京都大学吉田寮 (Yoshida dormitory of Kyoto University)

京都大学学生寄宿舎吉田寮(きょうとだいがくがくせいきしゅくしゃよしだりょう)とは、京都大学の寄宿舎のひとつ。
木構造 (建築)二階建(三棟)。
日本四大自治寮のひとつ。

施設の概要

吉田寮は本学吉田キャンパス吉田南構内と隣接している。

本寮は、北寮・中寮・南寮の三棟がE字型に並ぶ配置をしている。
各棟2階建てでそれぞれ約40部屋(和室8畳~10畳26室、和室6畳~7.5畳95室)ある。
この他の施設は、管理棟、居住スペースとして使われているプレハブ、洗濯場、シャワー室、旧食堂などがある。

寄宿料は「京都大学における学生納付金に関する規程(平成16年達示第63号)」により、月額400円と定められている。
なお、寄宿料のほか、水道光熱費、自治会費を別途徴収する。

沿革

竣工は1913年(大正2年)。

旧制第三高等学校 (旧制)の学生寄宿舎の廃材を利用して建設された。
木造2階建てで、北寮、中寮、南寮と呼ばれる3棟および関連施設からなる。
東京大学駒場寮が閉寮した現在、現存する最古の大学寄宿舎である。

1897年(明治30年)の京都大学創立当時から、学生寄宿舎が設けられていた。

翌1898年(同31年)、1889年(同22年)竣工の(旧制)第三高等学校の学生寄宿舎が譲り受けられ、1913年にその材木を再利用して現在の吉田寮が建築された。

1941年(昭和16年)に中寮の一部を焼失したが、すぐに再建された。

1959年(昭和34年)、60年には民間の労働者寄宿舎が本学の学生寄宿舎に転用され、従来からの建物が吉田東寮、転用された建物が吉田西寮と呼ばれるようになった。

国立大学の寄宿舎・学生寮を廃止する全国的な流れの中で、薬学部構内にあった吉田西寮は取り壊された。
一方、学生らの反対運動(後述)により吉田東寮は現在でも存続し、京大生とその家族など約180名が生活している(京都大学の定める定員は147名)。
吉田東寮は単に「吉田寮」と改称され、現在に至っている。

1996年(平成8年)10月31日、近接していた学生集会所(サークル棟)向かいの建物からの失火が原因とされる火災で旧食堂の西側を焼失した。
一時は老朽化を理由に停止していたが、現在焼け残った旧食堂は吉田寮の各種催・ライブ・演劇などのイベント会場としての貸し出されている。

2007年1月16日未明、近接する学生集会所の1階からぼやが発生し、階段下の収納庫付近2平方メートルが焼けた。
サークル関係者と吉田寮の寮生らが初期消火を行い、消防車が到着してから火は20分ほどで消しとめられた。
けが人は出なかった。

2009年4月25日、産経新聞紙上で松本紘総長が「寮自治会と建て替えに向けた話し合いを開始した」と公表。

閉寮反対運動

京都大学では1970年代になって全国的に学生運動が退潮期に入っても、なお学生寮(自治寮)や一部の学部自治会、京都大学西部講堂などを拠点として運動が一定の勢力を保ち続け、「日本のガラパゴス」と呼ばれる状況を呈していた。

京大当局は70年代後半になってこれらの運動基盤の解体に着手した。
1977年(昭和52年)の「竹本処分」強行を経て、沢田敏男総長時代には吉田寮など学生寮の閉鎖に向け「学生寮の正常化」政策を進めた。

そして1982年12月、寮生側との協議や意見聴取などのないまま、評議会によって「吉田寮の在寮期限を昭和61年3月31日とする」(原文ママ)との決定がなされた。
これに対し、在寮生で構成する吉田寮自治会を中心に卒寮生も含めた廃寮反対運動が高まり、自主入寮選考の成功で寮生数は減少するどころか増加した。
そのため、「在寮期限」到来時には多数の寮生が居住するという事態に至った。
その一方で教養部自治会のように大学側の主張に同意する自治会が現れるなど、一時は思想や運動方針の相違に起因する自治会同士の対立も発生した。

