真言宗 (Shingon Sect)

真言宗(しんごんしゅう)は、空海(弘法大師)によって9世紀初頭に開かれた、日本の仏教の宗派。
真言陀羅尼宗(しんごんだらにしゅう)、曼荼羅宗(まんだらしゅう)、秘密宗(ひみつしゅう)とも称する。
空海が中国(唐時代)の長安に渡り、青龍寺 (西安市)で恵果から学んだ密教を基盤としている。

同時期に最澄によって開かれた日本の天台宗が法華経学、密教、戒律、禅を兼修するのに対し、

空海は著作「秘密曼荼羅十住心論」(ひみつまんだらじゅうじゅうしんろん)、「秘蔵宝鑰」(ひぞうほうやく)で、空海が執筆していた当時に伝来していた仏教各派の教学に一応の評価を与えつつ、真言宗を最上位に置くことによって十段階の思想体系の中に組み込んだ。
最終的には顕教と比べて、密教(真言密教)の優位性、顕教の思想・経典も真言密教に摂包されることを説いた。

天台密教を「台密」と称するのに対し、真言密教を「東密」と称する。
真言宗の密教は東寺を基盤としたので「東密」と呼ばれた。

歴史

開宗

空海は、816年(弘仁7年)に高野山金剛峯寺を修禅の道場として開創し、弘仁14年(823年)に勅賜された教王護国寺(東寺)を真言宗の根本道場として宗団を確立した。

空海入定後

空海は入定に際して、住持していた寺院を弟子に付嘱した。

東寺は実慧、金剛峯寺は真然、神護寺は真済、安祥寺 (京都市)を恵運、寛平法皇(宇多天皇)が開基した仁和寺、醍醐寺は聖宝、円成寺は益信などがあった。
これらの寺院に年分度者(ねんぶんどしゃ)(国家公認の僧侶の養成)を許可され、それぞれの寺院が独立した傾向を持っていった。

本末争い(東寺と高野山)

観賢が東寺長者・金剛峯寺座主を兼ね、東寺を本寺とし、金剛峯寺を末寺とする本末制度を確立した。
東寺長者が真言宗を統括することになった。
金剛峯寺は、この本末争いに負けた後、落雷により伽藍・諸堂を焼失した。

また国司による押妨などにより、高野山は衰微し、無人の状態になるまでに至った。
この状態が平安時代中期まで続くが、藤原道長が高野山に登山(山上の寺社に参詣すること)したことにより復興が進み、皇族・摂関家・公家が高野山への登山が続いた。

その後、皇族・摂関家・公家などによる経済的な支援もあり、財政においても安定した。

覚鑁(かくばん)と高野山

師資相承を重視するために分派していった。
事相(真言密教を実践するための作法。修法の作法など)の違いによる分派であった。
教学(教義)そのものは、空海により大成されていたため、平安時代半ばまで、宗内での論争はあまりなかった。

しかし、11世紀末、覚鑁(興教大師)が高野山で秘密念仏思想を提唱した。

また、覚鑁は、大伝法院を創建、教学の振興のために大伝法会の復興を行った。
東寺の支配から高野山の独立を図り、東寺長者が金剛峯寺の座主を兼職する慣例を廃止し、金剛峯寺座主に任ぜられたが、金剛峯寺方(本寺方)の反発を受け失敗した。
その後、座主を辞して根来山(和歌山県)に隠棲した。

これより、金剛峯寺方(本寺方)と大伝法院(院方)の長く確執が続いた。
両派は、古義(古義真言宗)・新義(新義真言宗)に分かれていった。

豊山派・智山派

1290年(正応3年)に頼瑜が大伝法院を根来山に移し、大日如来の加持法身説(新義)を唱えて、新義真言宗の教義の基礎を確立した。
根来山は大伝法院を含めて根来寺となり隆盛を極めたが、1585年(天正13年)豊臣秀吉により、焼き討ちにされ灰燼に帰した。
そのため、1588年(天正16年)に専誉が長谷寺に入り、後に真言宗豊山派の総本山となった。
1601年(慶長6年)に徳川家康の保護を受けて、玄宥(げんゆう)が根来寺にあった智積院を京都・七条に再建し、後に真言宗智山派の総本山となった。

