元寇 (Genko (Mongol invasion))

元寇(げんこう)とは、日本の鎌倉時代中期に、当時大陸を支配していたモンゴル帝国(元 (王朝))及びその服属政権となった高麗王国によって2度にわたり行われた日本侵攻(遠征)の、日本側の呼称である。
1度目を文永の役(ぶんえいのえき・1274年)、2度目を弘安の役(こうあんのえき・1281年)という。
蒙古襲来とも。

経緯

文中の( )の年はユリウス暦、月日は西暦部分を除き全て和暦、宣明暦の長暦による。

外交交渉から侵攻まで

1260年にモンゴル帝国の第5代皇帝(ハーン、ハーン)に即位した後のいわゆる「元 (王朝)」(大元ウルス、大元朝、元朝)の皇帝クビライは、1268年(日本の文永5年・大元朝の至元 (元世祖)5年)に第2代皇帝オゴデイ以来の懸案であった南宋攻略を開始する一方、既に服属していた朝鮮半島の高麗を通じて、1266年に日本に初めて通交を求める使者を送ろうとしていた。
『元史日本伝』によるとこの使節を送るのは高麗人で元の官吏である趙彝の進言からとある。
しかし高麗の宋君斐・金賛が案内する蒙古の使節ら(正使・黒的、副使・殷弘)は巨済島まで来て、航海の困難を理由に引き返し、クビライに対して日本への通使の不要を説いた。
クビライは予め「風濤の険阻を以って辞となすなかれ」と日本側への国書の手交を厳命していたが、その「風濤の険阻」を理由に使者の両名は渡海もせず引き返してきたことに憤慨してこれを却下した。
そして再び高麗に命令し、使節として高麗国王元宗 (高麗王)の側近であった起居舎人・潘阜が派遣され、1268年正月に大宰府へと到着。
大宰府の少弐資能(武藤資能)は蒙古国書(日本側では牒状と記録)と高麗王書状を受け取り、鎌倉幕府へ送達する(しかし、日本側からの返牒の気配がなかったためか、太宰府来着から七ヶ月後に潘阜は高麗へ帰還しており、高麗は同年10月には潘阜の遣使が不首尾に終わった旨を元朝宮廷側に潘阜ら自らが赴くなどして報告している)。

鎌倉幕府は5代執権北条時頼没後その嫡男北条時宗が若年のため傍系の6代北条長時、ついで7代北条政村が執政し、これを漸く成年に達した連署の北条時宗らが補佐する体制が敷かれていた。
しかし、この危機を前に1268年3月には時宗が8代執権に就任。
幕府では関東申次の西園寺実氏に託して蒙古国書を朝廷へ回送し、黙殺を決定させる。
さらに幕府は後嵯峨上皇没の直後の二月騒動で時宗の庶兄北条時輔等を粛正し統制を強化、さらに諸国への異国警護、異国降伏の祈祷を行わせる。
宗教界にも影響を与え、日蓮は『立正安国論』を幕府に上程して国難を主張する。

同年には再び知門下省事・申思佺、侍郎・陳子厚および潘阜ら高麗使臣が正使・黒的、副使・殷弘をともなって派遣され、第2回目の使節が日本へ上陸したが、これを黙殺した。
しかしながら、今度の使節は対馬に着いたのみで太宰府へは至らず、同島で住民らと諍いを起こし対馬島人の塔二郎と弥二郎という二名を捕らえて、これらとともに帰還した。
これを見た高麗に反乱を起していた三別抄から、共同で元に対抗する軍事的援助を求める使者が来訪したがこれも黙殺した。

1271年9月、元使の趙良弼らが元への服属を命じる国書を携えてきた際には、幕府はこれを朝廷に進上した。
朝廷は急いで伊勢に勅使を派遣し、神々に異国降伏を祈った。
朝廷内部では返事を出すかどうかで論争されたが、幕府が返事を出す事に反対した事、朝廷内でも「元の要求に屈するべきではない」という強硬論が強かった事から、朝廷・幕府ともに国書を黙殺する事になった。
クビライはその後も何度か日本に使者を出したが全て無視され、最終的に武力侵攻を決定する。

