禅 (Zen)

禅(ぜん, Zen. 禅宗)は、達磨がインドから中国に伝えて成立したとされる大乗仏教の一派。

不立文字を原則とするため中心的経典を立てず、教外別伝を原則とするため師資相承を重視する。
そのための臨機応変な以心伝心の方便など、種々の特徴をもつ宗派である。
坐禅を基本的な修行形態とするが、坐禅そのものは古くから仏教の基本的実践の重要な徳目であり、坐禅を中心に行う仏教集団が禅宗と呼称され始めたのは中国の唐代末期からである。
後に、禅宗発祥に伴ってその起源を求める声が高まり、初祖と考えられたのが達磨である。
達磨のもたらした禅は部派仏教における禅とは異なり、了義大乗の禅である。

概念

単に禅という場合は一般に禅宗を指すが、文脈や場合によって禅那を指す。

歴史

仏祖ゴータマ・シッダールタ(釈迦、仏陀)が不立文字・教外別伝の正法としてマハーカーシャパ(十大弟子)に仏法伝授の使命を授け、以来受け継がれて28代目のボーディダルマ(菩提達磨)に至った。
中国では達磨から6代つたわって大鑑禅師に至り、五家七宗の勃興後に虚堂智愚から日本の大応国師、大燈国師へと伝わって今日に至る。
仏心宗、達磨宗、楞伽宗と呼称された時代もあった。

教義

全ての人が例外なく自分自身の内面に本来そなえている仏性を再発見するために、坐禅と呼ぶ禅定の修行を継続するなかで、仏教的真理に直に接する体験を経ることを手段とし、その経験に基づいて新たな価値観を開拓することを目指す。
そうして得た悟りから連想される般若を以て諸行無常の十二因縁を明らかにし、次いで因縁を滅ぼして苦しみの六道を解脱して涅槃に至り、その後に一切の衆生を導くことを目的とする。
そのため師家が修行者に面と向かって臨機応変に指導する以外には、言葉を使わずに直に本性を指し示す道であるとされる。

主な修行形態として坐禅を採用するのは、達磨大師が坐禅の法を伝えたとする以外にも、古来より多くの諸仏が坐禅によって悟りを開いてきたからであるとされる。
最近は、坐禅によってセロトニン神経が活性化され鍛えられることや、通常とは異なる独特なアルファ波が発生することが、精神的安定や心身の健康の一因であるという生理学教授もいる。
ただし、自分も根本的には仏祖と同一であるという境地に到達した者には、一切の行動にことごとく仏道が含まれているという価値観が生じるため、坐禅に限らず念仏や読経も行うようになる。

禅宗においては、そもそも禅宗とはなにかといったメタな問いかけを嫌う傾向にある。
そのような疑問の答えは、坐禅修行によって得た悟りを通して各々が自覚する事が最上であるとされ、もし人からこういうものだと教わりうる性質のものであるならば、それは既に意識が自身の内奥ではなく外へ向かっているため、内面の本性に立ち返るという禅宗の本意に反するとされるからである。
もう一つの理由として、概念の固定化や分別を、わがままな解釈に基づく「とらわれ」「妄想」であるとして避けるためであり、坐禅修行によってとらわれを離れた自由な境地に達してのちに、そこから改めて分別することをとらわれなき分別として奨励するからである。

文字や言葉で教えることを避けて坐禅を勧める理由として、世尊拈華、迦葉微笑における以心伝心の故事を深く信奉しているという以外にも、自分の内奥が仏であることを忘れて経典や他人の中に仏を捜しまわることがかえって仏道成就の妨げになるからであると説く。
沢庵宗彭和尚がたとえて言うには、下記のとおりである。
「水のことを説明しても実際には濡れないし、火をうまく説明しても実際には熱くならない。
「本当の水、本物の火に直に触ってみなければはっきりと悟ることができないのと同様。」
「食べ物を説明しても空腹がなおらないのと同様」
実際に自身の内なる仏に覚醒する体験の重要性を説明し、その体験は言葉や文字を理解することでは得られない次元にあると説き、その次元には坐禅によって禅定の境地を高めていくことで到達できるとする。