古義派教学の振興

南北朝時代 (日本)に東寺の僧、杲宝(ごうほう)・賢宝(げんぼう)らにより東寺不二門教学を大成させて、大日如来の本地加持説(古義)を説いた。

江戸幕府による統制

江戸時代に入ると、江戸幕府は仏教界に対して新たな宗教統制を講じた。
真言宗には1604年(慶長14年)に東寺・醍醐寺・高野山学侶方・関東真言宗古義法度などの法度が出された。
これにより、幕府の監視下に置かれることになった。

廃仏棄釈の打撃・明治政府による統制

明治維新以降、明治政府は神仏分離を推進した。
それに伴い、廃仏棄釈が起った。
真言宗の寺院は本山・末寺にかかわらず大きな打撃を受けた。
経済的には、政府の命令で、寺領の返納を要求して、強制的に返納させた。
没収もあった。
特権も廃され、勅願所・門跡の称号の禁止された。
これにより、多くの寺院の経営が立ち行かなくなり、廃寺に追い込まれた。
僧籍を離れて、還俗する僧侶も現れた。

大師信仰

宗祖・空海(弘法大師)への敬慕が厚い。
10世紀には高野山で空海の入定信仰が起った。
弘法大師信仰(大師信仰)を説いているのが真言宗の各派にいえる特徴の一つでもある。

宗祖・空海(774 - 835年)は、讃岐国屏風浦(現・香川県善通寺市)の出身で、仏教者であるとともに思想家、著述家、また「三筆」の1人に数えられる能書家として、後の日本文化に多大な影響を与えた人物である。
彼は延暦23年(804年)、遣唐使船に同乗して唐に渡り、長安・青龍寺の恵果から密教の奥義を授かった。
また、唐で多くの仏典、仏具、仏画などを得、日本へ請来した。

弘仁7年(816年)には高野山(和歌山県伊都郡高野町)の地を得て、ここに金剛峯寺を開創、弘仁14年(823年)には、平安京の官寺であった東寺を嵯峨天皇より下賜され、これら両寺を真言密教の根本道場とした。

835年(承和 (日本)2年)3月21日に、62才で高野山で入定(にゅうじょう)した。
空海が入定してから86年後の延喜21年(921年)に、弘法大師の諡号が醍醐天皇より贈られた。

真言八祖(しんごんはっそ)

密教がインドで起こり、中国を経て、空海(弘法大師)に伝えられ、日本で独立した宗派として真言宗を開くまでに、八祖を経て伝えられたとする伝承がある。
これを真言八祖(しんごんはっそ)という。

付法(ふほう)の八祖と伝持(でんじ)の八祖の二つがあり、空海は著作「秘密曼荼羅教付法伝」・「真言付法伝」で、真言密教の起源と付法の七祖・伝持の七祖(付法・伝持の八祖の内、弘法大師を除く七祖)の伝記や付法の系譜を記している。

本堂などに真言八祖((伝持の八祖)・絵像で制作されることが多い)を祀られているのが、真言宗の寺院の特徴の一つである。
(祀られていない寺院もある。)

付法の八祖

真言宗の法流の正系を示している。
教主大日如来の説法を金剛薩埵が聞いて教法が起こり、真言宗の教えが伝わった系譜である。

大日如来(だいにちにょらい)

金剛薩埵(こんごうさった)

龍猛菩薩(りゅうみょうぼさつ)

龍智菩薩(りゅうちぼさつ)

金剛智三蔵(こんごうちさんぞう)

不空三蔵(ふくうさんぞう)

恵果阿闍梨(けいかあじゃり)

弘法大師

伝持の八祖

真言宗の教えが日本に伝わるまでの歴史に関わった8人の祖師。
付法の八祖の内、大日如来、金剛薩埵は歴史上の人物ではないために除いて、2人の祖師を加えた。
八祖大師(はっそだいし)とも称される。

一人一人持ち物を持っているが、その持ち物は悟りの本質をあらわしている。

龍樹菩薩 : 大日如来の直弟子金剛薩埵(こんごうさった)から密教経典を授かって、世に伝えたといわれている。
(三鈷杵(さんこしょ)を右手に持っている)

龍智菩薩 : 龍猛から密教を授かった。
(経文を右手に持っている)

金剛智三蔵 : インドで龍智から密教を学んだのち唐へ渡り、「金剛頂経」を伝える。
(数珠を右手に持っている)