『元史高麗伝』によると当初より3つの案が検討された。

日本は島国で攻略が難しいので高麗に兵を置き国書により属国にする。
この案では損害もでず、また高麗の統治強化および南宋と日本の分断が可能。

まず南宋を攻略し服属せしめた漢人を使って日本を攻略する。
この案は多数の兵力を準備でき蒙人高官が支持していた。

高麗軍を使って東路より日本を攻略する。
この案では兵力不足が懸念された。

『高麗史』及び『元史』によれば、高麗の(のちの忠烈王の)執拗な要請があり、蒙人の高官は兵力不足を懸念して南宋攻略を先にすべきと主張したが、高麗を経由する東路からの日本侵攻が決定されたとされる。

クビライは高麗に命じて日本へ侵攻する艦船を作らせ、食糧などを供給した。
この時の建造費は高麗が負担し、大小900艘と言われる船をわずか半年の突貫工事で完成させた。
これらの動向を察知していた鎌倉幕府は、1272年に異国警護番役を設置し、鎮西奉行であった少弐氏(武藤氏)や大友氏に対して指揮を命じた。
元は1273年2月には南宋の襄陽を落とし、三別抄も平定する。

文永の役

日本の文永11年・元の至元11年10月(1274年11月)に、忻都、金方慶らに率いられ、モンゴル人・漢人・女真人・高麗人など非戦闘員を含む3万人を乗せた船が朝鮮の月浦(合浦。現在の馬山)を出発した。

10月5日 (旧暦)に対馬、10月14日 (旧暦)に壱岐を襲撃し、平戸鷹島の松浦党の本拠を全滅させ、壱岐守護代の平景隆を自害に追い込んだ。
さらに『新元史』によれば日蓮の書簡の記述に依るとして、この時民衆を殺戮し、生き残った者の手の平に穴を開け、そこに革紐を通して船壁に吊るし見せしめにしたという。
また高麗の将軍がこのときに捕虜とした子供男女200人を高麗王と王妃に献上したという記録が、高麗側に残っている。

壱岐の状況が博多に伝わり、京都や鎌倉へ向けての急報が発せられる。
日本側は少弐氏や大友氏をはじめ九州の御家人を中心として大宰府に集結しつつあった。

元軍は10月19日 (旧暦)には博多湾に現れ、湾西端の今津に停泊し一部兵力を上陸させた。
10月20日 (旧暦)(太陽暦では11月25日)、船団は東に進み百道浜つづいて地行浜、長浜、那ノ津、須崎浜(博多)、東浜、箱崎浜に上陸した。
博多湾西部から上陸した兵は、麁原(現在の祖原山)、別府に陣を構えた。

日本の武士は、当初は名乗りをあげての一騎打ちや、少人数での先駆けを試みたため一方的に損害を受けたが、昼頃には集団戦術に対応、また増援の到着により反撃に転じた。
『八幡愚童訓』(『八幡愚童訓』甲種本のひとつ)によると、百道浜より3キロ東の赤坂にて菊池武房らの軍勢230名ほどの騎馬が徒歩の部隊だった2千前後の元軍を撃破した。
『蒙古襲来絵詞』によると竹崎季長が鳥飼潟から祖原へ追撃、上陸地点より500メートル付近まで押し返した。
さらに後続を待たず先駆けを試み窮地に陥ったところ白石通泰らが救援に駆けつけ矢戦となった。

博多では海岸付近で激しい矢戦となり、日本軍は敗走したが殿軍の少弐景資が追撃してきた劉復亨を射倒すなどして、内陸への侵入を阻止した。
『高麗史』によると、やがて日暮となり戦闘を解し、日本軍は大宰府に帰った。

