法華経 (Hokke-kyo Sutra)

法華経(ほけきょう、ほっけきょうとも)は、大乗仏教の経典「サッダルマ・プンダリーカ・スートラ(saddharmapuNDariika-suutra)」(「正しい教えである白い蓮の花」の意)の漢訳での総称。
経の字をはずすと「法華」になるが、これは一般に「ほっけ」と発音する。

それぞれの意味はsad「正しい」「不思議な」「優れた」など、dharma「教え」「真理」、puNDariika「因果倶時・清浄な白蓮華」、suutra「仏の説いた経典」。

この経典に対する漢訳は十六種類が行われたとされるが、完訳が現存するのは『正法華経』(竺法護訳、2世紀)、『』(鳩摩羅什訳、5世紀)、『添品妙法蓮華経』(闍那崛多・達磨笈多共訳、7世紀)の三種である。
漢訳仏典圏では、鳩摩羅什訳の『妙法蓮華経』が、「最も優れた翻訳」として、天台宗教学や多くの宗派の信仰上の所依として広く用いられており、「法華経」は「妙法蓮華経」の略称として用いられる場合もある。

なお、鳩摩羅什訳『妙法蓮華経』観世音菩薩普門品第二十五は観音経として普及している。

概説

法華経は28品の章節で構成されている。
現在、広く依用されている智顗(天台大師)の教説によると、前半14品を迹門(しゃくもん)、後半14品を本門(ほんもん)と分科する。
迹門とは、出世した仏が衆生を化導するために本地より迹(あと)を垂れたとする部分であり、本門とは釈尊が菩提樹下ではなく久遠の昔にすでに仏と成っていたという本地を明かした部分である。
迹門を水中に映る月とし、本門を天に浮かぶ月に譬えている。
後世の天台宗や法華宗一致派は両門を対等に重んじ、法華宗勝劣派は法華経の本門を特別に重んじ、本門を勝、迹門を劣とするなど相違はあるが、この教説を依用する宗派は多い。

また、三分(さんぶん)の観点から法華経を分類すると、大きく分けて(一経三段)、序品を序分、方便品から分別品の前半までを正宗分、分別品から勧発品までを流通分と分科する。
また細かく分けると(二経六段)、前半の迹・本の二門にもにもそれぞれ序・正宗・流通の三分があるとする。

迹門

前半部を迹門(しゃくもん)と呼び、般若経で説かれる大乗を主題に、二乗作仏(二乗も成仏が可能であるということ)を説く。
二乗は衆生から供養を受ける生活に余裕のある立場であり、また裕福な菩薩が諸々の眷属を連れて仏の前の参詣する様子も経典に説かれており、説法を受けるそれぞれの立場が、仏を中心とした法華経そのものを荘厳に飾り立てる役割を担っている。

さらに提婆達多の未来成仏(悪人成仏)等、”一切の衆生が、いつかは必ず「仏陀」に成り得る”という平等主義の教えを当時の価値観なりに示し、経の正しさを証明する多宝如来が出現する宝塔出現、虚空会、二仏並座などの演出によってこれを強調している。
そして、この教えを信じ弘める行者は必ず世間から迫害されると予言するキリスト教やユダヤ教等セム系一神教にも共通する「受難劇」の視点も見られる。

本門

後半部を本門(ほんもん)と呼び、久遠実成(くおんじつじょう。
釈迦牟尼仏は今生で初めて悟りを得たのではなく、実は久遠の五百塵点劫の過去世において既に成仏していた存在である、という主張)の宣言が中心テーマとなる。
これは、後に本仏論問題を惹起する。

本門ではすなわちここに至って仏とはもはや歴史上の釈迦一個人のことではない。
ひとたび法華経に縁を結んだひとつの命は流転苦難を経ながらも、やがて信の道に入り、自己の無限の可能性を開いてゆく。
その生のありかたそのものを指して仏であると説く。
したがってその寿命は、見かけの生死を超えた、無限の未来へと続いていく久遠のものとして理解される。
そしてこの世(娑婆世界)は久遠の寿命を持つ仏が常住して永遠に衆生を救済へと導き続けている場所である。
それにより”一切の衆生が、いつかは必ず仏に成り得る”という教えも、単なる理屈や理想ではなく、確かな保証を伴った事実であると説く。
そして仏とは久遠の寿命を持つ存在である、というこの奥義を聞いた者は、一念信解・初随喜するだけでも大功徳を得ると説かれる。

説法の対象は、菩薩をはじめとするあらゆる境涯に渡る。
末法愚人を導く法 (仏教)として上行菩薩等の地湧菩薩たちに対する末法弘教の付嘱、観世音菩薩等のはたらきによる法華経信仰者への守護と莫大な現世利益などを説く。