禅宗の坐禅における禅定の種類

禅宗における坐禅には四種類ある。

愚夫所行禅

凡夫・外道が、単に心をカラにして分別を生じないのを禅定だと思っている境地。
達磨大師は、内心に悶えることなく外に求めることもないこの境地が壁のように動かなくなれば、そこではじめて仏道に入ることができると説く。

観察相義禅

小乗・三賢の菩薩が、教わった仏法を観察し思惟する境地。
しかし、いまだ仏法・涅槃を求める強い欲心があるがために悟りを開けないでいる。
人々がいつまでも苦しみの輪廻を逃れられないのは、このように我が身にとらわれて自分さえよければと欲求することが、結果的に罪業を作る結果となるからである。
夢窓疎石禅師は、もし自分を忘れ一切の欲を投げ捨てて利他心を起こせば、すぐさま仏性が発揮されて生き仏になることができると説く。

攀縁如実禅

大乗の菩薩が、中道を覚って三業を忘れ、有るでもなし空 (仏教)でもなしと達観する境地。
生きとし生けるものすべての生滅の苦しみに同情し、苦しみを抜いて楽を与えるべく苦慮しており、その姿勢にはもはや自他の区別がない。
しかし衆生を救う願があるがために如来清浄禅に入ることができない。

如来清浄禅

如来と同じ境地に入り、みずから覚って聖なる智慧が現れたすがた。
禅宗で、坐禅によって本分の田地、本来の仏性に知らず知らずに立ち返るというのは、前記の二禅を飛び越え、愚夫所行禅から直にこの位に達することを意味する。
それゆえ十号も菩薩も枝葉末節であるとされる。

これらの上にさらに五つめの段階を設けて、如来清浄禅に安住せずに人々を教え導こうとする祖師禅があるといった古人もいる。

また、愚夫所行禅から如来清浄禅に至るまでの上達の様子については『鉄眼禅師仮字法語』に詳しい。

方便

方便法輪。
方便とは、仏祖・禅師の本意ではないものの、本意を伝える手段となりうるという意味で方便という。
またいかにすれば理法を体得できるかを模索する柔軟な心構えをいう。
教宗の学、真言宗の三密、律宗の戒律のようなものである。

只管打坐(しかんたざ)

ただひたすらに坐禅を実践せよの意味。
ひたすらとは禅定の深さを表現した言葉である。
意識を捨てて無意識下において坐禅する、坐禅そのものになりきることを意味する。
いま坐禅している自分がいる、という自覚すら忘れてしまうほどに、坐禅という行為そのものに没頭する。
この手法によって初心者でもより深い禅定の境地を容易に体験可能であるとされる。
ただ、禅宗は臨機応変であり、大乗仏教はあらゆる道に仏道が含まれていると考えるので、坐禅以外のことはしてはならないということはないが、このようなことは初心者には理解が及ばない。
そのために初心者向けの方便として只管打坐・修証一如こそが禅宗の極意であるということが言われる。
坐禅の境地には上下なく、坐禅すれば等しく仏であるという喝も、只管打坐を奨励する一種の暗喩的方便である。
ただし今世で悟りを開けずとも、坐禅の功徳によって来世では悟りを開く事ができるとされるため、坐禅をすればそのままただちに仏である(坐禅しなければいつまでも仏にはなれない)という意味通りの解釈も間違いではない。
仏道成就の早い遅いについて達磨いわく、心がすでに道である者は早く、志を発して順々に修行を重ねる人は遅く、両者には百千万劫もの時間差があるという。
深く正しく坐禅する者は早く、しなければ遅いという意味の一連の喝は、学習よりも坐禅の実践を強調する表現手法である。