一方、元軍は博多を占拠したものの終日の激戦で矢が尽き、軍の編成が崩れた。
このため、大宰府攻略をあきらめ、博多の市街に火をかけて焼き払い、撤退することにした。

『高麗史』金方慶伝によると、この夜に自陣に帰還した後の軍議と思われる部分が載っており、高麗軍の主将である金方慶と派遣軍総司令官である忽敦との間で、以下のようなやり取りがあったことが述べられている。

金方慶「兵法に『千里の県軍、その鋒当たるべからず』とあり、本国よりも遠く離れ敵地に入った軍は、却って志気が上がり戦闘能力が高まるものである。我が軍は少なしといえども既に敵地に入っている。我が軍は自ずから戦うことになるがこれは秦穆公の孟明の『焚船』や漢の韓信の『背水の陣』の故事に沿うものである。再度戦わせて頂きたい。」

忽敦 「孫子の兵法に『小敵の堅は、大敵の擒なり』とあって『孫子 (書物)』謀攻編「故善用兵者、屈人之兵、而非戰也。;拔人之城、而非攻也。;毀人之國、必以全爭于天下、故兵不頓、利可全、此謀攻之法也。故用兵之法、十則圍之、五則攻之、倍則分之、敵則能戰之、少則能守之、不若則能避之。故小敵之堅、大敵之擒也」、少数の兵が力量を顧みずに頑強に戦っても、多数の兵力の前には結局捕虜にしかならないものである。疲弊した兵士を用い、日増しに敵軍が増えている状況で相対させるのは、完璧な策とは言えない。撤退すべきである。」

このような議論があり、また劉復亨が負傷したこともあって、軍は撤退することになったと言う。
しかしながら、後述のように文永の役での日本派遣軍の目的はもともと威力偵察の類いであり、このやり取りも当初からの撤退予定を見越したものではなかったか、という指摘もされている。
当時の艦船では、博多‐高麗間の北上は南風の晴れた昼でなければ危険であり、この季節では天気待ちで1ヶ月掛かる事もあった。

『八幡愚童訓』によると、この戦いの最中、鎌倉武士団が迎撃の拠点として加護を祈った筥崎宮から兵火によるものか出火し、社殿は焼け落ちたものの御神体その他は唐櫃に納めて運び出し、辛くも避難出来たという。
また夜中、炎上する筥崎宮より出た白装束の者30人ばかりが矢を射掛けたところ、元兵は恐怖し夜明けも待たず(朝鮮通信使のころでも夜間の玄界灘渡海は避けていた)我先にと抜錨し撤退は壊走となり玄界灘で遭難した、という。
ただし、この「白装束の者」たちは「白装束」という甚だしく「異形の者」たちであるため、鎌倉武士団その他の実際の軍勢では無く、「筥崎宮の八幡神による神威の顕現」の類いを描写したものと考えられる。
『八幡愚童訓』や藤原兼仲(勘解由小路兼仲)の日記『勘仲記』の一写本によると、翌日、元の船団は姿を消しており、文永の役は終結する。
『元史』では「世祖本紀」や「日本伝」などにこの時の損耗については特に述べられていないが、『高麗史』、『高麗史節要』では夜中に大いに風雨があり、艦船が難破するなどして損害があり、十一月二十七日(12月26日)に合浦に帰還した際には、派遣軍の不還者は1万3500余人に登ったという。

定説では、日本の武士は名乗りを上げての一騎打ちしか戦い方を知らず一方的に敗退したが、幸運にも暴風雨、いわゆる神風が起きて、元の船団はその夜のうちに撤退したとされる。
しかし、これに関しては史料に矛盾する。
詳しくは後述の元寇神風を参照。