不空三蔵 : 西域生まれ。
貿易商の叔父に連れられて唐へ行き、長安で金剛智に入門。
「金剛頂経」を漢語に翻訳し、灌頂道場を開いた。
(外縛印(げばくいん)を結んでいる)

善無畏三蔵(ぜんむいさんぞう : インド生まれ。
大乗仏教を学び、さらに密教を受け継ぐ。
80歳になって唐に渡り、「大日経」を伝える。
(右手の人さし指をたてている)

一行禅師(いちぎょうぜんじ): 中国生まれ。
禅や天台教学、天文学、数学を学ぶ。
長安で善無畏に入門し、善無畏の口述をもとに「大日経疏(だいにちきょうしょ)」を完成させた。
(法衣のなかで印を結んでいる)

恵果阿闍梨 : 中国生まれ。
金剛界・胎蔵界両部の密教を受け継いだ。
(椅子に座り、横に童を待らせている)

弘法大師 : 恵果阿闍梨から金剛・胎蔵界両部を授けられ、日本に伝えて真言密教を開いた。
空海。
(五鈷杵(ごこしょ)を右手にもち、左手には念珠をもっている)

教義

真言宗は即身成仏と密厳国土をその教義とする。
本尊は宇宙の本体であり絶対の真理である大日如来。

所依の経典(基本の重要経典)は大日経(正式には大毘盧遮那成仏神変加持経/だいびるしゃなじょうぶつじんぺんかじきょう)と金剛頂経(正式には「金剛頂一切如来真実摂大乗現証大教王教」、または「金剛頂瑜伽真実大教王経」、「蘇悉地経」(そじつぢきょう)・「瑜祗経」(ゆぎきょう)・「要略念誦経」(ようりゃくねんじゅきょう)・理趣経(りしゅきょう)などである。

論疏(論文の類)は「菩提心論」(ぼだいしんろん)・「釈摩訶衍論」(しゃくまかえんろん)・「大日経疏」(だいにちきょうしょ)などである。

空海の著作、秘密曼荼羅十住心論(ひみつまんだらじゅうじゅうしんろん)(「十住心論・じゅうじゅうしんろん)・「秘蔵宝鑰」(ひぞうほうやく)・「辦顕密二教論」(べんけんみつにきょうろん)・「即身成仏義」(そくしんじょうぶつぎ)・「声字実相義」(しょうじじっそうぎ)・「吽字義」(うんじぎ)なども論疏としている。

三密((身密・手に諸尊の印契(印相)を結ぶ)、(口密(語密)・口に真言を読誦する)、(心密・心に曼荼羅の諸尊を観想する))の修行により、本尊と一体となり、即身成仏が実現するとしている。

事相と教相

真言密教を学んでいくうえで、「事相」(じそう)と「教相」(きょうそう)が重要視される。
事相は、教相の対語で、真言密教を実践する方法。
修法の作法(灌頂・護摩・観法・印契・真言などの行法)を指し、教相は、真言密教の理論である。
真言宗の主要経典「大日経」は教相の経典、金剛頂経は事相の経典である。

教相を学んでいくことで、真言密教の理論を理解し、理論を実践する方法を行うために事相を学ぶ。
教相の裏付けのない、事相は無意味な動作になってしまうという。

事相・教相の両方を学ばなければ、真言密教の理想への到達は出来ないとされている。
事相・教相の両方を習得する重要性を説くたとえとして、事相・教相を車の両輪に置き換えて説く場合がある。
また、慈雲は「事相を離れて教相なく、教相を離れて事相なし、事教一致して、密義をつくすべき」と述べた。

9世紀半ば(平安時代中期)から、事相の研究が盛んとなった。
益信(やくしん)に始まる広沢流(ひろさわりゅう)、聖宝(しょうほう)を祖とする小野流(おのりゅう)が起こった。
両派は、それぞれ六流に分かれて、野沢(やたく)十二流(根本十二流)になり、やがて三十六流になった。
その後、法流は、あわせて100余りを数えた。
真言密教の事相の流派は、すべて、広沢流・小野流の二流から分かれた。

広沢流・小野流(野沢十二流)

平安中期に益信に始まる広沢流、聖宝を始祖とする小野流が起こった。
両派は、それぞれ六流に分かれて、野沢十二流(やたくじゅうにりゅう)、または、根本十二流と称される。