西島安則総長時代の1989年(平成元年)春、京大当局(河合隼雄学生部長)と吉田寮自治会の間で合意が成立し、西寮の取り壊しなどと引き換えに事実上「在寮期限」は撤廃さた。
その結果、吉田寮はその後も京都大学の学生寮として存続することとなった。

新寮建て替え問題

1995年(平成7年)の阪神・淡路大震災を経て、近年本寮の耐久性、耐震性について学内外から疑問を持たれていた。
そこで、2005年(平成17年)には本寮の耐震調査の予算が承認され、外部の有識者による耐震調査が断続的に行われた。

2006年(平成18年)、本寮の存続に関わる大きな動きが起こる。

2月、吉田寮執行部は前年の耐震調査の結果を踏まえ、2006年度の総長裁量予算枠に吉田寮食堂の補修を申請する。
しかし6月になってその申請が却下されていることが判明、執行部は他の予算による請求の道を模索した。

8月、本学学生センターは「学生関連施設のための予算を獲得できるので、吉田寮の建て替え予算を申請しないか」という旨の提案を吉田寮に行う。
この提案は吉田寮側の事情もあり一度は断られたが、学生センターはこの事案を実質水面下で進めた。

9月末から10月上旬にかけて学生センター職員が二度にわたって吉田寮を訪問した。
その際、上記の建て替え予算案を提出する用意があり、吉田寮が立て替えを受諾するか否か、その回答期限が10月23日であると告げる。
これを受けて吉田寮では、受諾の可否とその際の交渉条件について昼夜議論がなされた。

そして10月23日、学内において建て替え問題に関する団交が開かれた。
大学側からは責任者として東山紘久副学長以下数名、吉田寮側からは寮生・学生・利用者ら80人が出席した。
2時間半に及ぶ交渉を行ったが結局合意が得られず、同年度における吉田寮建て替え予算の提出は見送られることとなった。

2008年10月1日、松本紘総長就任にともない、教育・学生・国際(教育) 担当の副学長として西村周三氏が就任。
その後行われた、寮自治会と大学当局との話し合いの場で、これまで得ていた確約の引き継ぎを求める寮自治会に対し、西村氏は吉田寮の早急な建て替えを提案する。

2009年4月20日、大学当局は寮自治会に「吉田南最南部地区再整備・基本方針(案)」を提出。
4月24日には、大学当局が吉田寮の建て替えに関する基本方針についての説明会が開催され、吉田寮側からは60名ほどの参加者があった。

入寮選考と入寮資格の拡大

吉田寮の入寮選考は吉田寮自治会によって行われている。
年に二度、春と秋に入寮選考期間が設けられ、自治会組織である「入寮選考委員会」が選考を担当する。

吉田寮では、前述の閉寮反対運動に関連して、入寮対象者を拡大していった。

1985年、それまでの男子学部学生のみという入寮資格を拡大し、女子学生の受け入れを開始した。

1990年度からは留学生の受け入れ、1991年度からは大学院生・聴講生・研究生・医療技術短期大学生(現在の医学部保健学科)を含めた全ての京大生を入寮募集の対象とするようになった。

さらに1994年度、「京都大学学生との同居の切実な必要性」が認められる者(身障者とその介護者、親子、夫婦等)も入寮募集の対象となった。

入寮資格の拡大に伴い、入寮希望者は増加し、近年の寮生数は京都大学の定める定員147名を大きく上回ることとなっている。
そのため、本来個室として運用されてきた部屋を相部屋にせざるを得なくなっている。

ちなみに、京都大学寄宿舎規程によれば、「学部学生に限り入舎させる」(寄宿舎規程第3条)との記述がある。
しかし、受験生用の募集要項や、京都大学の公式サイトによれば「本学学生」が入寮資格を持つことになっている。
これはつまり、大学当局も入寮資格の拡大を公式に追認しているということである。
事実、吉田寮や熊野寮が自主的に入寮資格拡大を行わなかった場合、女子学生(女子寮)や院生(室町寮)の受け入れ先はほぼ無いに等しい状態だった。
また、経済的に困窮した留学生も行き場を失っていた可能性がある。