元は撤退し、対南宋戦争が佳境に入ったことから、ひとまず主力は江南に向けられる事になった。

なお、文永の役は侵攻というより、威力偵察ではないのかとの説もある。
根拠として、本来モンゴル帝国の軍事行動では、事前に兵力100〜1万規模での敵地への威力偵察を数度段階的に行った後、本格的な侵攻を行う場合が多く、また『元史』「日本伝」には元軍の矢がすぐに尽きたという記述が見られることと、3万人程度(中には非戦闘員もいる)という少ない兵力からこの説も根強い。
『元史』「日本伝」は元側の記録であり、自分達で矢が尽きたと記録しているため信憑性は高いと見られる。
本格的に侵攻し領土とする、または服属させるには、3万人程の人数で、当時の主力武器である弓の矢がすぐに尽きる程度の準備で来るとは考えにくい。
元軍は大陸での野戦でも、騎馬兵の機動力を生かし、敵と一定の距離を保って馬上からの騎射で相手を損耗させる事を主な戦法の一つにしている。

弘安の役

1275年(日本の建治元年・元の至元十二年)、クビライは再び礼部侍郎杜世忠を正使とする使者を日本に送る。
北条時宗は鎌倉の龍ノ口刑場(江ノ島付近)で杜世忠以下5名を斬首に処した(これは、使者が日本の国情を詳細に記録・偵察した、間諜(スパイ)としての性質を強く帯びていたためと言われる)。

1279年(日本の弘安二年・元の至元十六年)、元は江南軍司令官である南宋の旧臣范文虎の進言により、使者が殺されたことを知らないまま周福を正使とする使者を再度送ったが、大宰府にて全員斬首に処される(総計、5名という説が有力)。

この年に南宋を完全征服した元は、日本との同盟や南宋への牽制の必要もなくなった(後項参照)うえ、クビライは逃げ出した水夫より使者の処刑の報を知り、特に、通常の使者よりも高位(礼部侍郎)であった杜世忠の処刑に腹を立て、日本への再度の侵攻を計画し、1280年には侵攻準備のため征東行省を設置している。

1281年(日本の弘安四年・元の至元十八年)、元・高麗軍を主力とした東路軍4万と、旧南宋軍を主力とした江南軍10万、計14万の軍が日本に向けて出発した。

しかし、日本側は既に防衛体制を整えていた。
博多沿岸に約20kmにも及ぶ防塁(元寇防塁)を築いてこれを迎えたのである()。
この防塁はもっとも頑強な部分で高さ3メートル、幅2メートル以上ともされている。
いち早く到着した東路軍は防塁のない志賀島に上陸するが、日本軍の斬り込みを受ける。
文永の役によって元軍の戦法を周知していた日本軍は優勢に戦い、元軍を海上に撤退させた。
さらに小舟での襲撃などにより元軍を悩ませる武士も少なくなかった(一方で河野通有などのように石弓によって重傷を負った武士もいた)。

江南軍は、総司令官右丞相阿刺罕が病気のため阿塔海に交代したこともあり、東路軍より遅れてやってきたが、両軍は、平戸鷹島付近にて合流した。
しかしここで暴風雨が襲来し、元の軍船は浮いているだけの状態となった。
これを好機と見た武士らは元軍に襲いかかり、これを殲滅した。
辛うじて陸地にいた元軍兵士も、旧暦7月7日(ユリウス暦7月23日)の竹崎季長らによる鷹島奇襲などでほぼ消滅した。
元軍で帰還できた兵士は、のちに解放された捕虜を含めて全体の1、2割だと言われる。
なお、日本軍は高麗人とモンゴル人、および漢人は捕虜として捕らえず殺害したが、交流のあった南宋人は捕虜として命を助け、大切に庇護したという。
博多の唐人町は南宋人の街であるともいわれる。
この戦いによって元軍の海軍戦力の3分の2以上が失われ、残った軍船も、相当数が破損された。

