天台宗 (Tendai Sect)

天台宗(てんだいしゅう)は大乗仏教の宗派のひとつである。
妙法蓮華経を根本経典とする。
中国に発祥し、最澄によって平安時代初期に日本に伝えられた。

中国の天台宗

中国の天台宗は、隋の智ギ(ちぎ)(538年-597年、天台智者大師)を実質的な開祖とする大乗仏教の宗派である。

初祖は北斉の慧文、第二祖は衡山慧思(515年-577年)であり、慧思の弟子が智ギである(竜樹を初祖とし慧文を第二、慧思を第三、智顗を第三祖とする場合もある)。

智ギは、鳩摩羅什訳の法華経・摩訶般若波羅蜜経・大智度論、そして涅槃経に基づいて教義を組み立て、法華経を最高位に置いた五時八教という教相判釈(経典成立論)を説き、止観によって仏となることを説いた学僧である。

しかしながら、「鳩摩羅什の訳した法華経は、現存するサンスクリット本とかなり相違があり、特に天台宗の重んじる方便品第二は羅什自身の教義で改変されている」という説がある。
羅什が法華経・摩訶般若波羅蜜経・大智度論を重要視していたことを考えると、天台宗設立の契機は羅什にあるといえなくもない。

天台山に宗派の礎ができた後、涅槃宗を吸収し天台宗が確立した。
主に智顗の法華玄義、法華文句、摩訶止観の三大部を天台宗の要諦としている。
これらの智ギの著作を記録し編集したのが、第四祖章安灌頂(561年-632年)である。
灌頂の弟子に智威(?-680年)があり、その弟子に慧威(634年-713年)が出て、その後に左渓玄朗(673年-754年)が出る。
灌頂以後の天台宗の宗勢は振るわなかったため、玄朗が第五祖に擬せられている。

玄朗の弟子に、天台宗の中興の祖とされる第六祖、荊渓湛然(711年-782年)が現れ、三大部をはじめとした多数の天台典籍に関する論書を著した。

日本の天台宗

正式名称は天台法華円宗。
法華円宗、天台法華宗、あるいは、単に法華宗などとも称する。
但し、最後の呼び名は日蓮教学の法華宗と混乱を招く場合が有るために用いないことが多い。
初め、律宗と天台宗兼学の僧鑑真和上が来日して天台宗関連の典籍が日本に入った。
次いで、伝教大師最澄(さいちょう、767年-822年)が延暦24年(805年)唐に渡り天台山にのぼり、その教えを受けて翌年(806年)帰国し伝えたのが日本における天台宗のはじまりである。

この時代、すでに日本には法相宗や華厳宗など南都六宗が伝えられていたが、これらは中国では天台宗より新しく成立した宗派であった。
最澄は日本へ帰国後、比叡山延暦寺に戻り、後年円仁・円珍等多くの僧侶を輩出した。
最澄はすべての衆生は成仏できるという法華一乗の立場を説き、小乗的立場を堅持する奈良仏教と論争が起こる。
特に法相宗の徳一との論争は有名である。
また、鑑真和上が将来した小乗戒を授ける戒壇院を独占する奈良仏教に対して、大乗戒壇を設立し、大乗戒を受戒した者を天台宗の僧侶と認め、菩薩僧として12年間比叡山に籠山して学問・修行を修めるという革新的な最澄の構想は、既得権益となっていた奈良仏教と対立を深めた。
当時大乗戒は俗人の戒とされ、僧侶の戒律とは考えられておらず(現在でもスリランカ上座部など南方仏教では大乗戒は戒律として認められていない)、南都の学僧が反論したことは当時の常識に照らして妥当なものと言えよう。
論争の末、最澄の没後に大乗戒壇の勅許が下り、名実ともに天台宗が独立した宗派として確立した。

天台密教(台密)

真言宗の密教を東密と呼ぶのに対し、天台宗の密教は台密と呼ばれる。
日蓮を末法の本仏とする宗派などは、現在の日本の天台宗は密教を大幅に取り入れているためむしろ真言宗に近く、最澄亡き後、その意向を無視した円仁・円珍などが真言密教を取り入れ比叡山を謗法化(正しい法を信じずそしること)したものだと批判する向きもある。
しかしこれには歴史的な事情など考慮すべきポイントがいくつかある。

当初、中国の天台宗の祖といわれる天台大師智顗が、法華経の教義によって仏教全体を体系化した五時八教の教相判釈(略して教判という)を唱えるも、その時代はまだ密教は伝来しておらず、その教判の中には含まれていなかった。

しかし日本天台宗の宗祖・伝教大師最澄が、唐に渡った時代になると最新の仏教である密教が伝えられていた。
最澄はまだ日本では密教が不備であることを憂い、密教を含めた仏教のすべてを体系化しようと考え、順暁(じゅんぎょう)から密教の灌頂を受け持ち帰った。
しかし最澄が帰国して一年後に空海が唐から帰国すると、自身が唐で順暁から学んだ密教は傍系のものだと気づき、空海に礼を尽くして弟子となり密教を学ぼうとするも、次第に両者の仏教観の違いが顕れ決別した。
これにより日本の天台教学における完全な密教の編入はいったんストップした。

とはいえ、最澄自身が法華経を基盤とした戒律や禅、念仏、そして密教の融合による総合仏教としての教義確立を目指していたのは紛れもない事実であり、円仁・円珍などの弟子たちは最澄自身の意志を引継ぎ密教を学び直して、最澄の悲願である天台教学の確立を見たのである。
したがって今日の天台密教の系譜は、円仁・円珍に起因するものではなく、そもそも最澄にその源流を見出だすことができる。
また円珍は、空海の「十住心論」を五つの欠点があると指摘し「天台と真言には優劣はない」と反論しており、日蓮を本仏とする宗派の、円仁・円珍は天台に真言密教を取り入れ謗法化したなどという見解はここにおいても完全に否定されている。

なお真言密教(東密)と、天台密教(台密)の違いは、東密は大日如来を本尊とする教義を展開しているのに対し、台密はあくまで法華一乗の立場を取り、法華経の本尊である久遠実成の釋迦牟尼仏としていることである。

四宗兼学

また上記の事項から、同じ天台宗といっても、智顗が確立した法華経に依る中国の天台宗とは違い、最澄が開いた日本の天台宗は、智顗の説を受け継ぎ法華経を中心としつつも、禅や戒、念仏、密教の要素も含み、それらの融合を試みた独特なもので、性格がやや異なるもの、また智顗の天台教学を継承しつつそれをさらに発展しようと試みたものであると指摘されている。
したがって延暦寺は四宗兼学の道場とも呼ばれている。

止観行

天台宗の修行は法華経を中心とする法華禅とも言うべき「止観」を重んじる。
また、現在の日本の天台宗の修行は朝題目・夕念仏という言葉に集約される。
午前中は題目、つまり法華経の読誦を中心とした行法(法華懺法という)を行い、午後は阿弥陀仏を本尊とする行法(例時作法という)を行う。
これは後に発展し、「念仏」という新たな仏教の展開の萌芽となった。
天台密教(台密)などの加持も行い、総合仏教となる事によって基盤を固めた(しかし、法華経の教義が正しいのならば、なぜ念仏や加持を行わねばならないのか、という疑問・批判もある)。
さらに後世には全ての存在に仏性が宿るという天台本覚思想を確立することになる。
長く日本の仏教教育の中心であったため、平安時代末期から鎌倉時代にかけて融通念仏宗・浄土宗・浄土真宗・臨済宗・曹洞宗・日蓮宗などの新しい宗旨を唱える学僧を多く輩出する事となる。

[English Translation]