卍山道白 (MANZAN Dohaku)

卍山道白(まんざんどうはく。寛永11年(1635年)-正徳 (日本)5年(1715年))は江戸初期の曹洞宗僧侶。

備後国(現在の広島県)出身。
俗姓は藤井氏。
復古道人と号する。
10歳で龍興寺の一線道播について得度。
龍興寺を退任した道播にしたがって東下する。
高秀文春、月舟宗胡らの下に参禅。
月舟宗胡の法を嗣ぐ。
宗胡の後席として加賀国(現在の石川県)大乗寺の住職となる。

師僧宗胡、面山瑞方らと共に宗統復興を唱え宗門の嗣法・規矩の更正に尽力した。
当時の曹洞宗では師僧から弟子に面授される法統(人法)の他に、寺院の住職を継ぐことによって伝えられる法統(伽藍法)があるとされ、両者の混乱から様々な弊害を生じていた。
これに対し、道白らは宗祖道元が尊重した一師印証の面授嗣法(人法)のみを正統とするべきであると訴えた。
道白らの運動は寺社奉行を動かし、永平寺法度・總持寺法度の制定によって達成された。

また、隠元隆きの「黄檗清規」を手本として、乱れを生じていた宗派の規矩を整理、刷新を図った。
道白の大乗寺は厳正な規矩で知られるようになり「規矩大乗」と呼ばれた。
元禄2年(1689年)には永平寺住職晃全が叢規復興にあたって道白らに顧問を要請するなど刷新は宗派内に着実に定着していった。
しかし一方で天桂伝尊などが、道元以来の宗規に拠らず他流(黄檗宗)の清規を当てはめようとした道白を「形式主義」と批判し、論争をよんだ。

これらの論争は曹洞宗における宗学研究、宗典の校訂・出版を活性化させ多くの業績を生む原動力となった。
道白自身も大乗寺において道元の『正法眼蔵』の編集を行い、卍山本(89巻本)として現在に残されている。

大乗寺を明州珠心にゆずった後、摂津国(現在の大阪府)の興禅寺に隠棲した。
元禄7年(1694年)、請われて山城国(現在の京都府)の臨済宗の古刹、源光庵を復興し、曹洞宗にあらためた。

道白の高名をきいた霊元天皇が、問法のため招請したが病と称して辞退した。
惜しんだ法皇は手許品の綿を下賜したという。

正徳5年(1715年)、80歳で病没。

[English Translation]