なお、弘安の役における両軍の兵力は、元・高麗軍が約14万(東路軍4万、江南軍10万)、鎌倉軍が約4万だとされる。

日本の被害

「伏敵編」所取の「高祖遺文録」に次のように残っている。
この「遺文録』は、日蓮の遺文を集めた記事集である。

《去文永十一年(太歳甲戊)十月ニ、蒙古国ヨリ筑紫ニ寄セテ有シニ、対馬ノ者カタメテ有シ、総馬尉(そうまじょう)等逃ケレハ、百姓等ハ男ヲハ或八殺シ、或ハ生取(いけどり)ニシ、女ヲハ或ハ取集(とりあつめ)テ、手ヲトヲシテ船ニ結付(むすびつけ)或ハ生取ニス、一人モ助カル者ナシ、壱岐ニヨセテモ又如是(またかくのごとし)、》
「百姓」=一般人は「男ヲハ或ハ殺シ、或ハ生取ニシ」ている状況とともに「女ヲハ或ハ取集テ、手ヲトヲシテ船ニ結付、或ハ生取ニス」 とある。
そして、「男」と「女」に懸かるのであろうか、「一人モ助カル者ナシ」と書かれている。
壱岐でも、同様の残虐な仕打ちがなされた。
この史料を取めている「伏敵編」には、「按(あんずるに)」として、編者のコメントがある。
ここでは、高麗の前身の国家である「百済」を引き合いに出し「手掌ヲ穿傷......」(手の平に穴をあけてそこへ縄を通す」の意)云々のやり方を、朝鮮半島において古来より続く伝統的行為としている。
まさに、この残虐行為を証拠として高麗人の仕業、と編者は判断している。
日蓮は、対馬や壱岐、あるいは九州本土における惨劇を『高祖遺文録」の各個所で言及している。

『日蓮註画讃巻第五「蒙古來」篇』に「二島百姓等男はあるいは殺あるいは虜、女は一所に集め、手を徹、舷に結付虜の者は一人も害さざるなし。肥前国松浦党数百人伐虜さる。この国の百姓男女等、壱岐・対馬の如し。」
《皆人の当時の壱岐対馬の様にならせ給(たま)はん事思ひやり候へば涙も留まらず。》(「類纂高祖遺文録」、改題「類纂日蓮聖人遺文集平成版」)

また他所で、《壱岐対馬九国の兵士並びに男女、多く或は殺され或は擒(と)られ或は海に入り或は崖より堕(お)ちし者幾千万と云ふ事なし。》(同右書)とある。
なお、対馬→壱岐を侵した後、元艦船隊は鷹島へ向かった。
そして、上陸軍を揚げている。
「八幡愚童記」(伏敵編」所収)に は、《同十六日、十七日平戸能古、鷹島辺(あたり)の男女多く捕(とらわ)らる。松浦党敗北す。》 とある。
「男女」が「捕らる」のだから、捕囚され強制連行されたことにほかならない。

その後の日本では、元寇の時、蒙古・高麗軍が日本を襲ったことを、「蒙古高句麗の鬼が来る」といって怖れたことから、転じて恐ろしいものの代表として子供の躾けなどで、「むくりこくり、鬼が来る」とおどす風習などとなり全国に広がった。
モッコの子守唄(青森県 木造町)のように「泣けば山がらモッコくるね、泣がねでねんねしな」などと、昔の蒙古襲来の怖さを子守唄にしたものなど、上記の残虐行為への恐怖を証明する民間伝承は全国に存在する。

また元寇への復讐の意味合いから倭寇の活動が活発化したきっかけとも言う説がある(詳細は倭寇を参照)。

影響

クビライは本格的に3度目の日本侵略を計画し、1287年に一旦解散した征東行省を再度開設し、高麗忠烈王が丞相に就任した。
しかし、この時期に元の内部でも反乱が続き、日本へ軍が出せる状態ではなくなり、クビライの死と共に完全に頓挫した。
なお、正安3年11月(1301年)に薩摩国甑島列島の沖に異国船が出現し、うち1隻から襲撃を受けている。
これについては、元の艦隊が偶発的に同地に辿り着いて上陸を試みたものと見られている。

文永の役後、幕府は博多湾の防備を強化しようとした。
しかしこの戦いで日本側が物質的に得たものは無く、見返りとしての恩賞は御家人たちの満足のいくものではなかった。
中には竹崎季長などのように鎌倉まで赴いて直接幕府へ訴え出て、恩賞を得るといったケースもあった。

