京大天皇事件 (Kyodai-Tenno incident)

京大天皇事件(きょうだいてんのうじけん)は、1951年11月12日の昭和天皇の京都大学来学に際し、キャンパスに押しかけた多数の学生との間で混乱が生じ、京大の学生自治会である同学会に解散処分などが下された事件である。
「京大事件」とも称される。

背景

昭和天皇が関西地方巡幸の過程で京都市を訪れた1951年は、講和問題や賃上げ問題などをめぐって全般的に労働運動・学生運動が復活の動きを見せた年であり、京都でも労働運動が高揚していた。
京都入りした天皇の訪問先となっていた島津製作所三条工場では、訪問直前まで賃上げストが行われ(労資の紛争を天皇の目に触れさせたくない)関係者の気を揉ませた。
天皇の訪問が同様に予定されていた京都市役所前の「組合掲示板」ではそうした事態を皮肉り、(天皇の巡幸が社会問題の存在を掃き出し隠蔽するという意味で)「天皇はほうきである」という大書がなされた。
市当局は掲示板の撤去を要求、組合との間で徹夜交渉がもたれ、11月12日の天皇の来訪1時間前に目につかない場所に移すことで妥協が成立した。

市役所訪問後、天皇が進講を受けるため来学することが予定されていた京都大学でも、前年1950年以降、学生運動が高揚に向かっていた。
全日本学生自治会総連合では少数派(非主流派)であった所感派の思想的・政治的影響下にあった当時の同学会(京都大学の全学学生自治会)は、1950年度のレッド・パージ粉砕闘争を主導した。
これに対し大学当局(服部峻治郎学長)はすべての学生ストライキ禁止の措置で臨んだため、多くの処分学生を出すことになった。
このため、1951年に入っても騒然とした学内状況が続いていた。
同学会は天皇来学に際し、(当時の左翼勢力の主流がしていたように)天皇制反対を声高に訴えるのでなく「歓迎もしなければ拒否もしない」「(天皇を)一個人として迎える」という態度を取り、学生と天皇との会見を要求していた。

天皇の京大来学

天皇の来学に先立ち、京大吉田(本部)キャンパスでは、2,000人にのぼる学生・教職員などが正門近くの本部(時計台)前広場(画像参照)に見物(あるいは歓迎)に押しかけた。
吉田分校(現在の総合人間学部キャンパス)の門前には縦3m・横2mに及ぶ「天皇へのお願い」と題された看板が立てられた。
この時、正門外で突然毎日新聞社の車が「君が代」を流したため、これに反発した学生の中から反戦歌「平和を守れ」の歌声が流れ、次第に大合唱となった。

騒然とした雰囲気のなか、正午過ぎの午後1時20分天皇は自動車に乗って到着し、進講のため本部の会議室に入った。
進講者の一人である瀧川幸辰(のち京大学長)によれば、この時天皇制廃止を記したプラカードを掲げた学生たちが正面玄関に殺到する行動があった。
反戦歌の合唱は天皇が建物の中にいる最中ずっと続けられ、さらに学生が増えたため時計台前の群集は車の進路を塞ぐ形になった。
大学当局は大学から出ていく天皇のために進路を確保するべく警官隊を学内に導入した。
これに抗議する学生の声と合唱の中で天皇は警官隊の人垣を通って午後2時過ぎに京大を去った。
この間、(前記のプラカード学生の突出した行動を唯一の例外として)学生たちは天皇一行の出入りを遠巻きに合唱していただけで、特にこれを妨害する行動はとっていない。
若干のもみ合いを除けば学生と警官隊との衝突(乱闘)というような事態はなかったため、一人の逮捕者も発生しなかった。

学生の「公開質問状」

京都大学同学会は5ヵ条からなる「公開質問状」を作成し、天皇に渡すことを計画していたが拒否された。
「私達は一個の人間として貴方を見る時、同情に耐えません」で始まるこの質問状は、当時学生であった中岡哲郎(のち大阪市立大学教授)の執筆によるものであった。
先述のように現実の社会矛盾が取り繕われ隠蔽されたなかで天皇が多額の公費により巡幸を行っていることを悲しむとともに、米軍占領下での再軍備や朝鮮戦争が進行していた当時の情勢を踏まえ、日本が戦争に巻き込まれそうになった時の対応などを問うものであった。
また「貴方が今又、単独講和と再軍備の日本でかつてと同じような戦争イデオロギーの一つの支柱としての役割を果たそうとしている」と、天皇の戦争責任や政治利用というタブーにも言及していた。

関係者の処分

何ら暴力的な事件が起こっていなかったにもかかわらず、翌11月13日、衆議院文部委員会では、大学管理法案審議の過程で天野貞祐歴代の文部大臣がこの「事件」に言及した。
大学当局は11月15日に同学会の解散命令を下し、11月18日には同学会幹部8名の無期限停学処分を発表した。
来学当日、群集整理に協力しむしろ混乱を鎮める側に回っていた同学会に厳しい処分が下されたのは、先述した公開質問状の内容と、それに対する世論の反発(後述)を考慮したことによるものと考えられている(解散された同学会は1953年に再建された)。

11月26日には衆議院法務委員会に服部学長と同学会委員長が喚問される事態となり、政府(第3次吉田内閣)および与党自由党はこの事件をきっかけに大学への警官の自由な立ち入りを認めさせようと画策した。
また京都地方検察庁は公安条例違反による関係者の起訴を考えていたが、関係者を取り調べた結果、条例に違反するような事件は発生していないとみなし立件を断念した。

当時の反応

この事件と同じ1951年、同学会を中心に京大生が企画・開催した「綜合原爆展 (京大)」は盛況を呼び、京都市民から好意的に迎えられていた(「質問状」でも天皇の原爆展参観を要望している)。
そして事件後、作家野間宏は同学会宛にメッセージを寄せ、学生たちの「行動の正しさ」を讃えた。
しかしこの事件に関して京大生や同学会に対する好意的反応は少数派であり、「京大を廃校にせよ」「貴方たちは狂人ですか」といった非難が集中した。
特に11月13日付で「天皇への無礼と京大の責任」なる論説を掲載した京都新聞を初めとして新聞は学生側を強く非難し、常軌を逸した「不敬罪」であるかのように書き立てた。
このため、京都市民の反応はおおむね厳しいものであった。

事件を扱った作品

城山三郎『大義の末』1959年
「公開質問状」執筆者の中岡哲郎とほぼ同世代の作家である城山の自伝的小説。
質問状の内容について言及がある。

[English Translation]