五節舞 (Gosechi no Mai)

五節舞、五節の舞(ごせちのまい)とは、大嘗祭や新嘗祭に行われる豊明節会で、大歌所の別当が歌う大歌に合わせて舞われる、4~5人の舞姫によって舞われる舞。
大嘗祭では5人。

舞姫は、公卿の娘2人、受領・殿上人の娘2人という風に選ばれた。
選ばれた家は名誉であった。
また、女御が選ばれることもあった。

選ばれた舞姫は練習に明け暮れ、新嘗祭の前々日である丑の日の夜に宮中へ参上、直に、「帳台試(ちょうだいのこころみ)」と称して常寧殿にて天皇に練習を披露した。
前日の寅の日には「御前試(おんまえのこころみ)」と称して清涼殿にて天皇に練習を披露した。
さらに、当日の卯の日に「童女御覧(わらわごらん)」と称して舞姫に付き従う童女を清涼殿にて天皇が御覧になった。
このように、天皇自身からの試験も厳しかった。

この舞は、天武天皇の時代、吉野に天女が現れて舞ったとの伝説に依拠している。
五度、袖を振って舞う。
袖を振るのは呪術的であり、新嘗祭の前日に行われる鎮魂祭とも同じ意味があると考えられる。

また、『春秋左氏伝』昭公 (魯)元年条に「先王之楽、所以節百時也、故有五節。遅速、本末以相及。」とある。
これを西晋の杜預が「五節=五声」として先王が5つの音調を用いて楽を作って民衆を教化したと解している。
このため、天武天皇は大陸の礼楽思想を取り入れる意図をもって五節舞を考案したとする見方もある(なお、聖武天皇が元正上皇のために孝謙天皇(孝謙天皇)に五節舞を舞わせた際に、天皇が上皇に対して「天武天皇が天下統治のために礼と楽を整備するために五節舞を考え出された」と述べている(『続日本紀』天平15年5月辛丑条))。

五節舞の情景を描写した、僧正遍昭のの歌が有名である。
「天つかぜ 雲の通ひ路吹きとぢよ をとめの姿しばしとどめむ」

帳台試
常寧殿の西塗籠の内帳台の上に長筵を敷く。
その上に舞姫の座を敷き、その前にそれぞれ白木の灯台1本を立てる。
東の帳台の西南角に幔を引いて小哥(当世の歌を歌う人)の座、北庇塗籠のうちを大師(舞姫に舞を教える人)の局とする。
大哥(古風の歌を歌う人)は同殿東の仮座に候し、殿内の四隅に舞姫の休息所である五節所を設ける。
時になれば舞姫は玄輝門に参入し、車を下りてから公卿が束帯してこれに従い、各自定められた五節所に入る。
舞姫の参入の由を聞いて天皇は直衣指貫に沓をはき、清涼殿東庇北の階下から、承香殿西南隅に仮に架けた長橋、承香殿南簀子、同馬道后町廊、常寧殿馬道その他の順路を経て大師の局に入る。
殿上の侍臣が脂燭に候し、近習の公卿が両3人供奉する。
舞姫1人ごとに火取を持つ童女、茵を持つ童女1人、几帳3本を持つ下仕および理髪の女房を先立てて舞殿にはいり来て、舞姫らは茵に座し北向し、西を上にして並び座す。
ついで大哥が后町廊の辺に座し、大哥、小哥が発声し、舞が始まる。
その間、理髪の女房、童女、陪従、下仕などの介錯の女房以外は、同殿にはいることを許されず、蔵人頭もしくは行事蔵人のほかは戸外に伺うこともできない定めであった。
舞が終わって、舞姫が退出する。

鎌倉時代を経て室町時代になり、その式目は変化し、「代始和抄」には、以下の記述がある。
「昔は常寧殿にして此の事あり。
官庁にて行はるる時は、西庁七茵間をもて、北二間をば大師の局と名づく。
之を帳台とも云ふ。
昔は舞姫参入の儀式など事々しくありけり。
今は暁参りとてひそかに参ず。
帳台試といふは、主上自ら大師の局に出御なりて、舞姫を御覧する事なり。
この時は、主上御直衣に御指貫を著御あり。
これは殿上人に立ちまぎれおはします由なり」。

[English Translation]