弘安の役後、幕府は元軍の再度の襲来に備えて御家人の統制を進めたが、文永の役に続き弘安の役においても十分な恩賞給与がなされなかったため、戦費で窮迫した御家人達は借金に苦しむようになった。
幕府は徳政令を発布して御家人の困窮に対応しようとしたが、御家人の不満は完全には解消されなかった。

一方、当時の日本に「元に勝ったのは、公家などの貴族たちが、勝利や平和についての歌を作って詠んだ、言霊の結果である」あるいは「僧侶や神官らの折伏(しゃくぶく)や祈祷による結果である」との認識が広く存在していた。
実際に弘安4年から翌年にかけて九州の諸社及び伊勢神宮に対して「神領興行」と呼ばれる一種の徳政令が発布されて、幕府の安堵状が出されている御家人領も含めた全ての旧神領を神社へ返還するよう命じられている。

当時の日本国内では、対元戦争を日本の神と元の神の争いと見る観念が広く共有されており、歌詠みや諸社による折伏・祈祷は日本の神の力を強めるものと認識されていた。
これを天人相関思想というが、日本を救った暴風雨を神風と呼ぶこととなったのも、この天人相関思想に起因するという説が有力となっている。
また、神風によって日本が救われたという出来事は「神国思想」(=日本は神国なのだから負けるはずがないという考え)を日本人に広く浸透させ、それが太平洋戦争末期の日本軍や国民思想の非合理性の温床となり、神風特別攻撃隊をはじめ数々の悲劇を生んだとも言われている。

貨幣経済の浸透や百姓階層の分化とそれに伴う村落社会の形成といった13世紀半ばから進行していた日本社会の変動は、元寇の影響によってますます加速の度合いを強めた。
そして、御家人階層の没落傾向に対して新興階層である悪党の活動が活発化していき、この動きは鎌倉幕府滅亡へとつながっていく。

日本侵略の理由

文永の役の理由については南宋への牽制であり、少なくともクビライは最初から日本侵略を望んでいたわけではないと考えられている。
また、短期間での帰還理由についても、自主的撤退とする説が出されている。

それは、日本側の対応を確認するため。
これは、軍事的に言えば「威力偵察」と呼ばれているものであり、ごく基本的な戦術のひとつである。

ある程度の損害を与え、その後の交渉で日本に要求をのませるようにするため。
これは、元がたびたび使っている戦法であり今回もそれに準じたものということである。

これは、当時の元が日本に使者を送った理由や情勢を考えると、至極妥当だとする考えである。

威力偵察目的であったと言う傍証として、時の元の水軍には長期戦略に対する装備の用意はなく、そのため一日で矢を撃ち尽くして去っていったという、元側の記録が残っている。

一方で、南宋が滅んだ後の弘安の役については様々な説がある。

珍しいものとしては、南宋を降した後に旧南宋軍を日本攻撃にあたらせ、消耗させるためと言うものがある。
旧南宋軍は被征服者のため元への忠誠心も全く無く、さらに元々南宋は金で兵士を募集する募兵という形をとっており、数は多いが所詮は寄せ集めであり、士気・忠誠心も低く、戦闘能力も高くなかった。
また軍を解散させると職を失った大量の兵士達が社会不安の要因となってしまうというものだが、征服した現地兵を次の戦争に投入することは元ではよく行われており、日本との戦いのときのみことさら強調すべきこととは考えにくい。

近年の調査では、博多湾の底で見つかった元の軍船から、農業用の鋤や鍬などが見つかっている。
『元史』日本伝 至元十八年正月条によると、クビライは遠征に先立って大都に遠征軍の指揮官である阿剌罕、范文虎、忻都、洪茶丘らを召集し勅を下している。
そのなかで「朕、漢人の言に聞くに、『人の家、国を取るには百姓土地を得んと欲す。もし尽く百姓を殺さば徒に地を得るも何に用いん』」とも述べている。
このため、弘安の役で戦争に勝利した暁には屯田を目的として長期的な日本の占領・支配することを意図していたのではないかと考えられている。
これをもって侵攻の意図と見る見解があり、14万人という過剰な人員のうち、旧南宋の兵員からなる江南軍10万人は軍隊兼移民団だったのでは、と言う見解も出されている。

