サンシー事件 (Sanshi Incident)

サンシー事件(サンシーじけん)は、明治初期の沖縄県で起きた、県役人殺害事件をいう。

概要
県政不服従の盟約
1879年(明治12年)4月、日本は琉球王国を廃止し、沖縄県を設置した。
ほどなくして、宮古島に首里から20名の警官が来島し、旧王朝以来の島役場「在番仮屋」を訪れて、在番代表の仲村親雲朝諒に、以下のように伝達した。
「廃藩置県を行ない、旧国王尚泰の支配する「琉球藩」を廃したうえ、日本から送る県令を執政官とする「沖縄県」を設ける。」
「よって仲村ら島の高官を免職する。」
「頭(かしら。今日の中間管理職程度の役職)以下は再任することになった。」
そして、辞令を交付した。

しかし頭以下の者は「病気である」とか「その器ではない」などと申し出て、全員出仕を拒否してしまった。

これより前、王府から沖縄県庁に対する不服従の指令を各地に発しており、ここ宮古島でも、仲村、与那覇親雲上、亀川恵備ら旧吏を中心に盟約を作り上げた。

士族であるか平民であるかを問わず島民全てみな署名血判して書状を作成していた。
無論士族に強制されてやむなく、という平民もいた。

条文にはさらに違約したときは当人を断頭に処し、親族を「所払ヒ」(流刑)にすることも付け加えられた。
頭以下の者が沖縄県の命に応じなかったのもこれが理由であった。

下地の仕官
やがて在番仮屋が廃されて、「沖縄県警部派出所」が設けられたが、島内の下里村在住の士族、下地利社(しもじ りしゃ)という25歳の若者が、同年7月8日、この派出所に通訳兼雑用人として採用され、県官吏の傭人として働くようになった。

島民はただちに盟約を破った下地の両親と弟を、約定に従い伊良部島へ所払ヒにした。
さらに下地本人にも制裁を加えようとしたが、勤務先が警察関係だけに実行に移すことができなかった。
ただ、沖縄県政賛成者、「サンシー(賛成)」として非難した。

ところで島には「藍屋井(アイヤカー)」という、天然泉井を利用した共同水汲み場があった。
下地が派出所に採用されてからさして日を経ないころ、島内の西仲宗根に住む金城松という者の妻が、藍屋井で他の婦女と「下地は殺されねばならん」などと噂をしていたところ、水汲みに来た下地と出くわしてしまった。
下地は、この女の髪を掴んで派出所門前まで引き立てた。

事件の発生
この話が島に広まると、同年7月22日、下里村の士族にして、以前は「下地頭」という旧吏でもあった奥平昌綱ら数名に率いられた島民約1,200名は、ある者は木棒、またある者は櫂、日用品の鈍器などまで手にして、口笛・法螺貝等を吹き鳴らしながら罵声を轟かせて派出所前に押し寄せ、四囲を取り囲んで投石を繰り返し、「下地を引き渡せっ」と迫った。

県吏は下地を屋根裏に隠し、抜刀して対抗したが衆寡敵せず、群衆は下地を引き出すと、十数町もズルズルと引きずり回した。

下里村の南方にある空き地にたどり着いたとき、奥平らが主唱して、盟約どおりに頭部を切断しようと巨木に縛めた。
すると誰が始めたかわからないが、おのおの凶器や素手で、動けぬ下地を散々になぶりはじめ、東仲宗根村の「不知畩(しらぬい)」という者が打擲した時、遂に息絶えてしまった。
群衆は遺骸を解き放ち、櫛原嶺の洞窟に投げ棄てた。

事件の処理
そのころ県内各島を巡回中であった警部安楽権中を乗せた汽船が、島の漲水港に入港するところであったが、大騒擾を傍観していた島民から事情を聞くと、踵を返して那覇市へ戻り、宮古の異状を伝えた。
沖縄県警察部の園田安賢二等警視補は、3名の警部と巡査45人とともに島に急行。
「竹鋸等を相携え、在番所近傍の山上に群れ集っていた」兇徒を散消させ、その日から旧吏員らに事情を聞き始めた。

すると先の「盟約」やそれに関連する旧王朝要人の存在などが明るみに出たので、県庁に仔細報告の上、厳しい取調べを始めた。
全島から30通以上の血判状が発見され、首唱者も特定できた。

同年8月2日、首謀者・奥平昌綱は捕らえられ、那覇に送られて県庁で懲役5年を申し渡された。
平民計佐(ケーサ)と士族6名も1~5年の懲役刑に処せられたが、死罪者はなかった。

以後県は県民、とくに支配層に懐柔策をとるようになった。

下地の亡骸は、派出所警官が引き上げ、県が嘆願して政府から下賜された埋葬料25円、遺族扶助料90円をもって那覇の寺院に改葬された。
さらに1921年(大正10年)、弟である下地利及は、移送して宮古島の一族の墓に再葬し、生家脇に事件を記した墓碑を立てた。
周辺の者が事件の詳細を尋ねてきたが、彼はただ泣くだけで何も答えなかったという。

墓碑は戦災にも耐え、宮古島市西仲宗根の地に市指定史跡として現在も残っている。

[English Translation]