南北朝正閏論 (Nanbokucho-Seijun-ron)

南北朝正閏論(なんぼくちょうせいじゅんろん)とは日本の南北朝時代 (日本)において南北のどちらが正統とするかの論争(閏はうるうと同じで「正統ではないが偽物ではない」の意)。

概要
近代以前の南北朝正閏論
近世以来、南北朝のいずれが正統かをめぐって南北朝正閏論が行われてきた。
論者の主張は大きく南朝正統論、北朝正統論、両統対立論、両統並立論に分けられる。
徳川光圀は徳川氏の祖とされた新田氏の正統性を示すため、「大日本史」で南朝 (日本)を正統であると提示した。
また同様に南朝正統論を支持した頼山陽は後小松天皇(北朝 (日本))は後亀山天皇(南朝)から禅譲を受けたことによって正統な天皇になったので、後小松天皇以後の天皇の正統性の問題を理由として、北朝の皇位継承を正当化とすべきではないと主張した(但し史実では神器帰還の儀式が行われたのみで禅譲の儀式は行われていない)。
一方、当時の公家社会では、公家達のほとんどが北朝方公家の末裔であったために(多くは家督を巡って南北に分裂した)北朝正統論が強く、柳原紀光ら公家出身の歴史家の多くが北朝正統論を支持した、また皇室も永く現皇統につながる北朝を正統と考えていたとされ祭祀もその方針で行われていた。

南北朝正閏問題
明治の歴史学界では、南北朝時代に関して「太平記」の記述を他の史書や日記などの資料と比較する実証的な研究がされ、これに基づいて1903年(明治36年)及び1909年(同42年)の小学校で使用されている国定教科書改訂においては南北両朝は並立していたものとして書かれていた。
ところが、1910年(同43年)の教師用教科書改訂にあたって問題化し始め、同年に幸徳秋水ら社会主義者が起こしたとされた幸徳事件がこれに拍車をかけた。

そして、1911年(明治44年)1月19日付の読売新聞社説に「もし両朝の対立をしも許さば、国家の既に分裂したること、灼然火を賭るよりも明かに、天下の失態之より大なる莫かるべし。
何ぞ文部省側の主張の如く一時の変態として之を看過するを得んや」「日本帝国に於て真に人格の判定を為すの標準は知識徳行の優劣より先づ国民的情操、即ち大義名分の明否如何に在り。
今日の多く個人主義の日に発達し、ニヒリストさへ輩出する時代に於ては特に緊要重大にして欠くべからず」という論が出され、これを機に南北朝のどちらの皇統が正統であるかを巡り帝国議会での政治論争にまで発展した。

この問題を巡って野党立憲国民党や大日本国体擁護団体などが当時の第2次桂内閣を糾弾した。
このため、政府は野党や世論に押され、1911年(明治44年)2月4日には帝国議会で南朝を正統とする決議をおこなった。
さらに教科書改訂を行い、教科書執筆責任者である喜田貞吉を休職処分とした。
最終的には「大日本史」の記述を根拠に、明治天皇の裁断で三種の神器を所有していた南朝が正統であるとされ(ただし、現在の学説では北朝の光厳・光明・崇光の三帝は三種の神器を保有していたことがほぼ確実とみられ、神器の有無を根拠に北朝のすべてを「正統でない」とするのは無理である。
なお、明治天皇は北朝の五帝の祭祀については従前どおり行うよう指示したとされる)、南北朝時代は南朝が吉野にあったことにちなんで「吉野朝時代」と呼ばれる事となった。
それでも、田中義成などの一部の学者は「吉野朝」の表記に対して抗議している(南北朝正閏問題)。

以後、戦前の皇国史観のもとでは、足利尊氏を天皇に叛いた逆賊・大悪人、楠木正成や新田義貞を忠臣とするイデオロギー的な解釈が主流になる。

第二次世界大戦後における南北朝時代を巡る議論

第二次世界大戦後も南朝が正統とされているが、歴史の実態に合わせて再び「南北朝時代」の用語が主流になった。
また価値観の転換や中世史の研究の進歩で、足利尊氏の功績を評価したり、楠木正成は「悪党」としての性格が研究されるようになり、後醍醐天皇の建武の新政は宋学の影響で中華皇帝的な天皇独裁を目指す革新的なものであるなど、南北朝時代に関しても新たな認識がなされるようになった。

網野善彦は職能民など非農民層に着目し、南北朝時代が日本史の転換期にあたると主張している。
また、太平洋戦争後には、熊沢寛道に代表される自称天皇が現れ、自身が南朝の子孫であり正統な皇位継承者であると主張した。
ただし血統的には、大覚寺統より持明院統が嫡流で、持明院統の中でも伏見宮家が、その嫡流にあたることから、現皇室の血筋が最も尊いとされている。

[English Translation]