京都旭丘中学事件 (Kyoto Asahigaoka Junior High School Affair)

京都旭丘中学事件(きょうとあさひがおかちゅうがくじけん)とは、1953年4月29日-1954年6月1日にかけて発生した京都市立旭丘中学校の教育方針を巡る保守派と進歩派の教員・父母による対立事件。
前者に文部省・京都市が、後者に日教組が加担したことから、対立を深刻化させることになった。

同校では、かねてより一部教員による「平和教育」が「偏向教育」か否かを巡ってPTAなどにおいて保守的な父母と進歩的な父母の対立が生じていた。
しかし、1953年の4月29日に同校で起きた失火とその再建策を巡って同年12月5日に保守派の父母が進歩派教員の「偏向教育」を非難したことにより対立が激化した。
京都市教育委員会が翌年3月に保守派から非難された3教員を他校に転任させることで事態を収拾しようとした。
これに対して3教員が転任命令を拒否したことから5月5日に3教員の懲戒免職を決定した。

これに対して、進歩派の教員・父母と京都教職員組合が学校を封鎖して管理授業を行い、これに対して保守派の父母は市教委とともに公共施設を用いた補習授業を行って対抗したことで生徒までをも2分することになる。
更に高山義三京都市長や大達茂雄文部大臣が学校封鎖を「暴力革命」と非難して、当時の政治課題とされていた「教育2法案」の早期成立を訴えたために事態は益々混乱した。
事態の長期化につれて子供を争いを材料にしているとして双方に対する世論の批判も高まった。
京都府教育委員会などが調停に入り、懲戒免職とされた3名以外の全教員の処分を行わずに他校に転任させて校長以下全教員を入れ替えることを条件に双方が折り合い、6月1日に授業が再開された。
なお、懲戒免職とされた3名はその後処分の取消を求める訴訟を起こしたが、1974年に最高裁判所 (日本)で原告敗訴が確定した。

[English Translation]