高麗の関与

『高麗史』によると1272年に、高麗の王世子の諶(しん、後の忠烈王)が、元 (王朝)のクビライ皇帝に「惟んみるに、日本は未だに聖化を蒙らず。故に詔使を発し、軍容を継耀かし、戦艦兵糧まさに、須いる所あらん、もし此事を以って臣に委ねなば、勉めて心力を尽くして 小しく王師を助くるに庶幾(ちか)からん」と具申したとある。
また「元史」によると、元寇の発端は、高麗王の忠烈王が「元の皇帝に執拗に、東征して日本を属国にするよう勧めた」との記述がある。
これに対して忠烈王の発言の所以を高麗の国内事情に求める向きもある。
高麗はモンゴルの侵攻前は武臣が王を傀儡化して政権を執っており、王はモンゴルの兵力を借りることによって王権を奪い返した。
それ以後、高麗王はほとんどモンゴルと一体化し、モンゴル名を貰い、モンゴル皇帝の娘を王妃にしモンゴル皇帝であるクビライ王家の娘婿(キュレゲン、グレゲン)となる姻族、「駙馬高麗国王家」となっていた。
これに反対する勢力は反乱を起こし、モンゴルにより鎮圧されるが、一部はなお激しい抵抗を続けていた。
これが三別抄である。
忠烈王の発言は王権を保つためにクビライの意を迎えようとしたとする見解がある。
上述の3策のうち、高麗ルートを選ばせたのもモンゴル兵力が高麗から離れてしまうことを恐れたためとも考えられる。

蒙古国書・元使殺害

元が最初に送った国書であるが、これに関しては東洋史学者は概ね他の歴代中国王朝の国書と比べて驚くほど低姿勢であると見ているのに対して、日本史学者は高圧的と見る傾向にあると言われる。
蒙古皇帝国書を参照のこと。
ちなみに、北条時宗の反対で出される事はなかったものの、朝廷がクビライに出そうとした返書は「日本は天照大神以来の神国であって、外国に臣従する謂れはない」とするかなり過激な内容だったとも伝えられている。

また使者に対する殺害に関して、彼らがスパイ行為を行っていたためと言う見解がある。
文永の役以前の使者の行動はかなり自由で、道中では色々な情報を集めることができた。
そのため、使者による間諜行為がおこなわれたようである。
『八幡大菩薩愚童訓』には「夜々ニ筑紫之地ヲ見廻、船戦之場懸足逃道ニ至マテ、差図ヲ書」とあり、『元史』趙良弼伝にも「使日本趙良弼、至太宰府而還、具以日本君臣爵号、州郡名数、風俗土宜来上」とある。
こういった間諜行為が考慮されてか、文永の役以降は使者を斬るようになる。
また、武家政権である鎌倉幕府の性格からの武断的措置であるとする解釈や、対外危機を意識させ防戦体制を整える上での決定的措置であるとする考え方などがある。

元使殺害の評価については賛否両論がある。
同時代では日蓮が批判し、後世の評価では2回目の日本侵攻の口実になった暴挙であると評価する論者と、元の2回目の対日侵攻には影響を与えなかった、あるいは国難に対しては手本にするべき好例であると肯定的に評価する『大日本史』や、頼山陽らがいる。

神風

文永の役における蒙古軍の撤退に関して、日本側の史料には一夜明けると蒙古船が消失していた事実が記されているのみとされる。
公家の広橋兼仲の日記『勘仲記』には、伝聞として逆風が吹いたことを記されている。
高麗の史料、『高麗史』などには、撤退途中に風雨が起きて多数が座礁した事が記されている。
しかし日本側の史料にその記載が無い。
気象学的には過去の統計に台風の渡来記録が無いことから、台風以外の気象現象という見解もとられている。
文永の役に関しては、台風の可能性はほぼなかったと、今日では見なす者が多い。

