本願寺の歴史 (History of Hongwan-ji Temple)

この項目では、親鸞を宗祖とする浄土真宗における本願寺の歴史について述べる。

親鸞の入滅

弘長2年(1262年)11月28日 (旧暦) 浄土真宗の開祖親鸞は三条富小路の善法坊で発病し、90歳をもって入滅。

翌29日午後8時に葬送。
下野国高田の顕智、遠江国池田の専信なども上洛し参列。
東山鳥辺野(とりべの)の南、延仁寺で火葬。

翌30日拾骨。
鳥辺野の北、大谷に墳墓を築き納骨。

廟堂

文永9年(1272年) 親鸞の末娘覚信尼が住む地、現在の東山区林下町(知恩院山門北の崇泰院あたり)に大谷廟堂を造営、親鸞の影像を安置。
寺院移転後は、この親鸞の影像を安置している寺を本願寺とするのが妥当と考えられている。

守護をする留守職(るすしき)は覚信尼が当たる。
以後、尼の子孫を留守職の後継者と定め、後の本願寺の血脈相続の基礎を築く。
留守職は覚信尼から覚恵・覚如両人へ受け継がれる。

亀山天皇(在位1259-1274)より『久遠実成阿弥陀本願寺』(くおんじつじょうあみだほんがんじ)という号を賜るが、その後内紛のため廟堂は破壊された。

正和元年(1312年) 三代覚如は廟堂を再建、寺院化し専修寺(せんじゅじ)とした。
(尚、同じ浄土真宗系の高田派本山専修寺と直接の関係は無い)
ところが比叡山衆徒の抗議により、その後本願寺(大谷本願寺)と称す。

覚如は、親鸞の全門弟を本願寺の下に統合しようと図る。

『口伝鈔』を著し、浄土真宗の教えが、法然から親鸞、親鸞から孫の如信へ、如信から覚如に口伝されたとする。
このことは、本願寺住持の覚如は、教えの上からも親鸞を継承することを表明した。

だが現実問題として、長年培ってきた経済力、場合によっては軍事力を有する延暦寺以下の既存寺院に対抗して京都の中で独自の教団を打ち立てる事は困難であった。
正和以後も元徳2年(1330年)・観応3年(1352年)・嘉慶_(日本)2年(1388年)にも弾圧を受けており、浄土真宗の他派が東国などで勢力を広めている間にも、逆に本願寺のみは衰退して延暦寺の支配下にあった青蓮院の末寺として延暦寺への忠誠と念仏の禁止を条件として存続を許されているという状況であった。

浄土真宗の発展と本願寺の形成

当時浄土真宗は本願寺に一本化されたわけではない。
地方には教団が乱立していた。
真仏・顕智の系統をひく高田門徒(専修寺を中心とする)・荒木門徒・和田門徒。
他にも鹿島門徒・伊達門徒・横曽根門徒が有力であった。
特に高田門徒は非常に盛んであった。
また、了源の教団は、京都の仏光寺を中心にして「名帳」「絵系図」によって発展をとげた。

本願寺は、覚如の後、善如・綽如・巧如・存如と続いた。
その間、本願寺は、近江国や北陸地方を中心に、徐々に教線を拡張した。

明徳元年(1390年) 第5代綽如は、越中国(富山県)井波に瑞泉寺 (南砺市)を建立。

第6代巧如もここで北陸への布教活動を行う。
つづく存如の時代に一段と前進し、近江国(滋賀県)・加賀国(石川県)・能登国(石川県)・越前国(福井県)などで本願寺教団の形成がみられる。

本願寺にも御影堂と阿弥陀堂の両堂が建てられた。
ただし、この時の無理が祟り、本願寺の財政は逼迫したと言われている。

蓮如継職

応永22年(1415年) 蓮如、存如の長男として誕生。
17歳のとき青蓮院で得度。
諱を兼寿、法名を蓮如と称する。

宝徳元年(1449年) 蓮如35歳、父存如と北陸におもむく。
蓮如は、遠く奥州まで各地の親鸞の遺跡を巡拝、門徒を教化。

長禄元年(1457年)6月18日 (旧暦) 存如が62歳で入寂。
存如の妻如円尼は実子の蓮照に継職させようと図ったが、存如の弟如乗の支持で蓮如が本願寺第8代を継いだ。
ときに蓮如43歳。