公案禅(こうあんぜん)

達磨大師が西から旅をして来た理由は、国外の仏教の衰えを憂えて、悟るために重要なものが坐禅の実践であり、経典の学習ではないことを宣教するためであるとされる。
しかし、ひとまず思考・議論・学習を止めよと教えても、なぜ止めねばならないかについて思考・議論・学習を始めてしまうような思考癖のある修行者にとって、只管打坐は至難の方法となる。
そのような修行者は、いかなる経典を学ぶとも、悟りというものの共感が得られないために、想像をふくらませて解釈しようとする。
無理な想像は妄想となって理解に歪みを生じ、自ら生み出した曲解に妨げられてますます悟りから遠のくという事態は、昔から多くの師家を悩ませてきた。
経典を学ぶにしても、学び手に必要なものはまず悟りの体験である。
悟りというものは自分の心で自分の心を確認し、自分の心で自分の心を理解するものである。
他人に頼って何かを明らかにするとか、自分以外の何かを利用して体得するようなものではない。
従って、悟るためには何よりもまず坐禅の実践によって自分自身と向き合うことが肝要である。
こうした問題意識から、思考癖のある聡い修行者に坐禅を実践させるために、禅師たちが考え出した方法が公案禅である。
修行者に公案を与え、行住坐臥つねに公案の答えを考えさせるのである。

公案(こうあん)

公案は直に悟りの境地を指し示したものであり、ひらめきと一体化した言い表せない感情的なものである。
心がけがよくなく、このままではまちがった方向に進むおそれのある修行者に対して、師家が薬のような意味合いで修行者に授ける。
内容は、昔の高僧の言葉を使うこともあれば、即興で作られることもある。
公案を与えられた修行者は、その言葉がどのような本意から創造されたかを正しく悟って、師家の前で心を以て回答することを要求される。
公案の多くが自己矛盾的文体を為しており、そのまま意味を理解しようとしても論理的に破綻する場合が多い。
公案の答えは常識的な思考の届かないところにあり、自己を消し去ることで矛盾を解消したり、矛盾を止揚して高次の段階で統一したものである場合が多い。
そういった答えに至る過程に禅の極意が含まれているとし、修行者を正しい悟りに導くための工夫の一つとされる。
ただし、このような学習を捨てて坐禅させるという方法は、師家の善良な監督下にあって庇護を受けることができる出家の僧侶に向けたものであり、在家の信者は坐禅と学習の両方を行う必要があるとされる。

内観(ないかん)

禅の修行が厳しく、師家のほうでも敢えて禅人を苦しめるのは、富貴で平穏あれば仏道を求めることが困難だからである。
釈迦が王位に就いて姫と歓楽に耽り、国中の財産を集めた贅沢三昧の生活を自ら捨てて出家して六年間の苦行をしたのも、このような理由であるとされる。
不意に病にかかり、気を失って死んだ方がましだと思うような病苦の中にあるときこそ必死に坐禅すれば、またとない大悟の機会となる。
たとえ大悟を得られなくとも、その時の苦しみを思い返せば多少の生活の苦しみは取るに足りなくなる。
また、無始無終の生死の迷いを打破し、如来の悟りに徹底するようなめでたい事は、少しばかりの艱難辛苦なしには得られるものではないという覚悟が必要であるとされる。

とはいえ参禅が限度を超えて神経衰弱の苦しみにある修行者を見かねた白隠禅師が、その治療方法としての内観の秘法を伝授した。
神経衰弱から来る禅病を直すための心身の休養方法であり、心身がもとより空虚なものであることを体験するために、24時間の睡眠と禅宗的なイメージトレーニングと数息観と丹田呼吸を行う。