妙法蓮華経二十八品一覧

前半14品(迹門)
第1:序品(じょほん)
第2:方便品(ほうべんぼん)
第3:譬喩品(ひゆほん)
第4:信解品(しんげほん)
第5:薬草喩品(やくそうゆほん)
第6:授記品(じゅきほん)
第7:化城喩品(けじょうゆほん)
第8:五百弟子受記品(ごひゃくでしじゅきほん)
第9:授学無学人記品(じゅがくむがくにんきほん)
第10:法師品(ほっしほん)
第11:見宝塔品(けんほうとうほん)
第12:提婆達多品(だいばだったほん)
第13:勧持品(かんじほん)
第14:安楽行品(あんらくぎょうほん)

後半14品(本門)
第15:従地湧出品(じゅうじゆじゅつほん)
第16:如来寿量品(にょらいじゅうりょうほん)
第17:分別功徳品(ふんべつくどくほん)
第18:随喜功徳品(ずいきくどくほん)
第19:法師功徳品(ほっしくどくほん)
第20:常不軽菩薩品(じょうふきょうぼさつほん)
第21:如来神力品(にょらいじんりきほん)
第22:嘱累品(ぞくるいほん)
第23:薬王菩薩本事品(やくおうぼさつほんじほん)
第24:妙音菩薩品(みょうおんぼさつほん)
第25:観世音菩薩普門品(かんぜおんぼさつふもんほん)(観音経)
第26:陀羅尼品(だらにほん)
第27:妙荘厳王本事品(みょうそうげんおうほんじほん)
第28:普賢菩薩勧発品(ふげんぼさつかんぼつほん)

法華七喩(ほっけしちゆ)

法華経では、7つのたとえ話として物語が説かれている。
これは釈迦仏がたとえ話を用いてわかりやすく衆生を教化した様子に則しており、法華経の各品でもこの様式を用いてわかりやすく教えを説いたものである。
これを法華七喩、あるいは七譬(しちひ)ともいう。

三車火宅(さんしゃかたく、譬喩品)
長者窮子(ちょうじゃぐうじ、信解品)
三草二木(さんそうにもく、薬草喩品)
化城宝処(けじょうほうしょ、化城喩品)
衣裏繋珠(えりけいしゅ、五百弟子受記品)
髻中明珠(けいちゅうみょうしゅ、安楽行品)
良医病子(ろういびょうし、如来寿量品)

成立と流布

法華経の成立は、釈尊滅後からほぼ500年以上のちのこととされ、現在の仏教学では主にBC50年からBC150年の間に成立したと推定されている。
したがって法華経の教えは、他の大乗経典と同様、歴史上のゴータマ・シッダールタ(釈迦)が直接的に説いた教えではないが、経典には上記のように「外道の論議を説くと謂わん」と、末世には法華経が信じがたく、外道(非仏説)であると誹謗するものが多くなると説かれる。
また、この経典は編纂した教団の置かれていた社会的状況を示唆しているという説もある。

なお、法華経には、上記の酔う法華七喩などの説話が多く収録されているため、一般大衆の信者を多く持つ教団によって作られたものであるという説もある。
中村元 (哲学者)は、長者窮子の譬喩で金融を行って利息を取っていた長者の臨終の様子から、貨幣経済の非常に発達した時代でなければ、このような一人富豪であるに留まらず国王等を畏怖駆使せしめるような資本家はでてこないので、法華経が成立した年代の上限は西暦40年であると推察している。
また渡辺照宏も、50年間流浪した後に20年間掃除夫だった男が実は長者の後継者であると宣言される様子から、古来インド社会はバラモンを中心とした強固なカースト制度があり、たとえ譬喩であってもこうしたケースは現実味が乏しく、もし考え得るとすればバラモン文化の影響が少ない社会環境でなければならない、と指摘している。

ユーラシア大陸での法華経の流布

この経は日本に伝わる前、ユーラシア大陸東部で広く流布した。
先ず、インドに於いて広範に流布していたためか、サンスクリット本の編修が多い。
羅什の訳では真言・印を省略する。
添品法華経ではこれらを追加している。

またチベット語訳、ウイグル語訳、西夏語訳、モンゴル語訳、満洲語訳、朝鮮語(諺文)訳などがある。
これらの翻訳の存在によって、この経典が広い地域にわたって読誦されていたことが理解できる。

中国天台宗では、法華経を最重要経典として採用した。
中国浙江省に有る天台山国清寺の智顗(天台大師)は、鳩摩羅什の『妙法蓮華経』を所依の経典とした。

日本での法華経の流布

日本では正倉院に法華経の断簡が存在し、古くからなじみのあった経典であったことが伺える。

606年(推古14年)に聖徳太子が法華経を講じたとの記事が日本書紀にある。

「皇太子、亦法華経を岡本宮に講じたまふ。
天皇、大きに喜びて、播磨国の水田百町を皇太子に施りたまふ。
因りて斑鳩寺に納れたまふ。」
(巻第22、推古天皇14年条)