野沢十二流の定義では、持明院流を広沢流に入れない。
また、中院流を小野流に入れない。
いずれの法流も、高野山に移ったためである。
これは、御七日御修法など公請の修法に関与しないために区別されただけで、野沢十二流は、東密事相の法流をすべてを示したものではない。

広沢流

特徴は、儀軌を重んじる。
寛朝が建立した京都市右京区嵯峨広沢にある広沢池の南にある遍照寺 (京都市)の所在地名が語源となっている。

広義では、東密事相を2分した場合、小野流の対をなす法流。
狭義では、広沢流内の法流、仁和三流、広沢三流をあわせて広沢六流と称する。
しかし、六流に属する法流は一定しておらず、観音院流・仁和御流系の北院流・慈尊院流などを入れる説もある。
保寿院流・仁和御流・西院流(にしのいんりゅう)を仁和三流と称し、華蔵院流・忍辱山流(にんにくせんりゅう)・伝法院流を広沢三流と称する。

広沢流系流派略系譜
仁和御流略系譜(派祖・覚法) 空海-真雅-源仁-益信-寛平法皇(宇多天皇)-寛朝-済信-性信-寛助-覚法
西院流略系譜(派祖・信証) 空海-真雅-源仁-益信-寛平法皇(宇多天皇)-寛朝-済信-性信-寛助-信証
保寿院流略系譜(派祖・永厳) 空海-真雅-源仁-益信-寛平法皇(宇多天皇)-寛朝-済信-性信-寛助-永厳
華蔵院流略系譜(派祖・聖恵) 空海-真雅-源仁-益信-寛平法皇(宇多天皇)-寛朝-済信-性信-寛助-聖恵
忍辱山流略系譜(派祖・寛遍) 空海-真雅-源仁-益信-寛平法皇(宇多天皇)-寛朝-済信-性信-寛助-寛遍
伝法院流略系譜(派祖・覚鑁) 空海-真雅-源仁-益信-寛平法皇(宇多天皇)-寛朝-済信-性信-寛助-覚鑁

小野流

特徴は、口伝口訣を重じる。
真言宗善通寺派大本山大本山随心院(旧称・曼荼羅寺)がある京都市東山区山科小野が語源となっている。
聖宝を小野流元祖、随心院を開創した仁海を小野流流祖とする場合もある。

広義では、東密事相を2分した場合、広沢流の対をなす法流。
狭義では、小野流内の流派、醍醐三流(理性院流・三宝院流・金剛王院流)と勧修寺三流(随心院流・安祥寺流・勧修寺流)を指す。
単に随心院流のみを指す場合もある。

小野流系流派略系譜
安祥寺流略系譜(派祖・宗意) 空海-真雅-源仁-聖宝-観賢-仁海-成尊-範俊-厳覚-宗意
勧修寺流略系譜(派祖・寛信) 空海-真雅-源仁-聖宝-観賢-仁海-成尊-範俊-厳覚-寛信
随心寺流略系譜(派祖・増俊) 空海-真雅-源仁-聖宝-観賢-仁海-成尊-範俊-厳覚-増俊
三宝院流略系譜(派祖・定海) 空海-真雅-源仁-聖宝-観賢-仁海-成尊-義範-勝覚-定海
理性院流略系譜(派祖・賢覚) 空海-真雅-源仁-聖宝-観賢-仁海-成尊-義範-勝覚-賢覚
金剛王院流略系譜(派祖・聖賢) 空海-真雅-源仁-聖宝-観賢-仁海-成尊-義範-勝覚-聖賢

古義派・新義派

真言宗は日本の仏教宗派の中では分派の多いものの1つである。
13世紀末に古義真言宗と新義真言宗に別れ、さらにそこから多種多様な教義が展開して現在に至っているのが特徴である。

古義派

大日如来の本地法身説の教学(古義)による。
現実世界の一事一物が法身(真理そのものを仏の身体とみなす)の大日如来の説法であると説いている。

新義派

覚鑁(かくばん)(興教大師)を派祖とし、大日如来の加持身説の教学(新義)による。
現実世界の一事一物は、加持身の大日如来の説法であると説いている。

真言宗各派総大本山会(各山会)

昭和14年(1939年)の宗教団体法成立により、真言律宗以外の宗派は真言宗として統合された。
しかし、戦後は分派独立が相継ぎ、現在は約50の宗派がある。
そのうち主要な16派の18の総大本山が、昭和33年(1958年)6月15日に、真言宗各派総大本山会(各山会)を各山の連絡親睦・共通事業の主宰を目的に結成された。
これらの寺院を真言宗十八本山という。