二入四行

達磨が伝えたとされる二つの真理への至り方と、四つの実践方法。
悟りに至る方法は数多くあるが、それらはすべてこの二つに要約されるとする。

言葉の由来

サンスクリットのディヤーナ、パーリ語のジャーナ(Dhyāna,Jhāna サンスクリット)が中国で音写され禅那(ゼンナ)、禅(ゼン)になった。
正しい表記は禪、国語国字問題(当用漢字、常用漢字、教育漢字)以後は現表記となる。
現代北京語の発音はチャンである。

禅の字義は天・山川を祀る、譲り与える、開くといったもの。
これに心の働きを集中させるという意味を与えて禅となし、心を静かにして動揺させないという意味を与えて定とし、音写に意味を加えて禅定と意訳する。
圭峰宗密の著書禅源諸詮集都序には、禅の根元は仏性にあるとし、仏性を悟るのが智慧であり、智慧を修するのが定であり、禅那はこれを併せていうとある。
また、達磨が伝えた宗旨のみが真実の禅那に相応するから禅宗と名付けた、ともある。
他の訳に、思惟修(しゆいしゅう)・静慮(じょうりょ)・棄悪・功徳叢林・念修。
漢訳仏典には駄衍那(だえんな)・持阿那(じあな)と音写している例もある。

ディヤーナを現在の日本語にすると瞑想となる。
ちなみにヨーガ(yoga)も現在の日本語にすると瞑想とされるが、本来は心を調御して統一に導くことをいう。
瞑想は動作を言葉で説明する事ができるが、禅は不立文字である為、瞑想と禅は明らかに異なる物であり、本来は区別される。
この瞑想と禅の混同は英語等の語彙の少ない言語を介して訳されて生じると考えられる。

中国では禅定が同義語。
類似の概念として三昧(Samādhi、サンスクリット)がある。
「禅」あるいは「定」という言葉は、インドにその起源を持ち、それが指す瞑想体験は、仏教が成立した時から重要な意義が与えられていた。
ゴータマ・シッダッタも禅定によって悟りを開いたとされ、部派仏教においては「三学」(戒・定・慧)の一つとして、また、大乗仏教においては「六波羅蜜」(布施・持戒・忍辱・精進・禅定・智慧)の一つとして、仏道修行に欠かせないものと考えられてきた。

中国の禅
以下のように、『景徳傳燈録』などの中国禅の文献に記述されている。

インドではマハーカーシャパ(大迦葉)から法 (仏教)が順に伝えられ、ボーディダルマ(菩提達磨)によってインドから中国に、禅の教えが広められたと主張し、権威付けを行っている。

マハーカーシャパはバラモン階級出身の弟子で、釈迦の法嗣とされる(法の継承者)が、拈華微笑といわれている伝説が宋代の禅籍『無門関』に見られる。

禅が中国で実際に禅宗として確立したのは、東山法門と呼ばれた四祖道信(580年 - 651年)、五祖弘忍(601年 - 674年)以降である。

さらに六祖慧能(638年 - 713年)の名を使用し、弟子の荷沢神会が編纂したと考えられている『六祖大師法宝壇経(六祖壇経)』に新しい坐禅と禅定の定義が宣揚されたのを契機として発展したものと考えられる。

さらに『景德傳燈錄』に載せる、慧能の弟子の南嶽懐譲(677年 - 744年)とさらにその弟子の馬祖道一(709年 - 788年)の逸話によって坐禅に対する禅宗の姿勢が明らかとなる。

この部分に中国禅宗の要諦が尽されているが、伝統的な仏教の瞑想から大きく飛躍していることがわかる。
また一方に、禅宗は釈迦一代の教説を誹謗するものだ、と非難するものがいるのも無理ないことである。
しかし、これはあくまでも般若波羅蜜の実践を思想以前の根本から追究した真摯な仏教であり、唐代から宋代にかけて禅宗が興隆を極めたのも事実である。

般若波羅蜜は、此岸―彼岸といった二項対立的な智を超越することを意味するが、瞑想による超越ということでなく、中国禅の祖師たちは、心念の起こらぬところ、即ち概念の分節以前のところに帰ることを目指したのである。
だからその活動の中での対話の記録―禅語録―は、日常のロゴスの立場で読むと意味が通らないのである。