615年には聖徳太子は法華経の注釈書『法華義疏』を著した (「三経義疏」参照)。

聖徳太子以来、法華経は仏教の重要な経典のひとつであると同時に、鎮護国家の観点から、特に日本国には縁の深い経典として一般に考えられてきた。
最澄によって日本に伝えられた天台宗は、明治維新までは皇室の厚い尊崇を受けていた。

聖武天皇の皇后である光明皇后は、全国に「法華滅罪之寺(ほっけめつざいのてら)」を建て、これを「国分尼寺」と呼んで「法華経」を信奉した。

天台宗の最澄は、自らの宗派を「天台法華宗」と名づけて「法華経」を至上の教えとした。

鎌倉新仏教においても法華経は重要な役割を果たした。
融通念仏を唱え融通念仏宗の祖となる良忍は後の浄土系仏教の先駆として称名念仏を主張したが、華厳経と法華経を正依とし、浄土三部経を傍依とした。
一方で浄土宗の祖である法然や浄土真宗を開いた親鸞などは、自らさとりに向かうことのできない凡夫の救いは浄土三部経に説かれているとし、それを正依としたが、法華経を批判する言葉は見いだせない。
阿弥陀仏の久遠成仏説などは法華経の影響といえる。
曹洞宗の祖師である道元は、「只管打坐」の坐禅を成仏の実践法として宣揚しながらも、その理論的裏づけは、あくまでも法華経の教えの中に探し求めていこうとし続けた。
臨終の時に彼が読んだ経文は、法華経の如来神力品であった。

日蓮の登場によって、「仏教の最高経典」{正法(妙法)}としての法華経の地位を不動のものにしようとする思想的系譜は一段と先鋭化を遂げた。
日蓮は、「南無妙法蓮華経」の題目を唱え(唱題行)、妙法蓮華経に帰命していくなかで凡夫の身の中にも仏性が目覚めてゆき、真の成仏の道を歩むことが出来る、という教えを説き、法華宗各派の祖となった。
ここにおいて、法華経信仰が日本全国の大衆にまで広まり始める。
日蓮教学の法華宗は、この経の題目(題名)の「妙法蓮華経」(鳩摩羅什漢訳本の正式名)の五字を重んじ、南無妙法蓮華経(五字七字の題目)と唱えることを正行(しょうぎょう)とする。

近代においても法華経は、おもに日蓮を通じて多くの作家・思想家に影響を与えた教典である。
主義の左右を問わず、近代の著名な法華経信仰者の人生に共通するのは、小市民的な栄達を嫌い、どこまでも己の理想のみに殉じていこうとする非妥協的な態度にあると言えそうである。
宮沢賢治(詩人・童話作家)や高山樗牛(思想家)、妹尾義郎(宗教思想家)、北一輝(右派革命家)、石原莞爾(軍人・関東軍参謀)らがよく知られたその例といわれている。

昭和20年太平洋戦争での敗戦後、法華経は女人成仏は可か否かなど一部の文言については進駐軍の意向もあり教学上、解釈の変更も一部の宗派では余儀なくされた。

法華経を所依の経典とする派の立場

法華経を所依の経典として重視する諸派は、法華経を、釈迦が晩年に説いたとする釈迦の法(教え)の極意{正法(妙法)}と位置づける智顗の教説を継承している。

文献学的研究者の立場

一方、文献学的研究では、法華経が、西暦紀元前後、部派仏教と呼ばれる専従僧侶独占に反発する教団によって編纂されたと推測する説もある。

文献学的研究に対する反応

法華経の成立が、釈迦存命時より数世紀後だという文献学の成果に対し、日本と他の大乗仏教圏諸国では受容の仕方が異なる。

日本の伝統教団では、師の教義を弟子が継承し発展させることは、生きた教団である以上あり得ることから、法華経をはじめ般若経、大般涅槃経など後世の成立とされる大乗経典は根無し草の如き存在ではない。
釈迦の直説を長い時を経て弟子から弟子へと継承される課程で発展していったものとして、後世の経典もまた「釈迦の教義」として認める、という類の折衷的解釈を打ち出す傾向がみられる。

それに対し、中国、インド・ネパール、チベット・ブータン、モンゴル・ブリヤート・トゥバ・カルムイク等のユーラシア大陸諸国そして台湾など、他の大乗仏教圏諸国の教団・信者は、このような文献学の成果を受容せず、信仰を揺るがす問題となっていないという説があるが、その調査等に関する典拠は不明である。

[English Translation]