蓮如が第8代となった当時の本願寺は衰亡の極みにあり、宗派の中心寺院としての格を失い、青蓮院の一末寺に転落していた。

そのころ京都は土一揆で騒然。
翌々年には大飢饉で、加茂川が餓死者で埋まる。
諸国は戦乱が絶えず、深刻な様相を呈していた。

社会は徐々に進展し、民衆が力を得た。
農村の生産力の増大と、荘園領主の没落で、農民の地位はしだいに向上し、やがて自治的な惣村をつくる。
蓮如はこうした社会の動きに機敏に対応し、積極的な伝道を開始した。
蓮如の熱烈な伝道に共感する門徒は、近畿から東海地方にひろがった。
特に近江(滋賀県)では広く帰依し、村々には無碍光本尊が普及した。
これは比叡山にある天台宗の延暦寺を強く刺激した。

寛正6年(1465年) 大谷本願寺は、比叡山の僧兵によって破却された。

文明 (日本)3年(1471年) 京都から近江に難をさけた蓮如は、越前(福井県)吉崎御坊に移った。

同7年(1475年) 蓮如は争いを鎮静化させるため吉崎を退去し、河内(大阪府)の出口を拠点に積極的な伝道を開始。
結果、浄土・聖道諸宗の僧俗が多く帰依。

同10年(1478年) 蓮如、出口から山科へおもむき、翌年1月本願寺造営に着手。

同15年(1483年) 山科に御影堂・阿弥陀堂・寝殿など諸堂舎が完成。
(山科本願寺)

長享2年(1488年) 一揆衆は加賀において共和国「百姓のもちたる国」を樹立。

伽藍の整備と平行し、寺の周辺に多数の民家が営まれ、寺内町を構成した。
ここには諸国から参詣人や各職種の人たちが集い、京都市中をしのぐ盛況を呈する。

本願寺の教線は、北海道から九州にいたる全国にのびた。
さらに中国大陸北部の契丹人も教えを求めて来日した。
蓮如によって本願寺は日本有数の大教団に成長した。

延徳元年(1489年) 蓮如75歳。
実如に本願寺を譲る。

明応5年(1496年) 蓮如82歳。
9月、大坂に坊舎を建立を始める。

同6年(1497年) 蓮如83歳。
大坂の坊舎が完成して、隠居所とする。
(大坂御坊)

同7年(1498年) 11月22日付の蓮如の『御文(御文章)』四帖の十五に、「大坂」という地名が史料にはじめて現れる。

「そもそも當國摂州東成郡生玉に荘内大坂といふ在所は往古よりいかなる約束のありけるにや、さんぬる明応第五の秋下旬のころより、かりそめながらこの在所をみそめしより、すでにかたのごとく一宇の坊舎を建立せしめ、年はやすでに三年の星霜をへたりき。
これすなはち往昔の宿縁あさからざる因縁なりとおぼえはんべりぬ。」

同8年(1499年) 春。
蓮如の病状悪化。

2月20日 (旧暦) 山科本願寺に帰る。

3月25日 (旧暦) 蓮如示寂。

戦国時代の本願寺 (戦国大名の門徒禁圧)

第9代実如・第10代証如・第11代顕如の時代100年間は、戦国混乱の時期にあたる。
本願寺は民衆が支配者に対して展開した解放運動のささえとなり、社会変革の思想的原動力となった。

その間に、本願寺の教勢は大いに発展し、日本有数の大教団として、また一個の強力な社会的勢力としての地位を得るにいたる。

明応9年(1500年) 実如の長男照如、22歳で入寂。

永正年間。
越前(福井県)の朝倉氏の内紛に加賀(石川県)の門徒が介入。

永正元年(1504年) 相模国(神奈川県)の後北条氏は、この年から50年間にわたって領内の浄土真宗を禁ずる。

同3年(1506年) 近畿・北陸・東海で、本願寺門徒が一斉に蜂起。

同4年(1507年) 細川政元が家督争いのため殺された。
本願寺は蓮如以来、政元と親交があり、紛争にまきこまれることを恐れ、実如と宗祖真影は近江堅田に避難。
2年近く滞在。