中国では老子を開祖とする道教との交流が多かったと思われ、老子の教えと中国禅の共通点は多い。
知識を中心としたそれまでの中国の仏教に対して、知識と瞑想による漸悟でなく、頓悟を目標とした仏教として禅は中国で大きな発展を見た。
また、禅宗では悟りの伝達である「伝灯」が重んじられ、師匠から弟子へと法が嗣がれて行った。

やがて、北宋代になると、法眼文益が提唱した「五家」観念が一般化して「五家」(五宗)が成立した。
さらに、臨済宗中から、黄龍派と楊岐阜派の勢力が伸長し、「五家」と肩を並べるまでになり、この二派を含めて「五家七宗」(ごけしちしゅう)という概念が生まれた。

さらに禅は、もはや禅僧のみの占有物ではなかった。
禅本来のもつ能動性により、社会との交渉を積極的にはたらきかけた。
よって、教団の枠組みを超え、朱子学・陽明学といった儒教哲学や、漢詩などの文学、水墨画による山水画や庭園造立などの美術などの、様々な文化的な事象に広範な影響を与えた。

臨済宗

晩唐の臨済義玄を宗祖とする。
唐末五代においては、華北に地盤を置いた臨済宗は、義玄の門弟三聖慧然、興化存奨以後、その宗風はさほど振るわなかった。
存奨系統の南院慧顒、風穴延沼らが一部でその法統を継承するに過ぎなかった。

北宋代になって、延沼の弟子の首山省念門下の汾陽善昭、広慧元漣、石門蘊聡といった禅匠が輩出して、一気に宗風が振るうようになった。
善昭門下に石霜楚円、瑯琊慧覚が出、蘊聡門下からは楊岐派の楊岐方会、黄龍派の黄龍慧南が出て、その一門が中国全土を制覇することとなった。

元 (王朝)の高峰原妙は、その宗風を、「痛快」という言葉で表現している。

黄龍派

宋代の中期以降に、慧南の系統が勢力を伸長し、楊岐派と共に、五家と肩を並べるまでになった。
慧南の門下から晦堂祖心、東林常聡、真浄克文が輩出し、祖心の弟子の死心悟新、霊源惟清が、克文の下からは兜率従悦、覚範慧洪らが出て活躍し、当初は、より盛んであった楊岐派よりも優勢になった。

楊岐派

黄龍派と同様に方会の系統が勢力を伸ばし、七宗の一に数えられるまでになった。
白雲守端の門下に五祖法演が出て、その門弟より、圜悟克勤、仏鑑慧懃、仏眼清遠という、「三仏」と称される禅匠が現われた。
南宋になっても、その勢いはとどまらず、克勤の門弟子、大慧宗杲は多数の門弟を集め、大慧派を形成した。
その他、虎丘紹隆の虎丘派、虚堂智愚を出した松源派、無準師範を出した破庵派なども活躍した。

潙仰宗

潙山霊裕・仰山慧寂を祖とする。
この系統も十国の荊南や南唐を中心として教勢を張ったが、その後は次第に衰退し、宋代にまで伝わることがなかった。

元の高峰原妙は、その宗風を「謹厳」という言葉で表現している。

雲門宗

雲門文偃を祖とする。
文偃門下の香林澄遠・洞山守初・徳山縁密らが唐末に一大勢力を形成し、五代末より北宋にかけて、隆盛を極めた。
宋代には、澄遠の系統から現われた雪竇重顕、文殊応真系統の仏日契嵩が活躍した。
重顕門下には、天衣義懐が出て、雲門宗の中興と称された。
その後も、仏印了元や大梅法英らの禅匠を輩出し、北宋代には、臨済宗と比肩する勢いを有していたが、北宋末には、次第に衰退していった。
南宋でも、『嘉泰普灯録』の編者、雷庵正受らが活躍したが、宗勢は振るわず、南宋末には系統が途絶えてしまった。

