3月下旬)

アジサイ(6月)

太宰府市民政庁まつり(10月)

初夏の夜はホタルが見られる

不定期に、薪能、第九演奏会などが開催されることもある

[English Translation]