同13年(1516年)後柏原天皇の勅願寺となる。

同18年(1521年) 越後国(新潟県)の長尾氏、本願寺門徒を禁圧。

大永元年(1521年) 実如の次男円如、32歳で入寂。

同5年(1525年)2月2日 (旧暦) 実如、68歳で入寂。

天文 (元号)元年(1532年) 細川晴元を助け、近畿の門徒2万人を動員して畠山氏を破る。
同年8月、京都の日蓮宗徒と近江の六角定頼の連合軍、山科本願寺を焼却。
(法華一揆)

大坂石山の坊舎(大坂御坊)へ移る。
(大坂石山本願寺)

同10年(1541年) 朝倉氏との間で和談。

同22年(1553年) 長尾景虎(上杉謙信)は京都への通路を確保するため本願寺と和解。

同23年(1554年)8月11日 (旧暦) 顕如、得度。
12歳

同23年(1554年)8月13日 (旧暦) 証如、39歳で入寂。

弘治 (日本)2年(1556年) 朝倉氏との間で講和成立。

永禄2年(1559年) 顕如、門跡に列せられる。

下間氏が坊官、三河本宗寺・播磨本徳寺・河内顕証寺 (八尾市) が院家となる。

同6年(1563年) 三河国(愛知県)の本願寺門徒、徳川家康と争い、翌年に和睦。
これ以後、徳川家康は領国内の本願寺門徒を禁圧。
禁圧がとけたのは、20年後の天正11年(1583年)。

薩摩(鹿児島県)の島津氏、明治初年まで禁教を継続。

同11年(1568年) 織田信長、京都に入る。

同12年(1569年) 顕如の次男顕尊が入寺した興正寺は脇門跡に任ぜられる。

元亀元年(1570年) 天下統一を目指す織田信長が、一大勢力である浄土真宗門徒の本拠地でありかつ西国への要衝でもあった環濠城塞都市石山からの退去を命じたため、戦いに発展する(石山合戦)。
約10年間継続。
石山合戦の頃から、本願寺は、石山御坊といわれた。

天正8年(1581年)3月 顕如、信長と和議。
石山を退去して紀伊国鷺森に寺基を移転(紀伊鷺森本願寺)。
石山本願寺の堂舎はすべて炎上する。

1583年、石山本願寺跡地を含む一帯に豊臣秀吉によって大坂城が築かれた。

同11年(1583年) 宗祖真影を奉じて、和泉国の貝塚にある石山本願寺の末寺であった寺(のちの願泉寺 (貝塚市))に移る。
(貝塚本願寺)

同13年(1585年)5月 豊臣秀吉の寺地寄進を得て、大坂の天満(てんま)に移る。
同年8月にまず阿弥陀堂を建て、翌年の8月には十間四面の御影堂が落成する。
(大坂天満本願寺)

同19年(1591年) 秀吉から京都へ再び寺地の寄進を受け、現在の西本願寺の場所に本願寺の御影堂と阿弥陀堂とが完成する。

同20年(1592年) 11月24日 (旧暦) 顕如は50歳で入寂。

東西本願寺

石山戦争の終結をめぐり顕如と長男教如の意見が対立。
顕如が入寂すると、教如が継職。
さらに譲状によって、教如は隠退し、准如が本願寺第12代を継職。

慶長7年(1602年) 家康は教如に本願寺の東へ寺地を寄進。

翌年、教如は家康より寄進された寺地へ、常陸国(茨城県)妙安寺から宗祖の木像を迎え、御堂を建立して安置、本願寺を別立する。

その後、教如へ帰依する門徒も多くなり、やがて門徒は集合離散し、本願寺教団は東西にほぼ半分に分割される。
それ以後400年以上に渡り現在の地で法灯を掲げている。

[English Translation]