元の高峰原妙は、その宗風を「高古」という言葉で表現している。

曹洞宗

晩唐の洞山良价を祖とする。
良价、曹山本寂の系統は、五代十国の荊南や南唐に宗勢を張ったが、全体的には余り宗勢は振るわなかった。
本寂門下の曹山慧霞、雲居道膺門下の同安道丕、疎山匡仁門下の護国守澄、青林師虔門下の石門献蘊らの活躍が見られる程である。

北宋代になっても、余り宗勢は振るわなかったが、投子義青が出て中興を果たした。
その宗風は、芙蓉道楷、丹霞子淳に継承された。
道楷は、徽宗皇帝からの紫衣と師号の下賜を拒絶して、淄州(山東省)に流罪となり、災い転じて福となり、それが華北に曹洞宗が拡大する契機となった。

南宋代には、子淳の下から宏智正覚、真歇清了が出て、「黙照禅」と呼ばれる宗風を維持したが、その宗勢は、臨済宗には遠く及ばなかった。
なお、清了門下の天童如浄が、入宋した道元の師である。
正覚の門下からは、『六牛図』を著した自得慧暉が出た。
慧暉の系統が、その後の曹洞宗を支えることとなった。

河北に教勢を張った鹿門自覚の系統からは、金 (王朝)代になって、万松行秀が出現し、大いに教化を振るうこととなる。
行秀は、林泉従倫や雪庭福裕、耶律楚材らの多くの優れた門弟子を育て、章宗 (金)の尊崇を受けた。
福裕は、元 (王朝)朝において、道教の全真教の道士、李志常と論争して勝利を収め、嵩山の少林寺に住して教勢を張った。
以後、少林寺は、華北における曹洞宗の本拠となり、明の後半には、「曹洞正宗」を名乗ることとなった。

元の高峰原妙は、その特色を、「細密」という言葉で表現している。

法眼宗

「五家」観念の初源となった『宗門十規論』を著した法眼文益を祖とする。
五代十国では、呉越国王の銭氏一族が、永明道潜、天台徳韶、永明延寿らの法眼宗に属する僧らを保護したため、江南地方において、その宗勢が振るった。

宋代になると、徳韶、延寿の系統は衰退した。
代わって、清涼泰欽や帰宗義柔の系統が、その主となった。
泰欽門下からは、雲居道斉、霊隠文勝の師弟が出て活躍したが、次第に衰退に向かい、ついに北宋末には、その系統は断絶してしまった。

元の高峰原妙は、その宗風を、「詳明」という言葉で表現している。

日本の禅
日本には、公式には13世紀(鎌倉時代)に伝えられたとされているが、平安時代には既に伝わっており、檀林寺で禅が講義されたとの記録がある。
また、日本天台宗の宗祖最澄の師で近江国分寺の行表は中国北宗の流れを汲んでいる。
臨済禅の流れは中国の南宋に渡った栄西が日本に請来したことから始まる。
曹洞禅も道元が中国に渡り中国で印可を得て日本に帰国することから始まるが、それ以前に大日房能忍が多武峰で日本達磨宗を開いていた事が知られ、曹洞宗の懐鑑、義介らは元日本達磨宗の僧侶であったことが知られている。

鎌倉時代以後、武士や庶民などを中心に広まり、各地に禅寺(ぜんでら、禅宗寺院)が建てられるようになった。

臨済宗(りんざいしゅう)

詳細は「「臨済宗 日本における臨済宗」を参照
唐の臨済義玄を宗祖とする。
日本では中国から臨済禅を伝えた栄西に始まり、その後何人かの祖師たちが中国からそれぞれの時代の清規を日本に伝えたため分派は多い。
現在の日本の臨済宗は公案禅といわれ、江戸時代に白隠がまとめたスタイルである。
公案とは、裁判の公判記録のことであるが、転じて禅語録として伝えられる祖師たちの対話をいうようになった。
それぞれの判例を一則、二則と数える。
その対話を知ることにより悟りを知ろうとする。
公案は論理的な思考によって理解する事ができない内容が多い。