著名な出身者

谷川徹三(1922年卒・哲学) 西田幾太郎を慕って入学、後に哲学者になった。
宗教的宇宙観に基づく諸民族の世界連邦を提唱した。
国際連合教育科学文化機関や平和運動など幅広い活躍を行い、法政大学総長も務めた。
詩人の谷川俊太郎は息子。
入学時は一高の一年先輩の三木清の下宿に転がり込んだが、後に入寮。
寮時代は、寮にいた友人らと盛んに議論を交わした。

鰺坂二夫(1932年卒・哲学) 日本教育学会の会長も務めた教育学者。

上野淳一(1934年卒・経済) 父の上野精一から1970年に朝日新聞社社長を継いだ。
1945年に戦争責任で朝日新聞の取締役を辞任し、小学校教師、大学事務官、最高裁判官秘書などを経たのち7年後に朝日新聞社に復帰。
後に上野は寮生活について次のように述べている。
「非常に良かった。先輩も良かったし、学生は全国の旧制高校から来ていてとても仲が良かった」
「共同通信の松方三郎が友人でね。私の部屋がみんなのたまり場だった」

桐栄良三(1943年卒・化工) ケミカルプロセスの権威で、日本学術会員も務め、1996年に勲二等旭日重光賞を受賞。

永井道雄(1944年卒・哲学) 教育社会学者。
国民的基盤に立った大学改革を唱えて東京工業大学教授を辞職し、朝日新聞論説委員になった。
1974年、民間人の登用の目玉として三木内閣の文部大臣に就任。
国立大学協会会長・岡本道雄京大総長とともに共通一次試験導入に取り組んだ。

檜学(1945年卒・医学) 島根医科大学医学部教授を経て学長に就任。
平衡神経科の第一人者として心身症とめまいの関係を解明した。
寮時代は戦争の真っ最中で、檜は次のように振りかえっている。
「いつ兵隊にとられるか分からない。戦場に行けば必ず死が待っている。そういった緊迫した状態で学問に打ち込んでいた。寄宿舎の連中は皆そうだった。それだけにお互いの連帯感は強かった」

松浦玲(1953年卒・放学、文学部国文)
小室直樹(1955年卒・理学部数学科) 大学卒業後は東京大学、マサチューセッツ工科大学、ハーバード大学などで学んだ。
年収100万円で学問三昧の暮らしを送ったが、1980年に栄養失調でダウン。
友人のすすめで生活費稼ぎに書いた「ソビエト帝国の逆襲」がベストセラーになった。
さらに田中角栄の礼賛で有名になった。
大学では有名な学生で「小室将軍」と呼ばれた。
1952年に「スターリンを殺せ、再軍備賛成」と主張して京大弁論部を除名させられた。
その後、寮の自室に軍事問題研究会の看板を掲げた。

岩見隆夫(1958年卒・法学) 毎日新聞社で、政治部記者としてロッキード事件や日韓癒着の取材で活躍。
サンデー毎日編集長を経て、役員待遇編集局顧問を務めた。

室田武(1967年卒・理学) 大学卒業後は経済学に転じ、一橋大学や同志社大学教授を務めて「エコロジーの経済学」を提唱した。

若狭雅信(1972年卒・言語) 在学中に同人誌で創作活動を始め、1977年に高城修三の筆名による「榧の木祭り」で芥川賞を受賞。
1968年後期の寮自治会委員長として学生部封鎖や総長団交を推進した。

篠原資明(1975年卒・美学)
市田良彦(1980年卒・経済) 社会思想学者。
大阪女子大学を経て神戸大学教授。
在学中は全学自治会同学会の委員長として竹本処分闘争以降の京大学生運動を導いた。
委員長時代に「つるし上げた」縁で、上田正昭名誉教授を大阪女子大学の学長にかつぎあげた。

徳永信一(1985年卒・法) 大阪HIV訴訟弁護団の一人として裁判を支えた。

色平哲郎(1989年卒・医) 卒業後は地域医療の世界に飛び込む。
地域医療のNGOの立場からマスコミからコメントを求められることも多い。

所在地

京都府京都市左京区吉田近衛町69番地。

※2004年度(平成16年度)より京都大学が国立大学法人となるのに伴い、住所は吉田近衛町官有地から地番がつけられた。

[English Translation]