各山会の事務局 - 総本山智積院内

各山会に参画する真言宗十八本山(順不同)

古義真言宗系

金剛峯寺 - 高野山真言宗総本山

東寺 - 東寺真言宗総本山

善通寺 - 真言宗善通寺派総本山

随心院 - 真言宗善通寺派大本山

醍醐寺 - 真言宗醍醐派総本山

仁和寺 - 真言宗御室派総本山

大覚寺 - 真言宗大覚寺派大本山

泉涌寺 - 真言宗泉涌寺派総本山

勧修寺 - 真言宗山階派大本山

朝護孫子寺 - 信貴山真言宗総本山

中山寺 (宝塚市) - 真言宗中山寺派大本山

清荒神清澄寺 - 真言三宝宗大本山

須磨寺 - 真言宗須磨寺派大本山

新義真言宗系

智積院 - 真言宗智山派総本山

長谷寺 - 真言宗豊山派総本山

根来寺 - 新義真言宗総本山

真言律宗

西大寺 (奈良市) - 真言律宗総本山

宝山寺 - 真言律宗大本山

後七日御修法(ごしちにちのみしほ)

真言宗各派総大本山会所属の各宗派管長・山主と真言宗各派総大本山会所属の各宗派から選んだ定額僧(じょうがくそう)により、毎年1月8日から1月14日までの一週間(21座)、東寺・灌頂院にて後七日御修法を行っている。

構成(真言宗各派総大本山会所属の各宗派より選出された者)
大阿闍梨(真言宗各派総大本山会所属の各宗派管長・山主)
御手替(真言宗各派総大本山会所属の各宗派管長・山主)
二間観音供(1名)
神供(1名)
伴僧(4名)
十二天供(1名)
増益護摩供(1名)
咒頭(1名)
舎利守(1名)
息災護摩供(1名)
聖天(1名)
五大尊供(1名)
定額僧
随行
承仕
徒弟子
事務局
別当(1名)
大行事(1名)
小行事(1名)
用度(1名)
局長(1名)
後七日御修法は真言院御修法(しんごんいんみしほ)などと呼ばれ、通称は御修法(みしほ)と呼ばれている。
834年(承和 (日本)元年)空海(弘法大師)が宮中にて、国家安泰・玉体安穏(ぎょくたいあんのん)・万民豊楽(ばんみんぶらく)を祈って行われてから、毎年、宮中の恒例行事として正月に行われていた。

南北朝時代 (日本)の戦乱期などを含めて、数度、中断する時期があったが、後水尾天皇と醍醐寺座主義演の尽力により、1623年(元和 (日本)9年)に170年ぶりに復活された。
1871年(明治4年)に廃仏棄釈の影響により廃止されるまで行われていた。

釈雲照らの嘆願により、1883年(明治16年)に復活した。
そのときから、修法を行う場所を宮中から東寺・灌頂院に移した。

修法は、合計21ヶ座行われる。
金剛界法と胎蔵界法を1年置きに交互に修し、息災・増益の護摩と五大明王、十二天、聖天法などを併せて修する。

初日(開白)の1月8日には、宮内庁より、天皇の御衣を納めた唐櫃(からびつ)を捧持した勅使を東寺・灌頂院に遣わして、御衣を東寺灌頂院道場の内堂に安置する。
11日(中日)・14日(結願)は勅使が、東寺・灌頂院の道場に焼香して参拝をされる。
同日14日、勅使に御衣奉還の儀式を東寺灌頂院の前堂にて行い、後七日御修法は成満する。

真言宗最高の秘儀とされ、修法で使用する念珠・五鈷杵(ごこしょ)・袈裟などは、空海(弘法大師)が唐(中国)より持ち帰った法具である。
以前は、東寺長者(とうじちょうじゃ)が大阿闍梨を務めていた。

現在、修法を行う大阿闍梨(詳名・法務法印大阿闍梨、通称・大阿)は真言宗各派総大本山会所属の各宗派の管長・山主が毎年交代して務めているが、その年の大阿闍梨を務めた後に、真言宗長者に就任する。
任期は1年間。
就任時には、長者杖が贈られる慣習となっている。

結願後に限り、東寺灌頂院道場への一般参拝が許されている。

[English Translation]