弘安の役においても、当時の日本が知り得なかった江南軍壊滅の理由を台風や熱帯低気圧の影響としながらも、博多沖の東路軍は、それとは違った理由で壊滅したという説もある。

文永の役については現在では壊滅的な被害があったかについても含め多くの疑問が持たれているが、弘安四年七月三十日から翌閏七月一日(1281年8月15日 - 8月16日)にかけては京都でも激しい風雨に見舞われたことが日記類などの記録にあるため、弘安の役での東路・江南両軍の壊滅の原因は台風であるとの説は現在でも有力視されている。

なお、軍歌の「元寇 (軍歌)」の歌詞にも『弘安四年夏の頃』という一節があるが、文永の役に関しては何も触れてはいない。

軍事面

かつては元軍の集団戦術、いわゆる組織戦闘に対して、当時の日本側は一騎打ちを基本とした戦い方をしていたと言われていた。
また元軍は毒矢・てつはう(鉄火砲)など、日本側が装備しない武器を活用したことにより、各地で日本軍は圧倒されたと言われている。
しかし、現在の研究では双方共に被害を出していることが判明していることから、日本側もある程度まとまった兵力を投入できた局面などでは、一方的に圧倒されたわけではないケースもあったと考えられる。

日本側の弘安の役での戦術や対策としては、下記があげられる。

先述の防塁に楯を用いた防御。
鎌倉期でいう「城郭を構える」と呼ばれる行為に類するものと考えられる。

夜間、日本側からの小舟に分乗して、元船を奇襲。
鎌倉幕府法では禁圧対象となっている「夜討ち」と呼ばれる行為だが、弘安の役では幕府側が積極的に活用した。
狭い船内での斬り合いでは、日本の武士の方に分があったと考えられる。

合流するはずだった江南軍は、総司令官の交替と多人数による混乱により統率が取れず、東路軍との合流が1ケ月半ほど遅れた。

一方、東路軍は度重なる日本軍のコマンド作戦により、博多沖の海上で釘付け状態となり、やがて食料や水不足と発生した疫病により「兵糧攻め」と同じ状態になって疲弊していた。

江南軍が遅れて出発したが、そのために台風時期と重なり、合流前にほぼ壊滅状態。
博多沖の東路軍も時間差で、同じ台風ないしは熱帯低気圧によって壊滅したと見なされている。

その他、敗因はさまざまに語られるが、上記のとおり重複する点も含めて、日本軍が元軍の上陸前に船や陸上から攻撃を与えたことも要因の一つである。
遊牧民族であるモンゴル人は船上の戦法を心得ておらず、モンゴル軍が有効に活用し、連戦連勝を重ねてきた得意の騎馬隊を上陸戦のため使うことができなかった。
また、暴風雨によって多くの船がもろくも沈んだ理由として、船を服属させた高麗人や越人(ベトナム人)に作らせたことにあるとされる。
彼らはすでにモンゴル人支配の不満を募らせており、輸送船の造船は急務でもあり、突貫工事的に手抜きによって建造されていた。
また、兵士も占領した高麗人や漢民族を徴用した多民族軍であったため、士気が低かったと思われる。
江南軍のほとんどが嘗ての南宋の兵であり、放っておけば社会不安の要因となる彼らを厄介払いする目的もあったと言われる杉山正明の一連の著作、『中国史3』P449など(山川出版社)(それを裏付けるように、モンゴルの司令官たちが乗った船は一隻も沈んでおらず、江南軍に従軍した兵士達の墓も旧南宋の領内では確認されていない)。
また、『高麗史』金方慶伝によると、高麗は軍船を建造するのに「蛮様」(南宋様式)の船にしたのでは建設費がかさみ期限には間に合わないので、高麗様式の船を造船したとされており、軍船の準備が整っているので日本を征服しましょうとの忠烈王によるクビライへの進言は実態とまったく異なることであったことが記されている。

[English Translation]