曹洞宗 (Soto Sect)

曹洞宗(そうとうしゅう)は、中国の禅宗五家(臨済宗、潙仰宗、曹洞、雲門宗、法眼宗)の1つで、日本においては禅宗(日本達磨宗・臨済宗・曹洞宗・黄檗宗・普化宗)の1つである。
本山は永平寺(福井県)・總持寺(横浜市鶴見区 (横浜市))。
臨済宗とことなり公案を用いず、ただ専ら坐禅する黙照禅であることを特徴とする。

日本における曹洞宗

日本における曹洞宗は道元に始まる。
道元は、鎌倉時代に南宋に渡り、天童山で曹洞宗の天童如浄に師事し、1226年に帰国した。

道元自身は自らの教えを「正伝の仏法」であるとしてセクショナリズムを否定した。
このため弟子たちには自ら特定の宗派名を称することを禁じ、禅宗の一派として見られることにも拒否感を示した。
どうしても名乗らなければならないのであれば「仏心宗」と称するようにと示したとも伝えられる。

後に興福寺から迫害を受けた日本達磨宗の一派と合同したことをきっかけとして、道元の入寂後、次第に禅宗を標榜するようになった。
宗派の呼称として「曹洞宗」を用いるようになったのは、第四祖瑩山紹瑾とその後席峨山韶碩の頃からである。

臨済宗が時の武家政権に支持され、政治・文化に重んじられたのに対し、曹洞宗は地方武家、豪族、下級武士、一般民衆に広まった。

教義

「正伝の仏法」を伝統とし、「南無釈迦牟尼仏」として釈迦を本尊と仰ぎ、「即心是仏」の心をもって、主に坐禅により働きかける。

曹洞宗の坐禅は中国禅の伝統と異なり、「修証一如」(無限の修行こそが成仏である)という道元の主張に基づいて「只管打坐(しかんたざ)」(ひたすら坐禅すること)をもっぱらとし、臨済宗のように公案を使う(悟りのための坐禅)流派もあることはあるが少数である。

また、道元の著書である『正法眼蔵』自体は仏教全般について記しており、不立文字を標榜する中国禅の立場からはやや異質である。

2005年現在、三大スローガンとして「人権」「平和」「環境」を掲げる。

主な経典

主によまれる経典

『般若心経』

『妙法蓮華経観世音菩薩普門品』

『妙法蓮華経如来寿量品』

『大悲心陀羅尼』

『甘露門』

『参同契』

『宝鏡三昧』

『舎利礼文』

基本となる祖録

『正法眼蔵』 - 道元が著述(未完。
後に弟子が編集)

『伝光録』 - 瑩山の提唱を側近がまとめたもの

『修証義』 - 明治時代に『正法眼蔵』から文言を抽出して信者用に再編

ご詠歌・和讃

梅花流詠讃歌

まごころに生きる(南こうせつ作詞・作曲)

大本山(根本道場)

両大本山の住職を貫首と呼び、2人の貫首が2年交代で管長(宗門代表)となる。
宗派の約15,000ヵ所寺は永平寺派の有道会と、總持寺派の總和会に二分されており、宗務総長も両派が1期4年ごとに交代で担当している。
閣僚にあたる内局の部長7名も両派でほぼ半数ずつ、宗議会議員(定数72名)も36選挙区ごとに両派から1名ずつ選ばれている。
系列の学校法人も永平寺系の駒澤大学、東北福祉大学、總持寺派の愛知学院大学、鶴見大学などに二分されており理事長や学長は実質的にそれぞれの派が指名権を持っている。

永平寺 - 福井県永平寺町(貫首:福山諦法禅師)

寛元2年(1244年)に、道元が越前国の波多野義重の要請で開く。

永平寺別院長谷寺 - 東京都港区 (東京都)

永平寺名古屋別院 - 愛知県名古屋市東区 (名古屋市)代官町

永平寺鹿児島別院紹隆寺 - 鹿児島県姶良郡松原

總持寺 - 横浜市鶴見区 (横浜市)(貫首:大道晃仙禅師)

元亨元年(1321年)に、瑩山紹瑾が能登国の定賢律師の要請で石川県輪島市門前町 (石川県)に開く。
明治31年(1898年)に火災で焼失し、明治44年(1911年)に現在地に移転。

總持寺祖院 - 明治38年(1905年)より元の地(石川県輪島市門前町)に復興

法源寺 - 北海道松前郡松前町 (北海道)松城

歴史的には正法寺 (奥州市)(岩手県奥州市)が奥羽二州の本山、大慈寺(熊本県熊本市)が九州本山であった期間があるが、元和 (日本)元年(1615年)の寺院法度により永平寺、總持寺のみが大本山となる。

派生した教団

如来宗(如来教) - 享和2年(1802年)に一尊如来きのによって名古屋に開かれた。
明治17年(1884年)以降、昭和26年(1951年)に宗教法人法の施行によって独立するまで曹洞宗の教会として活動。
同宗の教義は金毘羅信仰や浄土信仰などの混生であり、曹洞宗本来の教えとは関連が薄い。

一尊教団 - 上記教団の分派。
石川県金沢市を中心に活動。

救世教 - 明治19年(1886年)、新潟の大道長安が曹洞宗から離脱して結成。
大慈大悲の事実上の如来である観音菩薩を本尊として、自力他力を超えた観音妙力による現世救済を主張した。
社会福祉に力を注ぎ全国に教線を拡大したが、明治41年(1908年)に大道長安が入寂すると後継者がいないこともあって急速に衰退。

法王教 - 明治後期から大正期にかけて高田道見が推進した“通俗的”布教運動。
道見は青松寺を拠点として参禅会や訪問法話会などの教化活動を続けていたが、大正期に入ってからは曹洞宗の教義にこだわらず、月刊誌などの出版物、講演会を通した在家仏教の振興に力を注いだ。
自らの活動に「法王大聖釈迦牟尼仏の本旨に基づく仏教」という意味で「法王教」の名を冠した。
大正12年(1923年)、道見が入寂すると独自の教派名を冠した運動は終息した。
なお、道見は最後まで曹洞宗の僧籍を保持していたため、「法王教」を独立した教団ではなく曹洞宗内の一運動であったとする見方が一般的である。

三宝教団 - 昭和29年(1954年)、安谷白雲が曹洞宗から離脱して神奈川県鎌倉市に結成。
同教団は道元の教えを中核に置きながら、公案を取り入れるなど独自の修行法を構築。
現在は一般在家者への坐禅指導を中心とし、海外にも参禅拠点がある。

この他、曹洞宗系の単立寺院が少数存在する。

[English Translation]