臨済宗のなかでは、妙心寺派が最大である。
江戸時代、宗学が発達し、無著道忠(1653年 - 1744年)が現われ、諸本を校訂し、綿密を究めた手法を確立し、膨大な著述を残した。
その著書は、近現代においても研究上の価値を失わない水準を有しており、影印版が実用書として出版されている。

曹洞宗(そうとうしゅう)

詳細は「曹洞宗 日本における曹洞宗」を参照
六祖曹渓慧能と洞山良价から曹洞宗とした。
日本では中国に渡り印可を得て1226年に帰国した道元から始まる。
帰国の翌年には普勧坐禅儀を著し、只管打坐を専らとする宗風を鼓舞した。
その修行内容は「永平清規」を厳しく守り、一時的な見性に満足してしまうことや坐禅の他に悟りを求めることを良しとせず、只管に坐禅を勤めることに特色がある。

道元は自分の教えは「正傳の佛法」であるとして党派性を否定し、禅宗と呼ばれることも嫌った。

初期は在家への布教にも熱心であったが晩年は出家第一主義の立場を取った(正法眼蔵十二巻本参照)。
その後総持寺開山瑩山の時代に、坐禅だけではなく、徐々に儀式や密教の考え方も取り入れられ一般民衆に対し全国的に急速に拡大した。
曹洞宗の坐禅は公案に拠らず、ただ、ひたすら坐る(只管打坐)ことがそのまま本来の自己を現じている(修証不二)としているが公案そのものを否定しているわけではなく、また、法系によっては公案を用いる流れも存在する。

普化宗(ふけしゅう)
9世紀に臨済録に登場する普化に因み始まる。
普化についての記録はほとんどない。
虚托(尺八)を吹きながら旅をする虚無僧(こむそう)で有名。
日本から中国に渡った心地覚心 が、中国普化宗16代目孫張参に弟子入りし、1254年に帰国することで、日本に伝わった。
本山は一月寺(現在の千葉県松戸市)に置かれていた。

江戸時代に幕府により組織化されたが、江戸幕府との繋がりが強かったため、明治になって1871年に明治政府により解体された。
宗派としては失われ、臨済宗に編入された(ちなみに一月寺は現在日蓮正宗に属する)。
しかし、尺八や虚托の師匠としてその質を伝える流れが現在も伝わっている。

黄檗宗(おうばくしゅう)
1654年(江戸時代)に、明から招かれた中国臨済宗の隠元隆き禅師により始まる。
臨済真宗を標榜しようとしたが幕府の許可が得られず、臨済の師黄檗希運の名を取り臨済宗黄檗派と称した。
明朝風の禅と念仏が一体化した念仏禅を特徴とし、読経が楽器を伴う明風の梵唄であることで知られる。
また、1663年に萬福寺に設けられた戒壇をはじめ、各地で授戒会を開いたことで、江戸時代の戒律復興運動に影響を与えた。
江戸時代を通じて一宗として見做されることなく、臨済宗の一派で終始した。
黄檗宗を名乗り、臨済宗から独立を果たしたのは、維新後の1876年のことであり、明治以後に禅宗中の一宗となった。

世界の禅(Zen Buddhism)
日本から世界へ禅が広まり、日本の禅が世界に最も良く知られている。

悟りを得たと言われている日本の学者鈴木大拙によって20世紀に日本からアメリカ合衆国、ヨーロッパへと禅が紹介され、曹洞宗の弟子丸泰仙によってヨーロッパで布教された。
21世紀現在では、臨済宗、曹洞宗共にアメリカやヨーロッパに寺院を構えている。

[English Translation]