大谷光照 (OTANI Kosho)

大谷 光照(おおたに こうしょう、1911年(明治44年)11月1日 - 2002年(平成14年)6月14日)は日本の宗教家。
浄土真宗本願寺派第23世門主。
伯爵。
諱は光照。
法名 (浄土真宗)は勝如。

経歴

第22世門主光瑞(鏡如)の実弟大谷光明(浄如)の長男として京都府京都市に誕生。
母は九条道孝の七女紝子(きぬこ)。
紝子の姉は大正天皇皇后(貞明皇后)の節子。

1914年(大正3年)、西本願寺の疑獄事件に端を発して光瑞が門主を引退。
弟の光明に継承権があったが、光瑞が遠慮を求めて光明も就任を辞退。
新々門であった光照は当時2歳であったため、大谷家側近(近松尊定など)が4代にわたり管長代理を務めた。
1927年(昭和2年)15歳で得度して第23世門主を継職。

その後、旧制第一高等学校を経て1935年(昭和10年)東京大学文学部東洋史学科卒業。
1937年(昭和12年)4月、徳大寺実厚長女の嬉子と結婚。
以後50年の間、本願寺派教団の陣頭指揮にあたった。
1977年(昭和52年)、門主を引退し前門となる。

戦前戦中の活動

青年門主光照は、昭和の戦時下の教団を指導した。
昭和8年には声明集の改定に取り組むなどした。
その一方で、1941年(昭和16年)に宗制を改定し、従来神祇不拝を旨としていた宗風を放棄し、「王法為本ノ宗風ヲ顕揚ス是レ立教開宗ノ本源ナリ」と宣言。
国家神道と結びついた、いわゆる戦時教学を推し進めていった。

特に、親鸞の著作に皇室不敬の箇所があるとして該当部分を削除するよう命じた(聖典削除問題)。
彼は、門信徒に戦争協力を促す消息(声明)を発して戦時体制を後押しした。
光照自らも度々軍隊慰問を行った。
南京大虐殺の直後には自ら南京市に入城し犠牲者追弔会を行っている。

教団も戦争協力の名目で大量の戦時国債を購入し、戦後の教団財政の危機を招くこととなった。

いわゆる戦時教学を確立させ、指導的立場にあった僧侶の戦争責任を問う声も根強い一方、時代の流れとして止むを得なかったとする評価もある。

戦後の主な活動

1946年(昭和21年)
管長制廃止などの教団制度改革を実施
1948年(昭和23年)
450回遠忌法要
1961年(昭和36年)
- 親鸞聖人700回大遠忌法要
1973年(昭和48年)
- 親鸞聖人誕生800年・立教開宗750年慶讃法要

主な職歴

1952年(昭和27年)
- 第2回世界仏教徒会議名誉総裁
1955年(昭和30年)
- 全日本仏教会会長
1956年(昭和31年)
全国教誨師連盟総裁
1961年(昭和36年)
- 全日本仏教会会長(2回目)
1962年(昭和37年)
- 財団法人全国教誨師連盟総裁
1969年(昭和44年)
- 全日本仏教会会長(3回目)
1970年(昭和45年)
世界宗教者平和会議名誉総裁

人物

門主在任中には、正信偈の改譜をはじめ、法式規範などを着々と整備していった。
このことからも伺えるように、儀式儀礼には非常に厳格な面があった。

趣味は切手収集、テニス、ゴルフ好きでも知られた。

[English Translation]